渋沢家墓所を線路方面に行くと御隠殿坂となります。
(説明板)
「御隠殿坂
明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿い鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以ってなり。」とある。
御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。
江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。」
<御隠殿坂>
坂を下って直進すると御隠殿橋ですが、左手に下りていくのが本来の御隠殿坂です。
踏切の痕が見えます。
(標柱)
「御隠殿坂
明治四十一年刊『新東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。
平成二十二年三月 台東区教育委員会」
<御隠殿橋>
橋脚はコンクリートです。
<墓地>
施錠されているので外から見るだけですが、立派な墓地です。墓石は僧の形態です。
台東区谷中から荒川区東日暮里へ下る坂。
芋坂児童遊園を回り込んで下り、線路で道が途切れています。
荒川区側に下りてくると、羽二重団子の横に出ます。正面に将軍橋が見えます。
(標柱)
「芋坂(いもざか)
坂を登れは谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これにかかる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
平成十二年三月 台東区教育委員会」
<芋坂人道跨線橋>
古レールをYの字に組んだ橋脚が壮観です。
<将軍橋> 荒川区東日暮里5-41-14
将軍橋のある善性寺は関道閑の開基で、道灌山の由来は、太田道灌と関道閑の2説があります。
<羽二重団子> 荒川区東日暮里5-54-3