<酉の市/山谷掘公園に掲示>
(説明板)
「山谷堀ヒストリカルツアー 酉の市
毎年11月の西の日、午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に、終日執り行われる祭礼。11月最初の西の日を「一の西」と呼び、以下
「二の西」 「三の西」 という。
各地で開催されているが、台東区では千束の鷲神社と長国寺で行われ、
全国的にも有名である。東側に新吉原の遊郭があり、西の市の日には、通常は閉ざされている大門以外の門を開いて、遊郭を開放したといわれ、江戸時代から盛況であった。
西の市は当初、実用的な農具としての熊手を売る市であったが、熊手は幸運や財産を「かきこむ」
ことから、緑起物として商売繁盛開運の御守として尊ばれてきた。その他の縁起物として、人の頭に立つように出世できるようにと「八頭」
や、金色の小判に似以ていることから「黄金餅」といわれた粟餅があった。
なお、「西の市」は転じて 「西のまち」 とも呼ばれていた。」
酉の市は錦絵にも多く登場します。
「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」(広重)
「江戸自慢三十六興 酉の丁銘物くまで」(豊国、二代広重)
「十二月ノ内 霜月酉のまち」(豊国)
「浅草田圃酉の市」(東都歳事記)
宝井其角の句がそえられています。
「春をまつことのはじめや酉の市」
「絵本江戸土産 浅草酉の町」(広重)
「明治の頃の酉の市」
「東京風景」小川一真出版部 明44.4(1911)
江戸時代には花畑大鷲神社が本酉・上酉、千住の勝専寺が中酉(明治期に市は廃止)、浅草鷲神社が新酉・下酉と称され賑わいました。
(説明板)
「鷲神社 台東区千束三丁目十八番七号
鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。
祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑いをみせた。
一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。
酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。
平成六年三月 台東区教育委員会」
<俳人其角の句碑>
宝井其角の句碑があります。
「春をまつことのはじめや酉の市」
(副碑)
「年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけ、その当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀作家 樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。「たけくらべ」は一葉が竜泉寺町に住みし明治二十六年(世紀一八九三年)七月より明治二七年の四月まで十ヵ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。
「塵中につ記」に一葉は明治二七年三月二六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてゐし面かけは何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。
此に樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成癸酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事跡を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する。
平成五年十月吉日
鷲神社
宮司 河野英男 記」
「雑閙や熊手押あふ酉の市」
鷲神社と長國寺の2つの寺社で行われる浅草酉の市は、令和元(2019)年は、11月8日・20日。
縁起熊手や熊手御守(かっこめ)のお店は、境内と露天含め、約150店舗、
屋台の出店は約750店舗にのぼり、毎年70万人〜80万人の人々が訪れます。
<酉の市の売れ残り>
「江戸時代、酉の市の夜は吉原の遊郭も繁昌したが、その夜でさえ売れ残る意からとも、
酉の市で売られる、お多福の面のついた熊手の売れ残りの意からともいう。」(goo辞書より)
江戸時代の錦絵にも、お多福の面のついた熊手が描かれています。
<「酉の市」発祥の神社>
「酉の市」発祥の神社です。
社頭には、多くの奉納提灯が並びます。
「江戸名所図会」
江戸名所図会に「鷲大明神社」「鷲大明神祭」が描かれています。
「鷲大明神社」
正一位鷲大明神とかかれた幟が社頭に見えます。
