Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千住本宿

        東武北千住駅 歓迎パネル
       

  ○ 「千住宿」〜「千住」と「千寿」

  (千住1丁目)
  ○ 千住本陣跡
  ○ 千住宿問屋場・貫目改所跡
  ○ 不動院(投込寺)
  ○ 慈眼寺(別頁)
  ○ 森鴎外旧居跡(別頁)
  ○ 松尾芭蕉木工像(別頁)
  (千住2丁目)
  ○ 勝専寺(赤門寺)(別頁)
  ○ 金蔵寺(投込寺)
  ○ 北千住駅(乾杯 きたろーど1010(別頁)
  (千住3丁目)
  ○ 千住街の駅(別頁)
  ○ 千住本氷川神社(芭蕉句碑)
  ○ 千住宿模型
  (千住4丁目)
  ○ 横山家(地漉紙問屋)(別頁)
  ○ 吉田家(絵馬屋)(別頁)
  ○ 千住宿高札場跡(別頁)
  ○ 千住氷川神社(別頁)
  ○ 長円寺(別頁)
  (千住5丁目)
  ○ 名倉医院(足立区史跡)(別頁)
  ○ 追分道標
  ○ 旧板垣家住宅(国有形文化財)(別頁)
  ○ 安養院(芭蕉句碑 大黒湯唐破風屋根)
  ○ 芭蕉座像(別頁)
  ○ 荒川千住新橋緑地(虹の広場)
  ○ 光茶釜と将軍吉宗(別頁)

  ○ 足立区立郷土博物館
    ・芭蕉句碑
    ・水戸海道道標
    ・千住新橋親柱


千住宿

 千住宿は、慶長9(1604)年に日本橋を起点として定められた五街道のうち、日光街道(奥州街道)の第一宿であり、江戸四宿の一つです。
 文禄3(1594)年、荒川(現隅田川)に千住大橋が架橋され、寛永2(1625)年の日光廟造営に伴い交通の要地として発展しました。
 万治元(1658)年に「掃部新田」、万治3(1660)年に千住大橋を越えて「小塚原町」「中村町」が加えられ宿場町は拡大しました。

 千住下宿(小塚原町・中村町)には飯盛旅籠が並び、新吉原や千住五か町から訴えられるほど飯盛旅籠は繁昌しました。
 享保年間(1716-36)以降、「やっちゃ場」で毎朝市が開かれ日本橋魚河岸と並んで賑わいました。
 また、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ川越夜舟の中継地として水運で江戸の繁栄を支えました。
 小塚原には刑場があり、明和8(1771)年に杉田玄白や前野良沢らが刑死者の腑分けに立会った地として知られます。
 寛文7(1667)年本所の回向院が、牢死者や刑死者の供養のため回向院を開創しました。
 (国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所 千住」を要約及び加筆しました。)

○「千住」と「千寿」

 地名では「千住」ですが、千住地区の学校名には「千寿」の文字が使われています。
 嘉暦2(1327)年、荒井図書政次(源頼朝の元家臣)が荒川(隅田川)で千手観音を網で引きあげたことから、
 この地が「せんじゅ」と呼ぶようになったといわれています。千手観音は勝専寺に安置され、今に伝えられています(足立区文化財・非公開)。
 室町時代になり、8代将軍・足利義政の側室「千寿の前」の生地がこの地であったことから「千寿」と呼ぶようになりました。
 しかし、もともと千葉氏一族が住んでいたので「千葉住村」と言っており、慶長3(1598)年の検知の際に「千住」の郷と改めています。
 「千住」は千手観音と千葉氏に由来し、「千寿」は、最初に開校した学校が「千寿の前」の寿の字を使ったからということです。
 (千寿青葉中学校のサイト及び足立区のサイトを参照しました。)


千住宿本陣跡 足立区千住3-33

<千住宿本陣跡石標

 旧日光街道と見番横丁の交わるところの前に建っています。

  

<千住本陣跡とその周辺> 足立区千住2-22

 見番横丁を入ったところに、案内板があります。

(説明文)
「千住本陣跡とその周辺
 この案内板がある小道は千住二丁目と三丁目の境界をなす通りで北千住駅前通りが全通する昭和初期まではかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡
 この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。
●明治天皇行在所跡
 明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。
●千住見番跡
 江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。
●丁目境の筋違
 各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが一〜ニ丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対してニ丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。
  平成九年八月吉日  株式会社山山ア商店
            北千住サンロード商店街振興組合Aブロック」

