Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 几号水準点(奥州街道/その他)

  ・ 大川町氷川神社 足立区千住大川町 別頁
  ・ 素盞雄神社   荒川区南千住   別頁
  ・ 円通寺     荒川区南千住
  ・ 三島神社    台東区下谷
  ・ 天王寺山門前  台東区谷中    別頁
  ・ 東叡山浄名院  台東区上野桜木  別頁
  ・ 上野東照宮   台東区上野公園  別頁
  ・ 鳥越神社    台東区鳥越
  ・ 付属予備点   台東区橋場/今戸

  ・ 瀬崎浅間神社  草加市瀬崎
  ・ 神明宮     草加市神明    別頁
  ・ 香取神社    越谷市大沢    別頁

 ○ 几号水準点(江戸城/その他)

 ○ 几号水準点(港区)

 ○ 几号水準点(新宿区/その他)


円通寺 荒川区南千住1-59-11

<百観音碑>

 境内入ってすぐの左手に百観音碑があります。
 その台石に几号水準点が刻まれています。

    

   
 

<百観音 円通寺> 詳細はこちらで記載


○下谷金杉三島神社玉垣石柱 台東区下谷3-7-5

 「三島神社の横にある道路はかつては川。
  人々は川にかかる橋を渡って参拝し橋は「三島様の石橋」として親しまれていました。
  明治の末期より、その石橋の一部を東参道の敷石として保存しております。」
  (三島神社のホームページより引用)

  
 

<几号水準点>

 三島神社北門の敷石に几号があります。水平配置です。
 三島神社のホームページに几号の写真と記載があります。
 「三島さま」の石橋が埋められています。

(説明板)
「三島様の石橋跡
この横の道路は往昔より吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃三島神社に参詣するには石橋を渡ったのである。街が発展して土手がなくなった明治の末期よりその石橋を境内に敷き人々から親しまれた「三島様の石橋」を永く保存するものであります
(注)樋口一葉の「たけくらべ」に三島様の角をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく・・・・はこの道路で土手と小川が有った頃」

     
 

<火除稲荷社>(旧ミサキ稲荷社)

 「境内には火除稲荷社(三島神社の地主神)が鎮座されています。
 昔、徳川氏が上野山内の火難方位除けのために勧請したと伝えられており、
 古くはミサキ稲荷社と称していました。
 後に、この地が火除地と定められ、その際、火除稲荷と改称されましたが
、その創建年代等、詳しくはわかっていません。」(三島神社説明)

 江戸切絵図に「ミサキイナリ」の記載があります。

     
 

<雷井戸>

 神社では「不落(おちない)守」(1000円)を授与しています。

(説明板)
「三島神社の雷井戸
昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たま時たま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷をこの井戸にとじ込めた処雷は「井戸から出して呉れ」と哀願するので「二度と此地に落ちない」と約束のもとに許してやったと云う。
爾来此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不祥なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが現在も満満と水をたヽえて雷除の井戸として信仰されている。」

  


鳥越神社 台東区鳥越2-4-1 03-3851-5033
 

<旧町名由来案内 旧浅草鳥越二丁目>

 旧町名由来案内に、鳥越神社の由来が記されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 旧浅草鳥越二丁目
 本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(一一八五)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(六五一)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(一○四六?一○五三)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
 「鳥越夜祭り」
 六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子衆によってかかげられた百数人の高張堤灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。  台東区」

   
 

<鳥越神社(説明板)>

 「鳥越神社  台東区鳥越二丁目四番一号
 当神社は、白雉二年(六五一)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
 社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(一○四六-五二)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
 例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

  
 

<松平神社>

 江戸切絵図を見ると、「松平山西福寺」の西に「御宮」とあります。
 関東大震災で罹災し鳥越神社に合祀された、徳川家康を祀った「松平神社」かと思われます。

  
 

<社号標等>

 社号標は、「鳩山一郎書」とあります。
 白鳥橋を渡り境内へ。都内の神社には多いラジオ体操会場となっています。

    

     
 

<鳥越神社石華表几号水準点>

 鳥越神社には鳥居が三つあり、西側の鳥居の左側に几号水準点が刻まれています。
 かなり明瞭で、保存状態が良いです。

    

