Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 コツ通り(山谷通り)

  ○ コツ通り
    ・日光道中
    ・「コツ」の名の由来
    ・仕置場
    ・火葬寺

  ○ 回向院
  ○ 延命寺

  ○ 泪橋


コツ通り(山谷通り)

 南千住駅の西から、日光街道に続く「山谷通り」は、通称「コツ通り」と呼ばれ、
 コツ通り商店会(荒川区南千住5丁目)があります。(大嶋提灯店や仙成食堂(2019年1月閉店)があります)
 言問橋と南千住を結ぶ東京都道464号言問橋南千住線の一部です。
 全線はかつての日光街道で、通称「吉野通り」です。

    

     

日光道中> 荒川区南千住7-2-8 説明板

 アレクシティの駐輪場前の歩道に荒川区案内板「日光道中」があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 日光道中
 日光道中は、日本橋を起点に日光を終点とする江戸時代の五街道の一つである。日光街道ともいう。地元では、周辺の古い地名「小塚原(こつかっぱら)」の略称を冠して「コツ通り」と呼ばれている。
 寛永元年(一六ニ四)、幕府により整備が始められ、全国的な主要幹線として多くの人馬が行き交った。区内では、現在の泪橋交差点から千住大橋までの道筋がこれに相当する。江戸の入口にあたり、日光道中の初宿である千住宿(下宿)が置かれた。
 明治六年(一八七三)からは国道陸羽街道と称し、主要幹線として機能したが、昭和二十七年(一九五ニ)の新道路法の施行により、特例都道第464号言問橋南千住線となった。
 なお、昭和三十七年以来、日光街道の名称は、国道四号線の宇都宮以南の東京都通称道路名として使われている。
  荒川区教育委員会」

   


「コツ」の名の由来

 「コツ」の名の由来はなんでしょう?
  ○その1 「小塚原(こつかっぱら)を略した」
  ○その2 「小塚原刑場では火葬ではなく土葬したため人骨がむき出しだった」
  ○その3 「小塚原の田地にあった火葬寺(焼場)に因んだ」

<解体新書>

 杉田玄白の解体新書には、以下の記述があります。
 「時の町奉行曲淵甲斐守殿の家士得能万兵衛といふ男より手紙もて為知越せしは、
 「明日、手医師何某といへる者、千寿骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。
  御望ならば、彼かたへ罷越れよかし」と言文おこしたり。」

 江戸のお役人の部下が、小塚原ではなく「千寿骨ヶ原」と表記しています。
 骨ケ原が通称だったようです。

仕置場>

 仕置場の場所ですが、江戸切絵図で確認すると、大橋の手前が小塚原町で、
 仕置場は小塚原町ではなく、お隣の中村町にあります。小塚原町の飛び地だったようです。

  

火葬寺>

 火葬寺ですが、「荒川ふるさと文化館だより」等を参照すると、
 浅草や下谷の寺院内にあった19か所の火屋(火葬施設)が、
 寛文9(1669)年に小塚原(小塚原町と中村町の入会地)に移転してできたのが火葬寺です。
 江戸時代の五三昧(5か所の火葬場)の中では、最大規模でした。

 さて、火葬寺は、中村町の裏手の田地にありましたが、現在の場所はどこか?
 「歩く地図でたどる日光街道」の作者が、調べているので、引用します。

 「E火葬場跡(南千住5丁目21.22)
   此宿往還より西之方壱町余引込、諸宗之火葬をいたし候寺院拾九ヶ寺有之」
   (日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)小塚原町の飯盛女をひやかしに行く人は、
   火葬の骨に小塚原のコツを掛け合わせ「コツに行く」といった。
   “焼き場から往生させてコツへ連れ”の川柳がある。」(引用)

 火葬寺の現在の所在地は、荒川区立第二瑞光小学校の西、南千住5丁目21番地及び22番地となります。
 「落語大好き」のHP中「落語の中の言葉142「コツの若松屋」」には、
 小塚原と焼場の関係を知る上での記述があります。
 江戸時代の川柳「焼場からなぐれてこつの大一座」「焼場から往生させてこつヘ連れ」が引用されています。

「安政午秋頃痢流行記 荼毘室(やきば)混雑の図」(安政5(1858)年 都立図書館蔵)

 安政5(1858)年のコレラの流行時の、火葬寺が荼毘を待つ棺桶であふれている様子が描かれています。
 解説の挿絵には、火葬寺へ向かう棺桶の列が続いています。

   

<推論>

 小塚原町は、大橋(架設当初は小塚原橋とも呼ばれた)のたもとにあり、
 吉原より気安く飯盛女と遊べるため人気があった。

 近くには、江戸では最大規模の火葬場である火葬寺(現在の荒川区南千住5丁目21番地及び22番地)があり、
 江戸時代の川柳に「焼場から往生させてこつヘ連れ」「焼場からなぐれてこつの大一座」とあるように、
 荼毘に付した後、葬礼帰りの人々が精進落ちと、小塚原の飯盛宿に登楼する実情もあった。

 小塚原と火葬寺のコツ(骨)を洒落て、小塚原に遊びに行くことを「コツに行く」と言っていた。

 仕置場は骨ケ原と呼ばれていたが、小塚原ではなく宿から離れた中村町にあった。
 仕置場が移ってきたのは、小塚原ができてからだいぶ後である。火葬寺は仕置場より以前にあった。

 コツ通りの由来を宿から離れた骨ケ原(仕置場)に求めるより、
 宿に近い火葬寺のコツに求めるほうが自然であり、
 これに小塚原の「こつ」とをもじって、小塚原の飯盛宿のことを「コツ」と通称しており、
 小塚原(コツ)の通りであるから、コツ通りと呼ばれていた。
 小塚原刑場が近くにあったもんだから、刑場に由来すると思っている人も多いようです。


回向院 荒川区南千住5-33-13 加筆したので、別途こちらで記載

延命寺 荒川区南千住2-34-5 加筆したので、別途こちらで記載


泪橋 台東区清川2丁目・日本堤2丁目 荒川区南千住2丁目・3丁目
 
 コツ通りを線路ガード下をくぐると、泪橋交差点に出ます。
 罪人が牢を出て、仕置場へ連れて行かれる際に、ここの橋を渡り、家族が涙して別れを惜しんだと言われています。

<思川と涙橋> 荒川区南千住2-28-8

 荒川区側にある説明板です。

   

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 思川と涙橋
 思川は南千住三丁目の東南部にあった堀。農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、明治通り北側に沿って流れ、橋場の渡しの北で隅田川に合流していた。源頼朝がこの川で馬を洗ったことから、古くは駒洗川と呼ばれていたという。文明十八年(一四八六)京都聖護院門跡の道興准后が思川を訪れ、「うき旅の道になかるる思ひ川涙の袖や水のみなかみ」(『廻國雑記』)と詠んだ。
 思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。橋名の由来は、小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。  荒川区教育委員会」

   

「江戸名所図会 思河橋場渡」

 説明板に掲示されている「江戸名所図会 思河橋場渡」です。
 江戸名所図会に「思河」が描かれています。思川と奥州街道が交差している箇所がです。

  


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