Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 松尾芭蕉 矢立初の地(千住大橋)

  【江戸名所図会/浮世絵に見る大橋

  【足立区】
   ○大橋
   ○大橋公園 
    ・従千住花街眺望ノ不二碑(北斎)
    ・矢立初の碑
    ・おくのほそ道行程図
   ○千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料空館)
    ・与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」
    ・千住の大橋と荒川の言い伝え
    ・千住の橋戸河岸(「川越夜舟」「千住節」「川蒸気の登場」)
    ・広重と北斎
    ・河番付/橋番付
    ・千住大橋
    ・千住小橋
    ・木杭
    ・御上がり場
   ○隅田川テラス ※別頁
   ○橋戸稲荷神社 ※別頁
   ○千潮金刀比羅宮 ※別頁
   ○千住奥の細道プチテラス
    ・矢立初の芭蕉像
    ・芭蕉句碑、菖蒲園句碑
   ○松尾芭蕉木工像
   ○芭蕉座像

  【荒川区】
   ○大橋
   ○千住の河岸
   ○千住宿(下宿)
   ○熊野神社
   ○日慶寺
   ○素盞雄神社 ※別頁
   ○若宮八幡神社
   ○芭蕉と曽良の3Dアート
   ○芭蕉旅立ち像(荒川ふるさと文化館)
   ○芭蕉旅立ち像(南千住図書館)
   ○金子兜太氏の句碑
   ○駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 
   ○コツ通り ※別頁

  【芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?

    


江戸名所図会/浮世絵に見る大橋

「江戸名所図会 千住川/千住大橋」
    

「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)
  

「日光道中二」(広重)
  

「絵本江戸土産 千住川/大橋」(広重)
  

「日光御街道千住宿日本無類楠橋杭之風景本願寺行粧之図」(橋本貞秀 足立区立郷土博物館蔵」
 徳川家康の250回忌に法会のために日光へと向かう東本門寺門跡(皇族)の一行が、
 千住大橋を渡っているところが描かれています。
  

「千住大橋吾妻橋洪水落橋之図」(歌川国明 明治18(1885)年 東京都立図書館蔵)
 明治18(1885)年7月3日、大洪水で千住大橋が落橋し、流された千住大橋は吾妻橋に衝突し、2つの橋が流失しました。
 「千住大ハシ」と「吾妻ハシ」」が流されていく先には厩橋が描かれています。
 流される橋の上や岸で提灯を掲げ、半纏を着た水防組が活動しています。
 落橋した橋に縄をかけ岸に橋の残骸を厩橋の手前で引き寄せています。
 (「荒川ふるさと文化館だより」平成16年9月30日を参照しました。)
    


【足立区】
大橋> 足立区千住橋戸町

    
 

<大橋親柱> 足立区千住橋戸町

 復元改修された親柱が上流側に1対あります。

     
 

「大橋舊橋」(足立区立郷土博物館蔵)

 千住大橋の最後の木橋は、明治19(1886)年に架けられ、昭和2(1927)年に現在の鉄橋に変わりました。
 架け替えの際、地元の有志が脚柱を譲り受け、仏像や縁起物に細工しました。

    


大橋公園 足立区千住橋戸町31

 「千住川を 大橋で渡ると 千住の風が吹いてくる
  此処は 大千住の木戸口 橋戸町」

     

    
 

従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)

 葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。
 NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。

(説明文)
「冨嶽三十六景 「従千住花街眺望ノ不二」
 千住浮世絵顕彰碑
 葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」

     

「従千住花街眺望ノ不二」(北斎 国立国会図書館蔵)

  
 

<おくのほそ道矢立初の碑>

(碑文)
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑
 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
  行春や鳥啼魚の目は泪
 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」

     

 「裏面もお読みください」の掲示。

(裏面)
「江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著わした俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。
 同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄ニ年(一六八九)三月二十七日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上り場であった。
 千住は、寛永ニ年(一六ニ五)、三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。
  街薄暑奥の細道こゝよりす 菖蒲園
  昭和四十九年十月十二日  東京都足立区」

