Discover 江戸旧蹟を歩く
 

 松尾芭蕉 矢立初の地(千住大橋)

  【足立区】
   ○大橋
   ○大橋公園 
    ・矢立初の碑
    ・おくのほそ道行程図
   ○千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料館)
    ・与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」
    ・千住の橋戸河岸
    ・広重と北斎
    ・千住大橋
    ・千住小橋
    ・木杭
    ・御上がり場
    ・千住大橋親柱
   ○橋戸稲荷神社 ※別ページ
   ○千住奥の細道プチテラス
    ・矢立初の芭蕉像
   ○松尾芭蕉木工像
   ○芭蕉座像

  【荒川区】
   ○大橋 
   ○千住の河岸 
   ○素盞雄神社 
    ・天王社の大銀杏(飛鳥の杜)
    ・芭蕉碑
    ・端光石
    ・出羽三山供養塔
    ・森昌庵追慕の碑
    ・吉原松葉屋半左衛門寄進の狛犬
    ・几号水準点
   ○熊野神社 
   ○若宮八幡神社
   ○日慶寺 
   ○芭蕉と曽良の3Dアート
   ○金子兜太氏の句碑
   ○駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 

  【芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?

    



大橋

<江戸名所図会>

    
 

<名所江戸百景>(広重)

  
 

<大橋>

    
 

<大橋親柱>

 復元改修された親柱が上流側に1対あります。

     



大橋公園  足立区千住橋戸町31

     

    
 

従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)

     
 

「従千住花街眺望ノ不二」(北斎 国立国会図書館蔵)

  
 

<矢立初の碑>

 「裏面もお読みください」の掲示。

     

    
 

<おくのほそ道行程図>

 この行程図は、平成元(1989)年に、芭蕉が旅立ってから300年を記念して建てられたものです。

      



千住大橋橋詰テラス(千住大橋際歴史資料空館)  足立区千住橋戸町31

    
 

<与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」>

 壁画として描かれています。

    
 

<千住の橋戸河岸>

     
 

<広重と北斎>

    
 

<千住大橋>

「千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(一五九四年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
 文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。
 その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正一二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。
 町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。
 その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」
  古川柳
  東京都・足立区」

    
 

<千住小橋>

 平成16年(2004年)8月に大橋下をくぐる全長31m、幅員2.6mの歩行者専用「千住小橋」が作られました。
 橋により堤防テラスが東西で分断されていたのが通過できるようになっています。
 千住小橋から下流は通行止めでしたが、現在はフェンスは取り払われテラスが繋がっています。

   

    
 

<木杭>

 高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていて千住小橋の橋上から、遺構を確認することができます。

    
 

<御上がり場>

 千住小橋を渡ると御上がり場。嘉永元年(1848年)千住大橋之図が掲げられています。
 将軍の御成船が到着する様子が描かれた絵が掲示されています。

    

    
 

<旧記>

  



千住奥の細道プチテラス  足立区千住橋戸町50

<矢立初の芭蕉像>

 松尾芭蕉の生誕360年を記念して平成16年(2004年)に作られた新しいものです。

    
 
    

    



松尾芭蕉木工像 足立区千住1-4-16足立成和信用金庫本店前

 下野新聞(2019年11月7日)によると、

 「鹿沼産木材で「松尾芭蕉像」 都内の信金、本店に設置」の見出しで、
 鹿沼産の木材で制作した松尾芭蕉の木工像が、東京都足立区の足立成和信用金庫本店前に設置されたと
 ニュースとなりました。

 10月13日から展示されています。

 早速、見に行きました。チェーンソーカービングで制作との説明がありますが、お見事です。
 野ざらしの場所に立っているので、風雨にさらされ痛みそう。

   

    



芭蕉座像 足立区千住5-13-5(学びピア21内)

 この芭蕉座像は、「正副」2体作られれ、「正」は、「俳聖殿」(三重県上野市)に鎮座、もう1体の「副」は足立区に寄付され、
 以前は足立区立郷土博物館の屋外にありましたが、平成21(2009)年から「学びピア21」の屋内1階に置かれています。
 「俳聖殿」の正の芭蕉座像は、芭蕉の命日の10月12日の芭蕉祭でしか拝観できませんが、副の芭蕉座像は、毎日公開です。

    
 

「これよりおくのほそ道」「おくのほそ道行程図」

     
 

(説明板)