   


付属予備点】

○台東区橋場 台東区橋場2-1-12株式会社伊勢金前歩道中央

 几号水準点ではなく付属予備点というものです。
 株式会社伊勢金前歩道中央にあります。
 歩道反対側は、橋場不動尊。
 ここから600m南の社会教育会館前の歩道にも付属予備点があります。

     
 

○台東区今戸 台東区今戸2-26-12今戸社会教育会館前歩道中央

 几号水準点ではなく付属予備点というものです。
 歩道の舗装で、四角面が丸面に変貌しつつあります。
 ここから600m北の歩道中央にも付属予備点があります。

     


瀬崎浅間神社(富士浅間神社) 草加市瀬崎3-3-24

    
 

<几号水準点>

 御手洗石の右側面の左下に几号水準点があります。かなり風化しています。
 草加市教育委員会説明板があります。

     

(説明板)
「富士浅間神社手洗石の高低測量几号 草加市瀬崎町五○○番地
 慶応元年(1865)銘のある手洗石に刻まれている「不」の記号は、「高低測量几号」といい、水準点を示します。
 内務省地理寮が明治九年(1876)八月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
 当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。
 その後、明治十七年(一八八四)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。
 以後、手洗石も明治四十年代(一九〇七〜一九一二)と昭和七年(一九三二)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます。
  平成二十二年三月  草加市教育委員会」

  
 

<合社>

 下浅間社、浅間稲荷社・疱瘡神を合祀した社です。

   
 

<力石>

 5基の力石が並んでおり、3基が寛政年間前後に活躍した「山谷田中己之助」の奉納の力石です。

(説明板)
「瀬崎浅間神社の力石(ちからいし)
力石 は「さし石」とも言われ、江戸期中頃から重量物の運搬に携わる若衆の力競べが始まりと伝えられています
当社には五基の力石が保存され、三基が寛政年間前後に活躍した力持ち「山谷田中己之助」の奉納であり、この瀬崎では、西南ノ役の勇士「福田已之助」が当時、神社境内にあった力石を全部持ち上げたと伝えられています
(重さ一貫目は現在の約三・七五キロに相当)
昔は、腕力が仕事の上で大いに役立ったので力持ちが尊重され米俵一俵(約六十キロ)を担ぐことが大人の仲間入りの条件であったとも言われ、力石は庶民生活の一面を物語る民俗資料でもある」

      
 

<瀬崎富士/小御嶽神社>

 小御嶽神社は富士塚の山頂に鎮座しています。
 瀬崎富士は平成28年2月に修復工事が行われ整備されたものです。

(説明板)
「市指定民俗文化財 瀬崎の富士行及び富士塚
   平成二十六年一月二十四日指定
   草加市瀬崎三丁目三番二十四号
 富士山を信仰する人々で組織された富士講は、各地で独自な展開を見せてきましたが、草加市域では旧瀬崎村で「冨士行」と呼ぶ一連の行為を伝え、今なお受け継がれています。
 「冨士行」は、富士山頂で神霊に祈誓を捧げることのほか、地元では元日と七月一日(富士山の山開きの日)は浅間神社の拝殿で、その他の月は社務所で「オツタエ」と呼ぶ富士の神霊を称える唱言が節を付けて唱えられます。
 富士講の隆盛は、富士登山者の増加をもたらしましたが、当時の富士山は女人禁制で、しかも往復に相当の日数を要したため、容易に登れる山ではありませんでした。そこで、誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚と呼んでいます。
 瀬崎の冨士塚は大正五年(一九一六)八月に竣工し、地元はもとより、近隣の富士講の講員が今なお巡拝に訪れています。
 各地の富士講・富士塚が廃れていく中、往時に近い形で今に伝わる瀬崎の「富士行」・「富士塚」は全国的に見ても貴重な存在であり、大切な文化遺産となっています。
 ※富士塚の規模 高さ約四m、横幅十・四m、奥行八・六m
  平成二十六年六月  草加市教育委員会」

     

     

   
 

<瀬崎天神社>

 富士塚の横に瀬崎天神社。

    


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