○ 入谷朝顔発祥之地
○ 入谷乾山窯元碑
○ 入谷鬼子母神
○ 小野照崎神社
○ 正洞院 別頁
○ 三島神社 別頁
○ パンダグリーンポスト 別頁
入谷交差点に、入谷朝顔発祥之地の碑があります。
(説明石板)
「入谷の朝顔について
入谷の朝顔は、明治2年近傍の寺院で鉢植を造って、人々の縦覧に供したのが、そのはじまりとされているが、15、6年ごろから朝顔は天下の名物となった。その後大正2年以来永らく中絶されていたが、第2次世界大戦後地元の復活運動によって昭和25年7月から再開され、今や東京の年中行事の1つとなっている。ついては、われらは往時の盛事をしのび、入谷朝顔の発祥の地として、ここに記念碑を建立するものである。
入谷から出る朝顔の車かな 子規
1956年7月6日 下谷北部観光連盟」
碑文、説明板はありません。
「琳派の創始者の画家・尾形光琳の弟で作陶が有名な尾形乾山が入谷に窯を開き、
その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。」
(TAITOおでかけナビより引用)
(説明板)
「入谷鬼子母神 台東区下谷一丁目十二番十六号 真源寺内
入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺内寺に祀られている。眞源寺は、万治二年(一六五九)日融上人により創建された。
鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。
入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を使っている。
また、七月上旬、境内および門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。
大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和二十五年復活。以後、下町情緒豊かな初
夏の行事として親しまれている。
平成六年三月 台東区教育委員会」
入谷朝顔まつりは、7月の七夕前後の3日間開かれます。
<福禄寿堂>
下谷七福神の福禄寿を祀っています。
<鬼子母神堂>
<戦災慰霊碑>
「昭和四十二年三月九日 浅草畳工業組合建立」
寺社の畳需要も多かったようです。
<畳針供養>
<日朝上人坐像>
<正岡子規句碑>
ザクロの木の陰に、正岡子規らの石碑があります。
正岡子規の2句と、この寺の日東という人の1句の、3句が刻まれています。
「漱石来る
蕣や 君いかめしき 文學士 子規」
「入谷から 出る朝顔の 車哉 子規」
「朝顔も 入谷へ三日 里帰り 當山 日東」
<東京自慢十二ケ月 六月 大蘇芳年画 1880年/東京名所
花競 入谷蕣(あさがお)安達吟光
三十六花撰 東都入谷朝顔/江戸の花名勝会 る 十番組
中山文五郎 入谷の鬼子母神>
境内には4枚の浮世絵が掲げられています。
国立国会図書館所蔵本から抜粋
竹村伊勢大掾(だいじょう)は、新吉原江戸町二丁目にあった菓子司。
朝帰りで奥方から頭を小突かれている朝の顔といったところでしょうか。
<強烈な努力>
強烈な努力が必要だ
ただの努力じゃダメだ
強烈な、強烈な努力だ
囲碁棋士・藤沢秀行名誉棋聖の絶筆である「強烈な努力」と刻まれた記念碑と、
強烈な努力の内容が刻まれた碑があります。
病院のベッド上のテーブルで書いたので、縦書きではなく横書きだそうです。
「狭苦しい墓には入らない。美しい周防灘の海から世界へ旅立ちたい」との遺志により、
山口県周南市大津島沖で散骨が行われ、お墓はありません。
(碑文)
「碁は芸である
碁には個性、生き方、その人間のすべてがあらわれる
無限に続く芸の道は厳しいが
ひたむきに歩むものは幸せだ
人間を高め、力をつけよ
自分にしか打てない碁を探求せよ
これだけは伝えたい
強烈な努力が必要だ
ただの努力じゃダメだ
強烈な、強烈な努力だ
藤沢秀行
大正一四年六月一四日生
平成二一年五月 八日逝
藤沢秀行名誉棋聖の功績と志を後世に伝えるべく
絶筆の書を刻印せし碑をここに建立する
平成二十二年八月二十八日
藤沢秀行名誉棋聖を偲ぶ会実行委員会」
<小野照崎神社>
(説明板)
「小野照崎神社 台東区下谷二丁目十三番十四号
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰路の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(八五二)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(一六二五)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(一六九一)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応二年(一八六六)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社・さらには庚申塔が現存する。
例大祭は五月十九日で、三年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
「江戸名所図会 小野照崎神明社」
「江戸切絵図」
「小野照崎社」「庚申」部分の抜粋です。
<日本三庚申 庚申塚>(昭和34年)
庚申塔が11基あり、最古のものは正保2(1647)年。
力石が周囲に配されています。
「江戸名所図会 入谷庚申堂」
庚申塚は、現在は消失した「入谷庚申堂」からの移設のようです。
<下谷坂本の富士塚>
国の重要有形民俗文化財です。
6月30日と7月1日に山開き神事が行われます。
その日以外は立ち入ることができないので、富士塚は草茫々です。
(説明板)
「下谷坂本の富士塚
この塚は模造の富士山で、文政十一年(1829)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の?富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は宝町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル、塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
平成六年三月 台東区教育委員会」
<御嶽神社/三峰神社/琴平神社>
<長左衛門稲荷神社/織姫神社>