Discover 江戸史蹟散歩
 
 伊興寺町 東陽寺


〇東陽寺 足立区東伊興4-4-1

<塩原太助古蹟>

 門柱の右にある「塩原太助古蹟」。案内標柱にしては古そうです。
 門柱の左には「戸田茂睡の歌碑 河村瑞賢追憶碑」の標石柱があります。

    

   

(新説明板)
「東陽寺
 当寺は、萬年山東陽寺と号し、慶長十六年(一六一一)に八丁堀(中央区)に創建されたと伝わり、開山は勅特賜大峰仏雄禅師南翁玄舜大和尚である。寛永十二年(一六三五年)に浅草(台東区)に移ったが、大正十二年(一九二三)九月一日に発生した関東大震災により焼失し、昭和三年(一九二八)五月に現在地に移転した。
 寺内には、塩原太助の墓、戸田茂睡歌碑、阿弥陀三尊来迎図板碑をはじめとした五基の板碑があり、いずれも足立区登録文化財となっている。
 塩原太助は上州沼田(群馬県沼田市)に生まれ、江戸に上り、その一生は「塩原太助一代記」として講談や歌舞伎で知られている。
 戸田茂睡は江戸時代前期の歌人で、碑は、天和二年(一六八二)に死亡した長男伊右衛門の死を悼んで 建立したものと伝えられる。碑は関東大震災によって半分を欠損したが、当寺の移転の際、共に現在地へ移転した。なお、平成三年(一九九一)、新碑を再建した。
 阿弥陀三尊来迎図板碑は、材石が秩父産緑泥片岩、いわゆる武蔵型板碑で、造立年代等不詳だが、線刻はきわめて精緻で、天蓋、瓔珞を備えた見事なものである。
 また、境内には、東廻海運・西廻海運の航路を切り開いたことで知られる河村瑞賢の追悼碑も建てられている。
  令和二年三月  東京都足立区教育委員会」

   

(旧説明板)
「東陽寺 
 本寺は、もと浅草にあったが関東大震災により焼失し、昭和三年(一九二八)五月に現在地に移転した。
 寺内には足立区登録文化財の塩原太助の墓、戸田茂睡歌碑、阿弥陀三尊来迎図板碑がある。
 塩原太助は上州沼田に生まれ、江戸に上り、炭のはかり売りから業を興して莫大な財産を築いた。その一生は「塩原太助一代記」として講談や歌舞伎で知られている。
 戸田茂睡は江戸時代前期の歌人で、碑は、天和二年(一六八二)に死亡した長男伊右衛門の死を悼んで建立したものと伝えられる。碑は関東大震災によって半分を欠損したが、当寺の移転の際、いっしょに現在地へ移動し保存した。なお、平成三年、新碑を再建した。
 阿弥陀三尊来迎図板碑は、材石が秩父産緑泥片岩、いわゆる武蔵型板碑で、造立年代等不詳だが、線刻はきわめて精緻で、天蓋、瓔珞を備えた見事なものである。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

  
 

<萬年山東陽寺ノ歴史>

  
 

<手向野碑/戸田茂睡歌碑> 足立区文化財

 本堂の前に戸田茂睡の歌碑があります。
 戸田茂睡が天和2(1682)年11月に没した長男伊右衛門(享年18歳)の死を悼んで建立した碑です。
 「風の音 苔の雫も 天地の 絶えぬ御法の 手向けにはして」

   
 

<十六羅漢>

 本堂の脇に十六羅漢が座っています。

    

    
 

<顕彰碑>

 漢文で文字がよく読み取れませんが、碑文中、渡辺喜平次という名が見えます。

  
 

<河村瑞賢追悼碑>

 屏風の追憶碑に碑文、碑文の下に由来が刻まれています。

     

   
 

<関東大震災檀家遺骨合葬塔>

 関東大震災で納骨堂焼失、集骨合葬。昭和60(1985)年建。

  
 

<塩原太助の墓> 足立区文化財

 墓石には戒名「鹽原壽算居士」と刻まれ、墓石の裏には「鹽原太助墓」と刻まれています。
 横に「鹽原太助手代」と刻まれた墓石があります。

     

  
 

<河村家墓>

 河村家の墓を探しました。
 墓域の奥のほうにありました。

     
 

<阿弥陀三尊来迎図板碑> 足立区文化財

 境内にはなく収蔵されており確認できず。


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