 ※菖蒲園は高浜虚子の直弟子で、やっちゃばの青物問屋の主人である為成善太郎の俳号です。

    
 

<おくのほそ道行程図>

 この行程図は、平成元(1989)年に、芭蕉が旅立ってから300年を記念して建てられたものです。

    

(説明文)
「元禄2年(1689)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644〜1694)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発しました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。
 この紀行が、元禄15年(1702)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。
 芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かなたびに思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。」

  


千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料空館) 足立区千住橋戸町31

    
 

<与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」>

 壁画として描かれています。

    

「奥之細道」(与謝蕪村 国立国会図書館蔵)

  
 

<千住の大橋と荒川の言い伝え>

   

「千住の大橋と荒川の言い伝え
 大橋と大亀
千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川とも呼んでいました。昔は文字の示すように荒れる川でありトラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって橋杭を打込むのに苦労したようです。そうしたことから完成時には一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。ここで大亀の話が登場するのです。この附近の川には、ずっと以前から川の主といわれる大亀が棲んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打ち込もうとしても橋杭に入っていきません。そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦労もなく打込めました。見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。川を往来する舟が橋の近くで転覆したり橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭さえ最大の注意を払いここを通り越すと“ほっと”したそうです。

 大橋と大緋鯉
千住の大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”から下流の鐘ヶ渕に至る流域を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いてたったばかりの橋脚が倒されそうになります。橋奉行は附近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲出来ません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みました。目をつぶされただけで網を破ってにげさりました。しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にもまして暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いは困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。
  千住大賑会・河原 あだちまちづくりトラスト助成」

   
 

<千住の橋戸河岸>

 「千住の橋戸河岸」について、以下タイトルで8枚の説明板が並んでいます。

 「橋戸河岸で陸揚げされた産物」「河川のうつりかわり」「潮待茶屋」「千住節(川越舟歌)」
 「川蒸気の登場」「千住の大橋 架橋と変遷」「明治四十三年 下町の大水害」「明治43年大洪水の写真3枚」
 「川越夜舟」「千住節」「川蒸気の登場」について、別途記載しています。

    
 

<広重と北斎>

 左に「富嶽三十六景 武州千住」(北斎)、右に「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)が描かれています。

(説明)
「初代広重の画
一八五六(安政三)年の成立
下部が南、北岸(左岸)には千住橋戸町の河岸が描かれ、川面には多くの船や筏が見える。」

「葛飾北斎の著名な作品
浮世絵には名所であった千住大橋が多数取り上げられている。絵は葱と思われる荷を背負った馬と人が千住から富士を眺めている構図である。今も千住葱は高級葱として取引されている。」

    

  描かれた原典
   
 

<河番付/橋番付>

 隅田川は行司役、千住大橋は行司役。

     
 

<千住大橋>

 千住小橋の脇にある説明板です。「日光道中二」(広重)が掲載されています。

(説明板)
「千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(一五九四年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
 文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。
 その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正一二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。
 町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
 その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
 「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」 古川柳
  東京都・足立区」

     
 

<千住小橋>

 平成16年(2004年)8月に大橋下をくぐる全長31m、幅員2.6mの歩行者専用「千住小橋」が作られました。
 橋により堤防テラスが東西で分断されていたのが通過できるようになっています。
 千住小橋から下流は通行止めでしたが、現在はフェンスは取り払われテラスが繋がっています。

 千住小橋は、旧日光街道と江川堀の交差に架かっていた橋です。
 本宿と掃部宿の境である現在の大踏切通りと旧日光街道の交差点(松尾芭蕉が立っています)にありました(足立区千住1-4-16〜1-24-3)。
 江川掘は昭和6(1931)年頃に暗渠となり、千住小橋も撤去されました。

    

    
 

<木杭>

 高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていて千住小橋の橋上から、遺構を確認することができます。

