○ 御隠殿橋
○ 根岸薬師堂
・御隠殿跡
・史蹟 御隠殿址
・史蹟 根岸御隠殿の図
・根岸薬師堂と正岡子規
○ 御隠殿坂
交差点隅に、荒川区説明板「御隠殿橋」があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
御隠殿橋
御隠殿は、宝暦四年(一七五四)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた橋であった。
橋の長さ約二.七メートル、幅約三.九メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、昭和八年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っている。
往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。
荒川区教育委員会」
根岸薬師堂前に、説明板「御隠殿跡」があります。
(説明板)
「御隠殿跡 台東区根岸二丁目十九番十号 薬師寺
輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山管領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった場所である。
御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図『御府内沿革図所』には、宝暦三年(一七五三)七月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は、休息の場として利用した。また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。慶応四年(一八六八)五月、御隠殿は彰義隊の戦いによって消失し、現在ではまったくその跡を留めていない。
平成十二年三月 台東区教育委員会」
門を入ると、正面の石碑群の右手に「史蹟 御隠殿址」があります。
碑の右手に「史蹟 根岸御隠殿の図」が掲示されています。
「藤咲いて 眼やみ籠るや 薬師堂」
明治29年の句。
いまはひっそりとした根岸薬師堂ですが、明治大正期には眼病が治ると人気がありました。
根岸薬師堂の本堂には、眼病治癒を願って大勢の人がお籠りして祈りを捧げていたといいます。
「樫の木の中に灯ともる夜寒哉」
明治32年秋に、正岡子規は人力車で外出して、夜に帰って来た時の、上根岸での句です。
根岸薬師堂は、眼病治癒を願ってお籠りする人たちが夜も祈りを捧げていたのでしょう。