  


千住宿問屋場・貫目改所跡 足立区千住1-4-15

(説明板)
「千住宿問屋場・貫目改所跡 千住一丁目4番
 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋跡は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話しもあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えらます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった坑ア拿と礎石の一、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
  平成18年3月 足立区教育委員会」

   


不動院 足立区千住1-2-2

 荒綾八十八ヶ所霊場の第60番札所です。

(説明板)
「不動院
 当寺の本尊は不動明王である。元弘二年(一三三ニ)秀天上人の開山という。
 もと吉祥院の末寺で、白幡八幡神社の別当と伝えられている。
 墓域に正面「南無阿弥陀仏」、右側面に「藝州」と大書した大きい供養塔がある。これは明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものである。
 また、川魚料理人の人たちが、魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚の碑がある。
 本寺は、千住宿の問屋場に近いところから宿場関係の人々の墓石が多い。明治九年(一八七六)六月二日、明治天皇東北巡幸のとき御休息所になった中田屋の墓、千住宿旅籠屋一同が万延元年(一八六○)に建てた遊女の無縁塔などがある。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

     

<無縁塔>

 無縁塔が2基あります。

   

<左の無縁塔>

 左の無縁塔は、正面に大きく大塚屋と刻まれています(万延元(1860)年9月)。
 飯盛女の他、天保飢饉死者も葬られているようです。
 左の無縁塔の台石には、旅籠名とその主人名が刻まれています。
 
    

<右の無縁塔>

 右の無縁塔の台石には、楼閣名が刻まれています。

   

<庚申塔が3基>

 ・安永6(1777)年の庚申供養塔(左)
   正面「庚申供養塔」、左面「同所西耕地石橋七ヶ所掛之」。石橋供養塔を兼ねています。
 ・元禄15(1702)年の青面金剛の庚申塔(中央)
 ・文化11(1814)年の庚申塔(右)
   正面「庚申」、裏面「西耕地石橋供養塔」。石橋供養塔を兼ねています。

  

<南無阿弥陀仏碑>

 明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、
 千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したもの。

  

<包丁塚>

 昭和31(1956)年7月に、全川魚割烹野田屋東包丁会が建立しています。

  

<豊川稲荷/地蔵堂>

 「豊川稲荷」と「地蔵堂」です。

  


金蔵寺 足立区千住2-63

 金蔵寺は、荒綾八十八ヶ所霊場の第84番札所です。

 千住宿には、投げ込み寺が二か所ありました。
 一つが不動院で、もう一つが金蔵寺(こんぞうじ)です。

 金蔵寺の山門入ってすぐ左に供養塔があります。
 中央は台座に三猿が刻まれた阿弥陀如来庚申塔です。
 右端「無縁塔」が天保8(1837)年、大飢饉餓死者の供養塔です。

 左端「南無阿弥陀仏」が千住宿の旅籠の飯盛女(遊女)の供養塔です。
 この供養塔は明治14(1881)年再建ですが、側面に「三界萬霊六親眷属七世父母大乗妙典六十六部・・・」と刻まれ、
 台石には大黒屋など旅籠屋名とその遊女の戒名が刻まれています。
 戒名の多くは「信女」ですが、「童女」「童子」もあります。

 明治5(1872)年の「娼妓解放令」の別名は「牛馬解き放ち令」、娼妓は牛馬と同じ扱いとされました。
 戒名のついた遊女の墓は、珍しいことになります。

(説明板)
「金蔵寺
 当寺は真言宗豊山派で、氷川山地蔵院(または閻魔院ともいう)と号す。本尊は閻魔大王で、建武ニ年(一三三五)三月の創建という。
 金蔵寺の門を入ると左側にニメートルほどの無縁塔がある。これは天保八年(一八三七)に起こった大飢饉の餓死者の供養塔で、千住ニ丁目の名主永野長右衛門が世話人となり、天保九年(一八三八)に建てたものである。
 碑文によれば「…飢えで下民に食なし…この地に死せる者八百二十八人…三百七十人を金蔵寺に葬り…」とある。
 その塔と並んで建つ別の供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている。
 千住宿には、本陣・脇本陣のほかに五十五軒の旅籠屋があり、そのうち、食亮旅籠(遊女屋)が三十六軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための供養塔である。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

    

     

  


千住本氷川神社 足立区千住3-22 HP

 一之鳥居には、「鯨岡兵輔謹書」の扁額が掲げられています。千住神社も鯨岡兵輔謹書でした。
 手水鉢はセンサーで獅子の口から水が出ます。

    