(説明板)
「水面に浮かぶ三個のブイの謎】
 それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。
 千住の大橋は徳川家康が文禄三年(一五九四)に隅田川に初めて架けた橋で橋の木材は架橋を進言したという伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。
 昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った橋杭である。
 その水中より引抜かれた橋杭を材料にして千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(一八九○〜一九三七)が恵比寿大黒天などを作っている。
 これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町家に大切に保存されている。
※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り子供達の遊び場だったが戦争の困乱時に鉄は供出木はかまどで灰になった。
(3本の内ぜひ1本引抜いて見たいものである)
  千住大賑会・河原」

     
 

御上がり場>

 千住小橋を渡ると、将軍や日光門主が利用した「千住大橋際御上がり場」があります。

   

(説明板)
「御上り場
 将軍家日光門主(別掲参照)など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際御上り場である。
 将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。」

「日光門主
 日光門主は別名輪王寺宮上野の森宮様と呼ばれ日光山のみならず東叡山寛永寺、比叡山延暦寺の門主を兼ね、天台座主の地位を併せ持つ宗教的権威の頂点にいた人物である。日光道中でもっとも重視されていたのは日光と江戸を三回往復する日光門主の通行である。」

  
 

・御城(江戸城)より千住大橋際御上り場までの絵図

  
 

・千住大橋之図

 嘉永元(1848)年「千住大橋之図」が掲げられています。
 12代将軍徳川家慶の御成船が到着する様子が描かれています。
 千住大橋の北に、千住小橋も描かれています。

   

(説明文)
「千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
 この図は小金原で行われた鹿狩に向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。
  「小金野鹿狩之記」(独立行政法人国立公文書館蔵)所蔵」

  
 

<旧記>

「千住掃部宿の役人、高尾家の由緒書です。千住大橋架橋伝承をはじめとする高尾家の来歴について記されており、千住大橋についての記述もみられます。普請奉行が伊奈備前守忠次、橋杭の槇の「御手伝」として伊達政宗の名前が記されています。
 成立年代未詳 高尾家資料 足立区立郷土博物館所蔵」

  


千住奥の細道プチテラス 足立区千住橋戸町50

<矢立初の芭蕉像>

 松尾芭蕉の生誕360年を記念して平成16(2004)年に作られた新しいものです。

(説明板)
「平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり当地旧日光道中の入り口に石像の建立が実現しました。
千住は奥の細道 への旅立ちの地であり矢立初の句
「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。
此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以降は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。
芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。
遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。
 遙かなる奥の細道へ
   千住大賑会・河原(旧道しくしよう())」

    

     

   
 

<芭蕉句碑>

 「江戸開府四百年記念」として、平成15(2003)年5月16日に千住宿歴史プチテラスに建てられ、その後こちらに移設されました。
 「鮎の子のしら魚送る別哉」

     
 

<菖蒲園句碑>

 「街薄暑奥の細道こゝよりす 菖蒲園」
  菖蒲園は高浜虚子の直弟子で、やっちゃばの青物問屋の主人の馬力である為成善太郎の俳号です。

  
 

<大名行列>

「大名行列
 いまをさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。
 日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最もよく整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参覲交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。
 咋今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。
 馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。
  平成三年十二月  足立区都市環境部
   出典「大名行列」国立博物館所蔵」

    


松尾芭蕉木工像 足立区千住1-4-16足立成和信用金庫本店前

 下野新聞(2019年11月7日)によると、
 「鹿沼産木材で「松尾芭蕉像」 都内の信金、本店に設置」の見出しで、
 鹿沼産の木材で制作した松尾芭蕉の木工像が、東京都足立区の足立成和信用金庫本店前に設置されたと
 ニュースとなりました。
 2019年10月13日から展示されています。

 早速、見に行きました。チェーンソーカービングで制作との説明がありますが、お見事です。
 野ざらしの場所に立っているので、風雨にさらされ痛みそう。

   

    


