・江戸城天守台
・桜田門
・大手門
・竹橋
・田安門
・赤坂門
・市ヶ谷門烏帽子石
・牛込門亀石
・市ヶ谷新見附
・一石橋迷子しらせ石標
・霊岸島(亡失)
○ 几号水準点(港区)
○ 几号水準点(足立区、荒川区、台東区)
○ 几号水準点(新宿区/その他)
江戸城天守台の石垣に几号水準点が刻まれています。
北東隅の最下段です。
天守台の石垣に刻みこまれているのは少々驚きです。
<北桔橋門(きたはねばしもん)>
北桔橋門は、皇居東御苑の3ヶ所ある出入口の一つです。
江戸城天守台へは、ここからが近いです。
標柱「北桔橋門」は撤去されて、代官町通り土手内に説明板「北桔橋門」が設置されています。
<江戸城本丸御殿/天守台>
(案内板)
「江戸城本丸御殿
この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。
表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。」
(説明板)
「天守台
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以後は再建されませんでした。」
桜田門は桝形門で外部からの進入を防ぐため、二重の門になっています。
外側の門は高麗門、内側の門は櫓門です。
国の重要文化財に指定されています。
几号水準点は櫓門にあります。高麗門から入ると、直角に右に曲がり、櫓をくぐって左の石垣の下部に几号はあります。
皇居の石垣に刻みこまれているのは少々驚きです。
桜田門高麗門
桜田門櫓門
(説明板)
「重要文化財(建造物)指定昭和三十六年六月七日
旧江戸城 外桜田門
現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六二四?四四)とされ、現存する門は寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。
万延元年(一八六〇)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。」
「安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」(芳年)
「桜田門外の変」の様子が描かれています。
皇居東御苑の出入口は、大手門、平川門、北桔橋門の3カ所。
皇居東御苑の公開日に開門しています。
基本的に公開時間は9:00-16:00・16:30・17:00・18:00(月金休)。
開園時間等、宮内庁HPで要確認です。
大手高麗門向かって右手の下の石垣に几号の刻印があります。
竹橋御門西詰のポケットパークの石垣の右側面下に几号水準点が刻まれています。
土が盛り上がって下のほうが隠れていたので、ちょっと掘りました。
田安門の内外二つある門のうち、千鳥ヶ淵に近い方の門の外側から向かって右下に
頭部が欠けている几号水準点が刻まれています。
田安門は、国の重要文化財に指定されています。
「赤坂見附跡」の石垣西端下から2段目に几号水準点が明瞭に刻まれています。
(標柱)
「赤坂見附跡
左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は、右に坂を登った角にある説明板に記されています。」
(説明板)
「史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門を見ることができます。
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でも有りました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
千代田区教育委員会 寄贈 帝都高速度交通営団」
「この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、
形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、
人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、
永く保存するためこの日比谷公園に移されました。」
几号水準点が刻印されています。
心字池沿にあります。
石に刻まれた「不」の文字が、几号水準点。
文字は地面に垂直にたっているのが本来であり、
富士見町の牛込門の枡形石垣からここに持ち込まれた時に石は寝かされたのでしょう。
歩道に几号水準点が埋め込まれています。
歩道のすぐ後ろは公園で、東京市外濠公園と刻まれています。
「一石橋迷子しらせ石標」の正面下部に明瞭に几号が刻まれています。保存状態は極めて良好です。
正面 「満よひ子の志るへ」(下部に几号水準点)
左側面「たつぬる方」
右側面「志らす類方」
裏面 「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」
(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
一石橋迷子しらせ石標
所在地 中央区八重洲一ー一一
指 定 大正一三年二月五日 府仮指定
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(一八五七)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
碑文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を欠いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。
総高一七五・七cm(棹石一六三cm、台石一二・七cm)、棹石正面幅三六cm、同奥行二六cm、台石正面幅七〇cm、同奥行六八・五cm。作者などは不詳である。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
(参考)
「八ツ見橋(一石橋)」について、こちらで記載しています。