○地方橋
○地方新橋
○紙洗橋
○山谷堀橋
○正法寺橋
○吉野橋
○聖天橋
○今戸橋
○隅田公園
(説明板)
「山谷堀ヒストリカルツアー 山谷堀
かつて山谷堀は、北区王子の音無川を通り隅田川に流れる水路だった。
遊郭が新吉原に移転した後、当時の江戸の人々にとって、猪牙舟に乗って山谷堀を通り、吉原の遊郭へ遊びに行くことは、大変製沢であった。
その後、山谷堀は、 経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。
掲載写真は、 暗果化される前の山谷堀の様子である。昭和52年(1977) 以降、台東区が上部を公園に整備し、山谷堀公園となった。」
(猪牙舟で山谷堀を通って吉原に行くのは俗説です。一般に今戸桟橋で猪牙舟を降り、徒歩か駕籠で土手八丁を行きました。)
(説明板)
「山谷堀ヒストリカルツアー 新吉原
明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3,000入の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。
新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置にあったとされる「見返り柳」ゃ、大門と桜並木と艶やかな遊安の様子が猫かれ、当時の賑わいを見ることができる。」
山谷堀公園改造工事(第1〜2期)が終了し、2018年3月竣工しました。
地方橋から吉野橋まで、一部の親柱がなくなったのは残念ですが、来歴は保存されています。
新たな掲示板やオブジェが設置されていて、山谷堀水門まで新しくなった点の記録です。
第3期の最終の改造工事が、聖天橋から今戸橋まで、2019年度に始まっています。
<来歴>
来歴が綺麗になって、新たな石に組みこまれています。
地方橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
一 起工 昭和四年四月
一 竣工 昭和四年八月
一 工費 弐萬四百圓
東京市
<日本堤>
日本堤の説明板が新たに設置されました。
(説明板)
「山谷堀ヒストリカルツアー 日本堤
日本堤は新吉原への道のひとつとして、浮世絵や歌舞伎の題材にも取り上げられ、江戸の名所として賑わいを見せた。日本堤が築かれたのは、新吉原ができる37年前の元和6年(1620)とされ、その理由は、湿地帯である浅草・下谷を隅田川出水による氾濫の被害から防ぐためであった。江戸幕府が全国の諸大名に命令して築堤したことから「日本堤」と呼ばれるようになったといわれるが、由来は諸説ある。
浮世絵を見ると、吉原に向かう遊客相手の茶屋などが日本堤沿いに立ち並んでいる様子や、遊郭の中にいる猫が酉の市帰りの客を見下ろしている場面、田圃の中で狸に化かされた人たちのユーモラスな様子などが描かれている。」
「ひやかし」の語源となった橋です。
<来歴>
紙洗橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
一 起工 昭和四年七月
一 竣功 昭和四年九月
一 工費 壱萬弐千圓
東京市
紙洗橋と山谷堀橋との間の山谷堀橋近くです。
囲いがなくなり、トグサに埋もれて目立たなくなりました。
<来歴>
ここの来歴は、古いままです。
「山谷堀橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ新設シタルモノナリ
一 起工 昭和四年五月
一 竣功 昭和四年九月
一 工費 壱萬九千四百圓
東京市」
ここは来歴なし。
<親柱>
親柱は残っていて、プレートのみ交換です。
猪牙舟の説明板が新たに設置されました。
川柳「今戸橋上より下を人通る」と詠まれるほど、猪牙船の遊客の賑わいが伺えます。
(説明板)
「猪牙舟
猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷船とも呼ばれていた。当時の江戸の人々にとって、舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変賛沢であった。
舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからというものや、長吉という人が考案した「長吉舟(ちょうきちぶね)」が訛って「ちょきぶね」になった、と諸説あり、速度の速い舟であった。(1尺=30.3
センチメートル、1寸=3.03 センチメートル)
浅草聖天町出身の池波正太郎の作「鬼平犯科帳」の中にも多く登場している。」
猪牙舟は、柳橋の船宿から隅田川をさかのぼり山谷堀に至り、今戸橋を過ぎたあたりの船宿の桟橋に着きます。
今戸橋桟橋で下船し、船宿で一服してから、日本堤を徒歩か籠で吉原に向かいます。
今戸の船宿は吉原に行く遊客のほか、猿若町へ行く芝居客の中継地でもありました。
説明板にあるように、吉原まで猪牙舟が山谷堀を行ったという記述を見かけますが、俗説で根拠はないようです。
今戸橋から現在の聖天橋までは川幅が広いですが、聖天橋から一気に川幅は狭くなり、
今戸橋桟橋でも、引き潮には底の浅い猪牙舟以外の船は底をついたようです。
<猪牙舟>
驚いたのがこれ。
猪牙舟が新たに設置されて、しかも写真撮影用カメラスタンドまで設けられています。
造成工事中です。
説明板「今戸橋跡」に掲載の写真では、今戸橋下流に水門が見えます。
「東京名所 今戸有明楼/今戸橋雪」(井上安治、小林清親)
東京名所から2枚抜粋です。
小林清親 井上安治
「江戸名勝図会 真乳山」(広重)
説明板に掲載の浮世絵です。真乳山と、今戸橋、山谷堀が描かれています。
今戸橋から隅田川への山谷堀水門までは、墨田公園の山谷堀広場となっています。
<平成中村座発祥の地記念碑>
山谷堀広場手前に、平成中村座発祥の地記念碑。2015年4月10日除幕。
山谷堀広場から、言問橋まで行ってみた。
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」の碑です。
羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31(1956)年11月3日、「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立されました。
(説明板)
「花の碑 台東区浅草七丁目一番
春のうららの隅田川
のぼりくだりの舟人が・・・
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和三十一年十一月三日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
武島羽衣は、明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣二十八歳、滝廉太郎二十一歳の時であった。
滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の三年後、明治三十六年六月二十九日、二十四歳の生涯を閉じた。
武島羽衣はその後、明治四十三年から昭和三十六年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した。
手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
「雪の日の 隅田は青く 都鳥」
「待乳山聖天」からの眺めを詠んだと言われている句。
【裏面】
平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟すみだ句会建立
(説明板)
「言問橋の縁石
ここに置かれているコンクリート塊は、一九九二年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。一九四五年三月十日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲とになりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。」