Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 正岡子規
  慶応3年9月17日〜明治35年9月19日(1867年10月14日〜1902年9月19日)

      

 【台東区】
  千束
   ○ 鷲神社     ※別頁
  下谷
   ○ 入谷鬼子母神  ※別頁
  根岸
   ○ 子規庵
   ○ 元三島神社
   ○ 根岸の里
   ○ 旧町名由来案内 旧上根岸町
   ○ 八二神社    ※別頁
   ○ 御行の松不動尊
   ○ 根ぎし 笹乃雪  ※別頁
   ○ 根岸薬師堂   ※別頁
  東上野
   ○ 下谷神社
  上野公園
   ○ 正岡子規記念球場 ※別頁
   ○ 五條天神社    ※別頁
  東日暮里
   ○ 羽二重団子本店
   ○ 芋坂 ※別頁
  浅草
   ○ 山谷堀公園   ※別頁
   ○ 隅田公園    ※別頁
   ○ 浅草寺新奥山
   ○ 駒形橋     ※別頁

 【中央区柳橋】
   ○ 柳橋銘板〜正岡子規 ※別頁

 【向島】
   ○ 長命寺桜もち山本や ※別頁

 【目黒不動尊】
   ○ 目黒不動と文人  ※別頁

 【北区田端】
   ○ 正岡子規墓(大龍寺) ※別頁
   ○ 田端文士村記念館   ※別頁

 【道灌山/諏訪台通り】
   ○ 道灌山     ※別頁
   ○ 路面パネル   ※別頁

 【足立区島根】
   ○ 鷲神社     ※別頁

 【川崎】
   ○ 稲毛神社    ※別頁
   ○ 中島八幡神社  ※別頁

 【草加宿】
   ○ 正岡子規句碑  ※別頁

 【飯坂温泉】
   ○ 与謝野晶子/正岡子規 歌碑 ※別頁

 【道後温泉】
   ○ 正岡子規像   ※別頁


子規庵 台東区根岸2-5-11 03-3876-8218
 
(説明板)
「東京都指定史跡  子規庵
     所在地 台東区根岸二丁目五番十一号
     指 定 昭和三十五年四月一日
 正岡子規(一八六七ー一九○二)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升、
本名は常規、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
 著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
 子規はこの場所に明治二十七年(一八九四)二月から住み、同三十五年(一九○二)九月十九日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
 昭和二十年(一九四五)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和二十五年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
 史跡に指定されている土地の面積は四○五.六平方メートル。
  平成十二年三月設置  東京都教育委員会」

     

    

     

  


元三島神社 台東区根岸1-7-11

 松山俳句協会建立の正岡子規句碑があります。

 「根岸名所ノ内
  木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前 子規」
 (背面)
 「平成十三年三月吉日
  正岡子規没後百年祭記念
  松山俳句協会建立
  台東区俳句人連盟協力」

    

    


根岸の里 台東区根岸3-9-8区立根岸小学校

 根岸の里は上野の山蔭にあり、江戸時代から多くの文人墨客が住んでいました。
 鶯の名所でもありました。

<正岡子規句碑>

 「雀より 鶯多き 根岸哉 子規」
 (背面)
 「平成十三年九月十九日
  正岡子規没後百年記念
  台東区俳句人連盟 根岸の里俳句会 建立」

    
 

「根岸の里(江戸名所図会)」

  
 

「根岸の里(絵本江戸土産 広重)」

 「東叡山の北の麓すべてここを根岸という 元より閑雅幽栖の地にて文人墨客の世を避るもの
  ここに庵を結ぶも多く自然風雅の地となれり」

  
 

「東京名所三十六戯撰 根岸の里」(昇齋一景 明治5(1872)年)

 ホタル狩りで、夜の水路で転んでいます。虫籠が放り出され、ホタルが逃げています。
 団扇で蛍を追っている女性の着物は朝顔の図柄です。
 江戸時代、ホタル狩りの名所として、「落合のほたる」「谷中の蛍沢」「音無川のほたる」などが有名でした。
 根岸の里もホタル狩りの名所だったのですね。

  
 

<庚申塔3基> 台東区根岸3-9-7

  


○旧町名由来案内 旧上根岸町 台東区根岸3-4

 言問通りの歩道に「旧町名由来案内 旧上根岸町」が設置されています。
 「雀より鶯多き根岸かな」(子規)

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 上根岸町
 呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。
 そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(一八○四〜一八三○)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治二十二年(一八八九)、根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。
 「雀より鶯多き根岸かな」
 俳人正岡子規は、明治二十五年から同三十五年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。 台東区」

   


御行の松不動尊 台東区根岸4-9-5

<正岡子規句碑>

 「薄緑  お行の松は  霞みけり 子規」
 (背面)
 「平成十三年九月十九日
  正岡子規没後百年記念
  台東区俳句人連盟蕣俳句会建立」

   
 

