Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 日暮里/ひぐらしの里 諏訪台通り

  ○ 諏方神社
  ○ 浄光寺(雪見の寺)
  ○ 太平洋美術会
  ○ 養福寺と文人たち
  ○ 諏訪台通り


諏方神社 荒川区西日暮里3-4-8 HP

 元久2(1205)年、豊島左衛門尉経泰が信州諏方から勧請したと伝えられます。
 文安年間(1444〜49)、太田道灌が社領を寄進しています。
 太田道灌は豊島領内に寺社をどんどん建立していました。
 1477年、道灌と豊島氏開戦、豊島氏連戦連敗で1478年に滅んでいます。
 寛永12(1635)年に山麓から現社地に遷座しています。

 最初の石標は「諏方神社」ですが、次の石標は「諏訪神社」です。
 神社の正式名は「諏方神社」です。

    

   

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 諏方神社
 信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(一二○五)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
 旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。
 拝殿の脇には元禄十二年(一六九九)銘・元禄十四年(一七○一)銘の灯篭型の庚申塔が並んで建てられている。
  荒川区教育委員会」

  

 ※説明板記載の燈籠型庚申塔(元禄12(1699)年及び元禄14(1701)年)は、東日本大震災(2011年)で倒壊し壊れてしまいました。
 

<報知新聞奉納(昭和7年)>

 一番手前の「新東京八名勝 諏方神社」碑は、報知新聞が昭和7(1932)年に奉納と刻まれています。

    
 

<諏方神社記の碑>

 参道右手にあります。

   
 

<忠魂碑>

 諏方神社にも忠魂碑が残っています。日露戦争ですね。
 「忠魂碑 陸軍大将一戸兵衛書」
 裏面「御大典 記念」
 昭和3(1928)年11月建立です。

    
 

<神輿庫>

 御輿庫も狛犬が護っています。
 色づけしているのでコミカルに見えます。

   
 

<神楽殿(中に源為朝公の山車人形)>

   
 

<狛犬>

 のけぞっている個性的な狛犬です。

    
 

<境内/拝殿>

     
 

<西参道鳥居>

 扁額は「新堀 谷中 総鎮守」

   
 

<御嶽山塚>

 拝殿と社務所の渡り廊下をくぐると「御嶽山塚」。
 「御嶽山大神」「八海山大神」「三笠山大神」が祀られています。

     

 右手に拝殿の奥の本殿が見えます。

  
 

<三宝荒神社/三峰神社>

 社殿右手に「三宝荒神社」と「三峰神社」

  

    
 

<末廣稲荷神社・銭降稲荷神社>

 拝殿右の崖手に「末廣稲荷神社」「銭降稲荷神社」

    
 

<京あやべ絆桜>

 新しい説明板です。

  


浄光寺(雪見の寺) 荒川区西日暮里3-4-3

 浄光寺は諏方神社の別当寺で、開基は、豊島経泰説と太田道灌説とがあります。
 諏訪台の高台に位置し、「雪見寺」とも呼ばれていました。
 

<江戸六地蔵と雪見寺>

 江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる銅造地蔵菩薩立像があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
 山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(一六九一)、空無上人の勧化により江戸東武六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
 浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
 眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
  荒川区教育委員会」

    
 

<江戸六地蔵>

     
 

<地蔵菩薩座像>

 文化6(1809)年の銅造地蔵菩薩坐像。

    
 

<境内>

 荒川区文化財「庚申塔群7基(寛文十年八月十五日銘他)」が山門入ってすぐ右手にあります。
 前列に3基、後列に4基。後列左二基は板碑型庚申塔です(延宝2(1674)年及び寛文10(1670)年)。

    

   
 

<火の用心 警視庁>

 火の用心の碑が他寺でも見ましたが、ここにもあります。
 昔は消防も警視庁の所管だったため、警視庁の記銘です。

  
 

<福神漬発明者野田清右衛門表彰碑>

 明治初期に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門は、
 7種の野菜を細かく刻み醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明しました。
 谷中七福神にちなみ「梅亭金鵞」が「福神漬」と名付けたと言われています。
 裏面には「明治四拾四年拾貮月建立 永代維持料金壹百圓添納」と刻まれています。

     
 

<三代将軍御腰掛石>

 「将軍腰掛石」があります。
 江戸名所図会の浄光寺部分を拡大すると、「御腰掛石」が描かれています。

  
 

「御腰掛石」と石標「三代将軍御腰掛石」

 江戸名所図会に描かれている「御腰掛石」は、少々南で、現在は鉄道路に少々削られているようです。
 荷物も置けるような大きい平板の四角形で描かれています。手前にも腰掛けずらい石が描かれています。
 腰掛けずらいほうの石だけが保存されているのかも?