芭蕉座像 足立区千住5-13-5(学びピア21内)

 この芭蕉座像は、「正副」2体作られれ、「正」は、「俳聖殿」(三重県上野市)に鎮座、もう1体の「副」は足立区に寄付され、
 以前は足立区立郷土博物館の屋外にありましたが、平成21(2009)年から「学びピア21」の屋内1階に置かれています。
 「俳聖殿」の正の芭蕉座像は、芭蕉の命日の10月12日の芭蕉祭でしか拝観できませんが、副の芭蕉座像は、毎日公開です。

    
 

「これよりおくのほそ道」「おくのほそ道行程図」

     

(説明板)
「芭蕉座像
 昭和17(1942)年製作 高さ170cm×幅120cm×奥行50cm 重さ400kg 
 代議士で陶芸家だった川崎克(1880〜1949)が焼成した陶製芭蕉像の一つ。原型は彫刻家、長谷川栄作(1894〜1944)による。川崎が建立に尽力した俳聖殿(昭和17・1942年建立。国重要文化財。三重県上野市)の芭蕉座像と像容は同一で、本像は副と伝わる。なお原型作者の長谷川は彫刻家、吉田芳明の門人であり優れた木彫家として知られた千住の富岡芳堂(1890〜1957)と同門である。
 昭和50(1975)年、川崎克夫人の康子氏から、芭蕉とゆかりが深く、旅立ちの地である足立区に寄贈された。」

  


千住大橋(荒川区側) 荒川区南千住6丁目

 千住大橋の右岸(南)です。
 千住大橋親柱、東京都石碑「千住大橋」、荒川区案内板「千住大橋」「千住の河岸」、石碑「八紘一宇」があります。

           大橋                  親柱 
   
 

<東京都「千住大橋」>

(碑文)
「千住大橋
 「千住大橋」は「千住の大橋」とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(一五九四年)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ「大橋」と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋が作られてから「千住」の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約百二十メートル)、幅四間(約七メートル)であった。
 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。
 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和二年(一九ニ七年)に架けられ、近年の交通量増大のため、昭和四十八年(一九七三年)新橋がそえられた。
  昭和五十九年三月  東京都」

   
 

<荒川区「千住大橋」>

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 千住大橋
 文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(一九ニ七)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
 千住の大はし「名所江戸百景」(荒川ふるさと文化館蔵)
  荒川区教育委員会」

   
 

<荒川区「千住の河岸」 荒川区南千住6-71

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 千住の河岸
 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化ニ年(一八四五)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
  荒川区教育委員会」

  
 

<八紘一宇>

 「八紘一宇 陸軍大将 林銑十郎書」
 (林銑十郎肖像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
  明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日

    


○千住宿(下宿) 荒川区南千住7-16-3 説明板

 日慶寺の参道入口に、荒川区説明板「千住宿」があります。
 千住宿は、万治元(1658)年に「掃部新田」、万治3(1660)年に千住大橋を越えて「小塚原町」「中村町」が加えられ宿場町は拡大しました。
 小塚原町・中村町の宿場町は「千住下宿」と呼ばれました。

 飯盛旅籠が並び、新吉原や千住五か町から訴えられるほど飯盛旅籠は繁昌しました。
 近くには、江戸では最大規模の火葬場である火葬寺(現在の荒川区南千住5丁目21番地及び22番地)があり、
 江戸時代の川柳に「焼場から往生させてこつヘ連れ」「焼場からなぐれてこつの大一座」とあるように、
 荼毘に付した後、葬礼帰りの人々が精進落ちと、小塚原の飯盛旅籠に登楼する実情もありました。
 小塚原と火葬寺のコツ(骨)を洒落て、小塚原に遊びに行くことを「コツに行く」と言っていました。

 明治に入り、千住宿のうち一〜五丁目が千住宿北組、掃部宿が千住宿中組、小塚原町・中村町が千住宿南組に改称されました。
 千住宿南組は、現在の南千住の地名の由来となっています。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 千住宿
 慶長九年(一六○四)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州同中の第一の宿場が千住宿である。
 大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町・中村町があって下宿と呼ばれ問屋・各種商店・旅籠などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかでは、この千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。
  荒川区教育委員会」
    