参道両脇に池があり、左手の弁天池が現在は存在しないぐらいで、現在も同じ景観を保っています。
拝殿手前、燈籠脇に「とり」とかかれた鶏小屋が見えます。
「鷲大明神祭」
鶏小屋への鶏の奉納が描かれています。
11月の酉の日には、農民から鶏が奉納され、
祭が終わると浅草寺観音堂前に放つのが旧例とされると説明あり。
<かっこめ>
大鷲神社のかっこめの初穂料は800円で、通年で授与しています。
鷲神社のほうは初穂料1000円で、酉の市の時だけの授与です。
他にも色々
<2019年酉の市>
令和元(2019)年は、11月8日・20日。
浅草酉の市ほどではないですが、すごい人出。
<五本骨扇に月丸>
源義光の子孫である佐竹氏が本殿を改築しています(完成は明治8年)。
佐竹氏は家紋に「五本骨扇に月丸」を使用し、大鷲神社の神紋も「五本骨扇に月丸」です。
<由縁(リーフレット)/足立区教育委員会説明板>
「由緒
創建年代は不詳であるが、日本武尊の東国平定の偉業と多年夷賊に苦しんでいた人々が、日本武尊の東国平定の偉業と多年夷賊に苦しんでいた人々が、尊への報恩感謝の意を込めて、本陣のあった当時「花又」に奉斎された。開運守護の神として信仰篤く、中世、新羅三郎義光が、兄・八幡太郎義家の援軍として後三年の役に赴く折、戦勝を祈願し、凱旋の折、神恩に謝し兜を奉賽する。以後、源氏の崇敬のまととなった。」
「大鷲神社(おおとりじんじゃ)
大鷲神社の創建は古く、平安時代、新羅三郎義光が奥州の役に赴く途中、社前に戦勝を祈願したと伝えられるゆかりの社である。
当社は応徳(一○八四)の頃から毎年十一月の酉の日に例祭が行われ大変なにぎわいを呈し、世にこれを「酉のまち」といわれた。また江戸中期にはじまり、酉の日(現在は七月の第三日曜日)の祭事として奉納されている「獅子舞」は歴史と伝統を持つ古式ゆかしいものである。
現在の本殿は嘉永七年(一八五四)に上棟、明治八年竣工、総欅方三間四方唐破風造りである。正面左右に浮彫りされている「昇り龍」「降り龍」は建築彫刻の名作である。また拝殿は棟札の記録からみると寛永元年の創建である。境内には、江戸時代に農家の若者衆が力くらべに使った「力石」が保存されていて農民生活の一面を物語っている。
「獅子舞」は区の指定文化財に、「本殿」「力石」は登録文化財になっている。
昭和六十三年ニ月 東京都足立区教育委員会」
<神苑/水神社>
参道右手に神苑があります。神苑に水神社。
<弁天池>
参道を挟んで、神苑の反対側に江戸名所図会では弁天池が描かれています。
<日露戦役紀念碑>
神苑の脇に日露戦役紀念碑があり、「希典書」と書き添えられています。
淵の宮氷川神社の碑は、縦一列に文字が並んでいるので、乃木希典はそれぞれに揮毫したのでしょう。
氷川神社の碑は解体費用が捻出できないため、他に見た理由は、土の中に埋めて処分(隠した)があります。
経緯はわかりませんが、こちらも解体されずに残っています。
<手水舎>
手水舎屋には、細かい彫刻が施されています。
人感知センサーで水が出る節水型です。
<力石その1>
神社社頭にある力石。重さが刻まれています。
<力石その2>
拝殿手前にある力石。重さが刻まれています。
足立区有形民俗文化財には「力石十三石」として登録されています。
50貫余(約190kg)の力石には巳之助と刻まれているのを初め、色々あります。
<蜀鶏小屋>
以前は蜀鶏(獅子舞に羽を使用)が飼われていましたが、現在は何もいません。
<狛犬>
狛犬の奉納者は三山講中です。
奉納「壬文化九歳 申正月酉ノ日」奉納にあたって「酉」にこだわっています。
三山(月山・湯殿山・羽黒山)講中の奉納の石碑はよく見るところですが、狛犬の台座は初めて見ました。
<神楽殿>
拝殿右手に神楽殿。「五本骨扇に月丸」の神紋。
<拝殿/本殿>
本殿は石垣の上に築かれています。
<石垣奉納>
大鷲神社の拝殿及び本殿の石垣には、多くの寄進者の名前が刻まれています。
【石垣西側】
<鳩谷町 江戸屋呉服店>
【石垣北側】
<石垣北側一式>
【石垣東側】
<浅草新吉原>
「浅草新吉原 五十軒町 大芳 江戸二 二葉屋 仝
結城屋 揚屋町 鯉屋 角町〜以下略」
東側の石垣に浅草新吉原からの多くの寄進者名が刻まれています。
【石垣南側】
「明治三十四年七月建之 東京新吉原貸座敷有志」石板。
大鷲神社も、新吉原の信仰を集めていたことがわかります。
<石坊供養塔>
石坊供養塔と刻まれている石塔があります。何なのかわかりません。
「浅草材木町 石工 又七」と刻まれています。
浅草材木町は、江戸の火事で羽振りの良かった町です。
<パンフレット>
鷲神社(わしじんじゃと読みます)の「かっこめ」は、お多福の面がついています。
浅草や花畑の酉の市と比べて、すいています、普通に歩けます。