「芭蕉座像
 昭和17(1942)年製作 高さ170cm×幅120cm×奥行50cm 重さ400kg 
 代議士で陶芸家だった川崎克が(1880〜1949)が焼成した陶製芭蕉像の一つ。原型は彫刻家、長谷川栄作(1894〜1944)による。川崎が建立に尽力した俳聖殿(昭和17・1942年建立。国重要文化財。三重県上野市)の芭蕉座像と像容は同一で、本像は副と伝わる。なお原型作者の長谷川は彫刻家、吉田芳明の門人であり優れた木彫家として知られた千住の富岡芳堂(1890〜1957)と同門である。
 昭和50(1975)年、川崎克夫人の康子氏から、芭蕉とゆかりが深く、旅立ちの地である足立区に寄贈された。」

  



千住大橋(荒川区側) 荒川区南千住6丁目

 千住大橋の右岸(南)です。
 「千住大橋」「千住の河岸」の荒川区の案内板があります。
 「千住大橋」の東京都の石碑があります。
 「八紘一宇」の石碑があります。
 千住大橋親柱があります。

    

    



千住の河岸  荒川区南千住6-71

 【説明板】
 「江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して
  高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。
  古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)
  からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、
  それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
   材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。
  熊野神社には、弘化2年(1845)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、
  材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。
  これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
   荒川区教育委員会」

  



素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1

 「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介されています。

   
 

<天王社の大銀杏(飛鳥の杜)>

 境内は「飛鳥の杜」と呼ばれ、江戸名所図会に描かれています。

 【説明板】
  「素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。
   『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
   この大銀杏は、幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。
   この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、
   絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
     荒川区教育委員会」

    
 

<芭蕉碑>

 【素盞雄神社HP説明】
  「千寿といふ所より船をあがれば
   前途三千里のおもひ胸にふさがりて
   幻のちまたに離別の
   なみだをそそぐ 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」

  松尾芭蕉「奥の細道」矢立初めとなった有名な一節です。
  文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖「芭蕉」を偲び、
  江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、
  文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の
  建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
  建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できぬ為に、
  平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、
  これを契機に「奥の細道矢立初め全国俳句大会」が毎年春に開催されています。

     

     

   
 

<端光石(ずいこうせき)>

 小塚の中の奇岩が「瑞光石」です。
 元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、富士参りの参詣者で賑わいました。

    

    
 

出羽三山供養塔>

 月山(左) 湯殿山(中) 羽黒山(右) 大権現供養塔
 文政十年と刻まれています。人名は小林治左右衛門、小林仁右衛門が見えます。

    
 

<森昌庵追慕の碑>

 旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12年(1841)に建てられた森昌庵追慕の碑です。
 描かれた絵の担当は、近隣に住んでいた長谷川雪旦で「江戸名所図会」の挿絵を描いた人物です。

  
 

<吉原 松葉屋半左衛門寄進の狛犬>

 狛犬の台座に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。
  
     
 

<几号水準点>

 鳥居に明瞭に刻まれています。
 鳥居が多くありますが、
 松葉屋蔵の寄進した狛犬(文化5(1808)年6月吉日)のところの鳥居です。

    



熊野神社  荒川区南千住6-70

 千住の材木商が寄進した手水鉢、灯籠があります。
 説明板は門外にありますが、境内は門が施錠されているので、デジカメズームで撮影。

 【説明文】
 「 創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
  大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、
  文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。
  以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
   また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、
  陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
   荒川区教育委員会」

     



若宮八幡神社 南千住6-35-8

 源義家が荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたところと伝えらています。
 渡裸の渡しは、現在の千住大橋のやや上流にあり、奥州古道が通っていた場所です。

 <説明板>
 「若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
   若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。
  平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、
  荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。
  足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、
  この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
   婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。
  近隣の崇敬を受け、平成十四年に社殿の新造営が行われた。
    荒川区教育委員会」

     

    



日慶寺  荒川区南千住7-15-4

 江戸切絵会の千住大橋に、熊野神社と日慶寺が記されています。
 江戸時代、有名だったようです。

 歴代上人の墓には、葵の紋が刻まれています。

 【説明板】
 「日慶寺の鬼子母神
  天文(1532?55)の頃、日慶という比丘尼(びくに)が谷中に日慶寺を草創した。
  その後、3代将軍家光に仕えた
  円心院日相尼(にっそうに)が、宝永元年(1704)、千住南字砂尾と呼ばれたこの土地に、
  当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。
  現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、5代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。
  宝暦9年(1759)には、芝金杉(港区)円珠寺において、出開帳が行われている。
  また、区内最古で、釈迦の種子のある、正応2年(1289)4月日銘板碑を所蔵する。
  元文元年(1736)、9代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。
   荒川区教育委員会」