    


熊野神社 荒川区南千住6-70

 千住の材木商が寄進した手水鉢、灯籠があります。
 説明板は門外にありますが、境内は門が施錠されているので、デジカメズームで撮影。
 素盞雄神社の境外社で、熊野神社例祭(10月15日)には開放されるようです。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 熊野神社
 創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
 また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
  荒川区教育委員会」

     


日慶寺 荒川区南千住7-15-4

 江戸名所図会に、熊野神社と日慶寺が記されています。
 江戸時代、有名だったようです。
 歴代上人の墓には、葵の紋が刻まれています。
 元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺が御膳所にあてられました。
 他の歴代将軍は、三河島の観音寺か法界寺を御膳所としましたが、
 鷹が逃げる鶴を捕えた場所はたいてい公春院辺りだったので、家重には障害があり移動距離が短くてすむ日慶寺を御膳所としたのかもしれません。
 

「江戸名所図会」

 「江戸名所図会」の「飛鳥社小塚原天王宮」と「千住大橋」から、日慶寺が描かれている部分の抜粋です。
 「千住海道」と記された「日光道中」に面した表参道の先に「日慶寺」が描かれています。

   

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 日慶寺の鬼子母神
 天文(一五三ニ〜五五)の頃、日慶という比丘尼(びくに)が谷中に日慶寺を草創した。その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼(にっそうに)が、宝永元年(一七○四)、千住南字砂尾と呼ばれたこの土地に、当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、五代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦九年(一七五九)には、芝金杉(港区)円珠寺において、出開帳が行われている。また、区内最古で、釈迦の種子のある、正応ニ年(一二八九)四月日銘板碑を所蔵する。
 元文元年(一七三六)、九代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。
  荒川区教育委員会」

    

   


素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1 こちらで記載


若宮八幡神社 荒川区南千住6-35-8

 源義家が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたところと伝えらています。
 渡裸の渡しは、現在の千住大橋のやや上流にあり、奥州古道が通っていた場所です。
 若宮八幡神社は、素盞雄神社の境外社となっています。

(説明板)

「あらかわの史跡・文化財
 若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
 若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。
平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
 婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成十四年に社殿の新造営が行われた。
  荒川区教育委員会」

     

    


芭蕉と曽良の3Dアート 荒川区南千住6-63-1(南千住図書館・荒川ふるさと文化館 正面広場)

 大橋を渡って旅立とうとする芭蕉と曽良を3Dアート作品として描いています。2019年の作品です。
 足元に芭蕉の矢立の句があり、わらじが描かれています。わらじの上に立って見ると立体画に見えます。
 芭蕉は大橋を荒川区側で船から上陸したとする荒川区らしい構図です。
 個人的には足立区側で上陸したと思いますが、足立区より荒川区のほうが頑張っていると感じます。

     

    
 

芭蕉・旅立ち 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 「荒川ふるさと文化館」入口に、平野千里氏作「芭蕉・旅立ち」があります。平成10(1998)年の作品です。
 旅立ちの句を詠もうと筆を手にする芭蕉と、石に座って待つ曽良の像です。
 サイズ:H850×W700×D600mm

      

   
 

○芭蕉 旅立ち 荒川区南千住6-63-1 南千住図書館3階

 「南千住図書館」三階の俳句コーナーに、平野千里氏作「芭蕉 旅立ち」があります。平成29(2017)年の設置です。
 サイズ:H800×W900×D800mm

     

    

   
 

金子兜太氏の句碑 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 金子兜太氏の句碑が、平成29(2017)年3月に建立されています。
 「荒川千住芭蕉主従に花の春」

   
 

夢現(むげん) 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 浦山一雄氏が制作した「夢現(むげん)」です。

   
 

○荒川ふるさと文化館

 荒川ふるさと文化館の館内は、「企画展示室」と「路地と復元家屋エリア」以外のメイン展示は撮影禁止です。
 文字情報が多い展示だと撮影して後で確認したいのですが、残念です。
 足立区立郷土博物館は、パブリックドメインで公開しており、じっくりと自宅観賞もでき重宝しています。

   


南千住駅西口駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 荒川区南千住4丁目

 平野千里氏の作品で、2015年3月設置。松尾芭蕉は奥州に向けて立っています。

     


芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?