<松一本 根岸の秋の 姿かな 正岡子規>
<青々と 冬を根岸の 一つ松 正岡子規>

  
 

 不動堂と御行の松は、江戸名所図会や広重の絵にも描かれています。

<時雨岡 不動堂(江戸名所図会)>

  
 

<根岸御行の松(絵本江戸土産 広重)>

  
 

<江戸名勝図会 御行の松(広重)>

  
 

<石柵寄進>

 不動堂を囲む石柵には、寄進者の名前が沢山刻まれています。
 画像は「根ぎし 笹の雪」の寄進。

  
 

<御行の松>

(説明板)
「御行の松
 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。
 初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ一三・六三m、幹の周囲四4・○九m、樹齢三五○年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
 二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名「時雨の松」とも呼ばれた。
  平成十年三月  台東区教育委員会」

  
 

<初代「御行の松」/御行松碑>

 1928(昭和3)年夏に初代「御行の松」は枯死しています。
 初代「御行の松」の隣りには、大きな「御行松」碑があります。
 裏面には、初代御行松が枯れた経緯などが刻まれ、昭和5年と刻まれています。

    
 

<御行松不動尊之碑>

 明治15年の碑です。

  
 

<4代目松>

 2018(平成30)年4月、4代目の松が植えられています。

   
 

<狸塚と双子狸>

 三遊亭円朝「根岸お行の松 因果塚の由来」に因んでつくられました。

  
 

<歌碑>

  
 

<不動堂>

     
 

<掲示>

    

    
 

みはるや(三陽屋)>  荒川区東日暮里4-20-3 03-3801-3542 6:00-(売切次第)日祝休

 すぐ近くにあるコッペパンのお店です。売り切れ早い。

    


下谷神社 台東区東上野3-29-8
 

<正岡子規句碑>

 「寄席はねて  上野の鐘の  夜長哉 子規」
 (背面)
 「平成十三年九月十九日
  正岡子規没後百年記念
  台東区俳句人連盟皐月会建立」

   
 

<江戸名所図会 下谷稲荷明神社>

 江戸名所図会に、下谷稲荷明神社が描かれています。

  
 

<下谷神社>

    

    

(説明板)
「下谷神社
    台東区東上野三丁目二十九番八号
 天平二年(七三○)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(一六二七)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(一六八○)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
 本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
 「下谷神社」と改称したのは明治五年(一八七二)である。関東大震災の後、昭和三年(一九二八)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
  平成十六年三月  台東区教育委員会」

  
 

<寄席発祥之地>

 「江戸時代寛政10年(1979)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、
  素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。」
  (TAITOおでかけナビより引用)
  三笑亭可楽の墓は、潮江院(台東区今戸)にあります(別途記載)。

   
 

<隆栄稲荷神社>

   


羽二重団子本店 荒川区東日暮里5-54-3 03-3891-2924 HP
 

<正岡子規句碑>

 羽二重団子本店脇に、正岡子規句碑があります。

 「芋坂も 団子も月の ゆかりかな」

      
 

<羽二重団子本店>

 文政2年創業。
 田山花袋書があります。昭和4年(1920)中秋 録は花袋の号。
 夏目漱石「我輩は猫である」でも、羽二重団子が登場します。

     

    

 値段は高いのですが、落ち着いた甘さで、歴史を噛みしめて美味しい。

     
 

<店の歴史>

 ・江戸期より明治22年までの茅葺の店舗。伊藤晴雨画
 ・明治22年より昭和17年までの木造店舗。
 ・昭和7年より昭和46年までの木造店舗。
 ・昭和46年より昭和58年までの、木造との併設ビル。
 ・昭和58年より平成29年までのビル。

      
 

善性寺> 荒川区東日暮里5-41-14

 羽二重団子の向かいに、善性寺があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 将軍橋と芋坂(善性寺)
 善性寺は日蓮宗の寺院で、長亨元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
 宝永年間(一七○四〜一七一一)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
   芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
     荒川区教育委員会」

    
 

 <将軍橋>

    


浅草寺新奥山 台東区浅草2-7-31

 浅草寺本堂西側の一画が「新奥山」として整備されており、多くの碑、像が建っています。
 元禄時代の歌人・戸田茂睡の墓、社会事業に尽くした瓜生岩子女史の銅像、「喜劇王」曽我廼家五九郎の顕彰碑、
 喜劇人の碑、映画弁士塚など、浅草の娯楽を支えた人びとを記念する諸碑が並んでいます。
 その一画に「正岡子規句碑」があります。

 「観音で雨に逢いけり花盛 子規」
  平成13(2001)年9月19日正岡子規没後百年記念として台東区俳句人連盟が建立。

     


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