 元文2(1737)年、八代将軍吉宗が鷹狩の際に浄光寺にお成りになり、
 同5年(1740)以降徳川将軍御膳所となりました。

 3代の将軍が腰掛けた石ということでしょうか?(勝手な推測)。
 (石柱は「第三代将軍」ではなく単に「三代将軍」と刻み、
  第三代将軍が腰掛けたなら「家光公」とお名前が刻まれているかと思います?)

     


太平洋美術会  荒川区西日暮里3-7-29

 諏方神社の西、訪諏台通りに「太平洋美術会」があります。

   

(説明板)
「太平洋美術会
 太平洋美術会は、明治35年にその前身である太平洋画会が創設されて以来、明治、大正、昭和、平成の四世代のわたる輝かしい伝統を築き上げてきた、我が国の洋画及び彫刻界における最古の歴史を誇る団体です。
 明治37年に谷中清水町に洋画研究所を開設後、昭和4年に研究所を太平洋美術学校と改め、官立の学校に対抗し、在野の立場から坂本繁ニ郎、中村彝、高村智恵子など、幾多の英才鬼才を我が国洋画壇に送り込んできました。
 昭和20年3月の戦災による校舎焼失後、会員一同の協力により、諏方前のこの場所に再建され、昭和32年名称を太平洋美術会と改め、現在に至っています。
 平成7年度開始の「ディスカバーあらかわ 区内の風景画展」「荒川区を描く絵画講習会」開催など、荒川区の芸術・文化振興にも多大な貢献をされています。
 平成14年に百周年を迎えた伝統あるこの団体が荒川区に本拠を構えていることは、荒川区民の誇りとするところであり、ここに太平洋美術会の足跡を記し、その功績を讃えるものであります。
   平成19年9月  荒川区」

  
 

<長沼智恵子のデッサン2点>

 高村光太郎に出会う前の智恵子のデッサン2点が説明とともに掲示されています。

     

(参考)高村光太郎・智恵子の墓は染井霊園にあります。→こちらで記載


養福寺と文人たち  荒川区西日暮里3-3-8

 門前に説明板と「西國貮拾七番播磨國書寫寺寫」「梅翁花樽碑」があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 養福寺と文人たち
 養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三年(一七一八)没)によって中興されたという。
 江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。
  荒川区教育委員会」

    
 

<警火 警視庁>

 このお寺にも警視庁の警火の碑があります。
 「警火 警視庁」
 消防も警視庁の所管だった時代物です。

   
 

<仁王門/仁王像>

   

   

(標柱)
「荒川区指定文化財
 善福寺仁王門
 この仁王門は、宝永年間(一七○四?一一)の建築と伝えられる。表側に安置されている仁王像の胎内から宝永四年の銘札が発見されており、門柱の上部等の木鼻・蟇股などに施された渦文の絵様から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側には四天王の内の、広目天・多聞天の像が安置されている。旧本堂など江戸期の建造物は戦災で失ったが、この仁王門は焼失を免れ、近世建造物として現在にその姿を留めている。
  荒川区教育委員会」

    
 

<妍斎落歯塚>

  
 

<庚申塔2基>

  

     
 

<自堕落先生の墓>

  
 

<柏山人碑>

 詩人・柏木如亭をしのんで文政3(1820)年に造立。
 「柏山人碑」の篆額は陰陽頭安倍晴親です。

  
 

<本堂>

  
 

<談林派歴代の句碑>

(標柱)
「談林派は大阪の西山宗因を祖とする俳諧の一流派である。軽口俳諧・連吟などを得意とし、江戸初期に流行した。
『好色一代男』の作者・井原西鶴も宗因に師事し俳諧師として活躍している。ここに立つ碑は、寛政四年(一七九二)西鶴の百回忌を記念して建てられた。中央に梅翁花尊碑、左右に雪の碑、月の碑、手前に菱形標石を配する。発起人は谷素外。三基は建立当時のものだが、雪の碑は文化五年(一八○八)の再建である。」

    

    
 

<梅花佛の碑>

 各務支考の供養塔です。

  


諏訪台通り

 諏訪台通りは見所多く、歩いている人を多くみかけます。
 日暮里駅から西日暮里に向かって歩く人が多いかな。反対からだと坂道上りますから。

 諏訪台通りの路上に正岡子規の句がはめ込まれています。
 芋坂の路上に設置されているのではなく、諏訪台通りというのが違和感あり。
 月見寺のそばなので、とりあえず納得。

 「俳句のまち あらかわ
  芋坂も 団子も 月のゆかりかな 正岡子規」

    

    


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