 ・ 芭蕉は大橋で船から上がりました。荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか定かではありません。

 ・ 足立区は、千住大橋北詰の大橋公園内に「奥の細道矢立て初めの碑」を立て、芭蕉の壁画を描き、
  「奥の細道サミット」を開催しています。
  東京都中央卸売市場足立市場の一画に芭蕉の石像を建て、「千住宿奥の細道プチテラス」を整備しています。

 ・ 荒川区は、「奥の細道矢立て初めの俳句大会」、
  「結びの地」岐阜県大垣市の小学生を招いた「俳句相撲大会」、
  南千住駅に芭蕉像を建立など、巻き返しを図っています。

 ・ 芭蕉が深川の芭蕉庵を出立したのは、元禄二年(1689)の「弥生も末の七日」(陽暦5月16日)でした。
  「奥の細道随行記」(曽良)では
  「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。」と記されています。
  記述の相違について、出立が20日か27日かで、様々な説が出されましたが、
  1987(昭和62)年に芭蕉直筆の書簡が発見され、芭蕉は23日は深川にいたことが明らかになりました。

 ・ 曾良の日記によれば、3月20日朝、深川を出船して、午前11時半(巳ノ下刻)に千住に上がります。
  3月27日朝、千住を出立し、粕壁に3月27日夜到着します。
  芭蕉と曾良の記述が両方正しいとすれば、曾良が芭蕉に先行して出発し、
  27日千住で合流したと解することもできるでしょう。

 ・ 出発の前に手紙を出す「飛脚問屋」などが北岸にあり、
  当時の船着き場は北岸でした。将軍の御成船の御上がり場も北岸です。
  北岸で下船したと考えるのが順当でしょう。

 ・ さて、芭蕉は「奥の細道」で、黒羽に14日間と最も長逗留しています。
   旅立つ前からある程度相談されていた日程とも思われます。
   黒羽では歓待を受け、高久へ向かうに当たり馬と人をつけてもらったりもしています。
   宿泊先は、芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸と
   その弟鹿子畑豊明(翠桃)邸でした。
   兄は桃雪(とうせつ)、弟は翠桃(すいとう)の俳号を、芭蕉(俳号「桃青(とうせい)」)
   から与えられています。

 ・ 黒羽藩の下屋敷は、大関横丁にありました。
   曾良は千住に逗留中、黒羽藩下屋敷に行っているかもしれませんね。

 ・ 大橋の南に鎮座する素盞雄神社には、文政3年(1820年)の芭蕉忌に奉納された句碑があります。
   千住河原町の青物問屋で文人の山崎鯉隠が建立したもので、
   句碑下部に芭蕉座像が刻まれており、「関谷の巣兆」と呼ばれた建部巣兆の筆です。

 ・ 巣兆は千住藤沢家の養子となり隠居して関谷の里に秋香庵を構えました。
   江戸時代のやっちゃ場(現足立区)の住人が現荒川区に句碑を建てたわけです。
   当時の人々の認識は、千住は川の北も南も含めて千住と認識していたのでしょう。
   あるいは、南千住から旅立ったという認識があったのかとも考えられます。

  ・推論をまとめると、芭蕉は千住の大橋の北側で船を下りた。
   江戸時代に足立区の住人が荒川区に芭蕉句碑を建てており、
   当時の関係者の認識は、千住は北も南も含めて千住と認識していたので、
   川の北とか南とか区別していなかったと解します。


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