    

   
 



芭蕉と曽良の3Dアート 荒川区南千住6-63-1(南千住図書館・荒川ふるさと文化館 正面広場)

 大橋を渡って旅立とうとする芭蕉と曽良を3Dアート作品として描いています。2019年の作品です。
 足元に芭蕉の矢立の句があり、わらじが描かれています。わらじの上に立って見ると立体画に見えます。
 芭蕉は大橋を荒川区側で船から上陸したとする荒川区らしい構図です。
 個人的には足立区側で上陸したと思いますが、足立区より荒川区のほうが頑張っていると感じます。

     

    



金子兜太氏の句碑 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 金子兜太氏の句碑が、平成29(2017)年3月に建立されています。
 「荒川千住芭蕉主従に花の春」

   



南千住駅西口駅前広場「松尾芭蕉の銅像」 荒川区南千住4丁目

 平野千里氏の作品で、2015年3月設置。松尾芭蕉は奥州に向けて立っています。

     



芭蕉は荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか?

 ・ 芭蕉は大橋で船から上がりました。荒川区と足立区側のどちらに上陸したのか定かではありません。

 ・ 足立区は、千住大橋北詰の大橋公園内に「奥の細道矢立て初めの碑」を立て、芭蕉の壁画を描き、
  「奥の細道サミット」を開催しています。
  東京都中央卸売市場足立市場の一画に芭蕉の石像を建て、「千住宿奥の細道プチテラス」を整備しています。

 ・ 荒川区は、「奥の細道矢立て初めの俳句大会」、
  「結びの地」岐阜県大垣市の小学生を招いた「俳句相撲大会」、
  南千住駅に芭蕉像を建立など、巻き返しを図っています。

 ・ 芭蕉が深川の芭蕉庵を出立したのは、元禄二年(1689)の「弥生も末の七日」(陽暦5月16日)でした。
  「奥の細道随行記」(曽良)では
  「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。」と記されています。
  記述の相違について、出立が20日か27日かで、様々な説が出されましたが、
  1987(昭和62)年に芭蕉直筆の書簡が発見され、芭蕉は23日は深川にいたことが明らかになりました。

 ・ 曾良の日記によれば、3月20日朝、深川を出船して、午前11時半(巳ノ下刻)に千住に上がります。
  3月27日朝、千住を出立し、粕壁に3月27日夜到着します。
  芭蕉と曾良の記述が両方正しいとすれば、曾良が芭蕉に先行して出発し、
  27日千住で合流したと解することもできるでしょう。

 ・ 出発の前に手紙を出す「飛脚問屋」などが北岸にあり、
  当時の船着き場は北岸でした。将軍の御成船の御上がり場も北岸です。
  北岸で下船したと考えるのが順当でしょう。

 ・ さて、芭蕉は「奥の細道」で、黒羽に14日間と最も長逗留しています。
   旅立つ前からある程度相談されていた日程とも思われます。
   黒羽では歓待を受け、高久へ向かうに当たり馬と人をつけてもらったりもしています。
   宿泊先は、芭蕉の門人となっていた黒羽藩城代家老浄法寺高勝(桃雪)邸と
   その弟鹿子畑豊明(翠桃)邸でした。
   兄は桃雪(とうせつ)、弟は翠桃(すいとう)の俳号を、芭蕉(俳号「桃青(とうせい)」)
   から与えられています。

 ・ 黒羽藩の下屋敷は、大関横丁にありました。
   曾良は千住に逗留中、黒羽藩下屋敷に行っているかもしれませんね。

 ・ 大橋の南に鎮座する素盞雄神社には、文政3年(1820年)の芭蕉忌に奉納された句碑があります。
   千住河原町の青物問屋で文人の山崎鯉隠が建立したもので、
   句碑下部に芭蕉座像が刻まれており、「関谷の巣兆」と呼ばれた建部巣兆の筆です。

 ・ 巣兆は千住藤沢家の養子となり隠居して関谷の里に秋香庵を構えました。
   江戸時代のやっちゃ場(現足立区)の住人が現荒川区に句碑を建てたわけです。
   当時の人々の認識は、千住は川の北も南も含めて千住と認識していたのでしょう。
   あるいは、南千住から旅立ったという認識があったのかとも考えられます。

  ・推論をまとめると、芭蕉は千住の大橋の北側で船を下りた。
   江戸時代に足立区の住人が荒川区に芭蕉句碑を建てており、
   当時の関係者の認識は、千住は北も南も含めて千住と認識していたので、
   川の北とか南とか区別していなかったと解します。


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