○ 霊岸島(霊巌島)とは
○ 越前堀児童公園
・霊巌島之碑
・越前堀跡
・石の由来
・出土した越前堀の石垣石
○ 越前堀の間知石
○ 徳船稲荷神社
○ 江戸湊発祥跡
○ 霊岸島量水標モニュメント
○ 一等水準点交無号
「霊岸島(霊巌島)」は、江戸幕府が埋め立てた「中州(人工島)」です。
亀島川沿岸部は埋立が不十分で足場が悪く、「蒟蒻島」と俗称され、岡場所「蒟蒻島」が形成されました。
地名由来の「霊巌寺」は、「明暦の大火」(1657年)により1658年に江東区白河に移転しています。
霊巌島の碑や越前堀の石垣石などがあります。
(説明板)
「霊巌島の由来
当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
寛永元年(一六二四)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の一歩を踏みだし、同十一年(一六三五)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
邸の北、西、南3面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町。東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年(一九三一)七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一・二2丁目、越前堀一・二・三丁目と改称され、更に昭和四六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
昭和五十二年三月 霊巌島保存会」
(説明板)
「越前堀跡 所在地 中央区新川一、二丁目地域
江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は十二?十五間(二○?三○m程)もあり、運河としても用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正十二年(一九二三)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、
「新川」となって現在に至っています。
今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
平成十七年三月 中央区教育委員会」
(説明板)
「石の由来
この公園で使用した石は、昭和六十年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際雉子橋付近から発生した石垣の一部です。
徳川幕府は 慶長十年(一六○五) 第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の三十一大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。
また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
中央区土木部公園課」
明確な矢穴が認識できる石があります。
新川二丁目交差点の植え込みに「越前堀の間知石」があります。
(説明板)
「越前堀の間知石
江戸時代、この辺りには越前福井藩・松平家の中屋敷がありました。
屋敷は隅田川に面しており、三面にお堀がめぐらされていました。このお堀は「越前堀」とよばれ旧町名のもとにもなりました。
この植え込みに配置されている大きな間知石は、お堀の石垣の根石として用いられたものと推測されます。
左の図は築地八町堀日本橋南絵図全(万延元年東京都立中央図書館所蔵)より抜粋したものに現在の道路を重ね合せたものです。
東京都第一建設事務所」
南高橋の霊岸島側にあります。
(説明板)
「徳船稲荷神社縁起
徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。
明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
例祭は、十一月十五日である。
新川二丁目越一町会崇敬会」
新川公園に「新川の跡の碑」があります。
<新川之跡>
「新川之跡
「萬治三年(一六六○) 河村瑞軒傳開鑿此地
昭和二十三年(一九四八) 以戦災焦土埋之」
(説明板)
「新川の跡 所在地 中央区新川一丁目地域
新川は、現在の新川一1丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し
この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。
規模は延長約五百九メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から、一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六○)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
平成六年三月 中央区教育委員会」
「江戸名所図会 新川 酒問屋」
「新川酒問屋」の酒樽は、「剣菱」が多く描かれています。
店内に「剣菱」。舟に山積みされた「剣菱」。
<錦絵の広告>
「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)
錦絵に描かれた「男山」「剣菱」「瀧水」の広告です。
最後の2枚は上下ひっくり返して拡大しています。
男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
伊丹酒の「剣菱」は、「水」にこだわり剣菱のラベルに「瀧水」の二文字を加えてたので(現在も)、
「瀧水」は添え書きの可能性もありますが、男山と同等の扱いなので、江戸の酒「瀧水」でしょう。
「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。
「江戸買物独案内 下巻」(中川五郎左衛門編 山城屋佐兵衛他 文政7年)に「瀧水」の記載があります。
河村瑞賢の屋敷が、霊岸島にありました。
(参考:河村瑞賢の墓所について記載済)
(説明板)
「河村瑞賢屋敷跡
所在地 新川一丁目八番地域
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八〜一六九九)の屋敷がありました。
瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の木材を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。
晩年にはその功績により旗本に列せられました。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四〜一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかって新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三〜一六八一)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
平成十五年三月 中央区教育委員会」
亀島川河口に「江戸港発祥跡」碑があります。
(碑文)
「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。
昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。」
東京湾汽船会社(渋沢栄一発案により誕生。現:東海汽船)の桟橋が、
将藍河岸の御船手組屋敷の跡地にありました。
<テラス案内板>
@向井将監ゆかりの地
1590年、豊臣秀吉公が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康公の武
将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。
さらに慶長・元和両度の大坂陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、
大いに軍功を賞されました。
忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。」
(株式会社名著出版刊『東京ふるさと文庫〜江東区の歴史』より)
A江戸湊の碑
江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。
関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされました。
幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、
ようやく1941年に開港の運びとなりました。
水準原点の検証をするための観測所としては、
現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所は移設されており、
こちらは歴史的経緯を伝えるためのシンボルとなります。
明治24年3月に几号水準点であった霊岸島旧点に替わる堅固な水準点として
「霊岸島新点・交無号」が設置されました。(霊岸島几号水準点は大正時代に亡失しています)。
「日本水準原点」(永田町)の標高は、交無号からの測量で決定されました。
日本水準原点については、こちらで記述済です。
(説明板)
「一等水準点「交無号」 標高 三・二四m
水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治六年から十二年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治二十四年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
現在の水準点は、平成十八年にこの地に移転されました。標石は昭和五年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
平成二十一年二月 国土地理院関東地方測量部」