     

<千住本氷川神社旧社殿> 足立区文化財

 久須志神社、三峯神社、大黒天が祀られています。

    

(説明板)
「千住本氷川神社旧社殿
 千住本氷川神社は、徳治二年(一三○七)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。
 千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治四十三(一九一○)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和四十五年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。
 旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間(一・八メートル)余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒周りは二重たるきとなり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

  

<芭蕉句碑>

 旧社殿の脇に芭蕉の句碑があります。

 「春もやゝやけしきとゝのふ月と梅」

 芭蕉翁奥の細道旅立参百年記念に、平成3(1991)年に再建された碑です。
 文久3(1863)年に建立の旧碑は足立区立郷土博物館(大谷田)に保存されています。

   

<三精稲荷神社>

 旧社殿の右手にあります。

   

<狛犬/社殿>

   

    

<社務所>

  

<ラジオ体操発祥之地>

 ラジオ体操発祥之地の碑があります。

  


横山家 足立区千住4-28-1
 別途更新記載

吉田家 絵馬屋 足立区千住4-15-8
 別途更新記載

名倉医院 足立区千住5-22-1
 別途更新記載


追分道標 足立区千住5-24

 「千住案内図」から、追分道標近辺を抜粋。

  

<千住4丁目と5丁目の間の道標>

 「北へ 旧日光道中」(左)、「東へ 旧水戸佐倉道」(右)
 この道標は新しく、江戸時代の道標は「足立区郷土博物館」の庭に移設・展示されています。
 現在の道標は5丁目24番地にありますが、本来の道標は4丁目30-1の角にありました。
 本来の道標には水戸海道と刻まれています。

   

<Y字路の道標> 足立区千住5-20-14

 道標があったはずですが無くなっています。
 「北西へ 旧日光道中」(左)、「北ヘ 旧下妻道」(右)
 旧下妻道を進むとすぐ右手に名倉医院があり、道は荒川土手に突き当たります。土手の先は虹の広場。
 日光道中を進むと、安養院の横を通り千住新橋の手前で土手に斜めに突き当たります。

   

    

<Y字路の道標>復活(2021年12月確認)

 道標が復活しています。記載文字が異なるので新しく設置されたものでしょう。
 「左 旧日光道中」(左)、「右 旧下妻道」(右)

  

荒川千住新橋緑地(虹の広場) 足立区千住五丁目

 下妻道は荒川土手に突き当り、「虹の広場」となっています。
 1940(昭和15)年まで「小菅の渡し」が運行されていました。
 「虹の広場」は、平成3(1991)年に国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。

     

    

<小菅の渡し>

「B小菅の渡し
 このあたりはかつて 「弥五郎新田」と呼ばれた地区でしたが、荒川川放水路の完成によって、川の北側と南側に分断されてしまいました。大正13(1924)年に千住新橋が開通したものの、橋から離れた所では対岸まで行くにはかなり遠回りをしなければなりませんでした。そこで、現在の日ノ出町と小菅を結ぶところに小菅の渡しがもうけられました。当時の運賃は1人2銭、自転車は3銭だったそうです。当時の子どもたちの通学や通勤に利用され、昭和15(1940)年まで運行されていました。」

    


安養院 足立区千住5-17-9

 もと大川町千住5丁目氷川神社の別当寺でした。
 荒綾八十八ヶ所霊場の第73番札所です。

(説明板)
「安養院
 当寺は鎌倉時代に北條時頼が創建し、北条氏政の祈願所であったとも伝わる。もと千住元町(小名金佛耕地)にあったという。山号を西林山、寺号を長福寺と称した。慶長三年(一五九八)、現在地に移り、後に寺号を安養院と改めた。
 本尊の銅像阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代制作と思われ、背面に宝永四年(一七○七)九月二十六日の修理銘がある。中世にさかのぼる仏像として足立区登録有形文化財(彫刻)になっている。
 その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師坐像・密教用法具・真言密教の経典・古文書等が保存されている。
 中興開基第一世は真言宗の賢智上人で、北条の臣高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で寺運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送った。
 本堂は関東大震災で倒壊し、翌年の大正十三年、第二十二世良道僧正によって再建されたもの
である。
  平成二十七年三月  足立区教育委員会」

   

<かんかん地蔵尊>

 境内にはかんかん地蔵尊と仲直し地蔵尊が並んで祀られています。
 かんかん地蔵は、自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分を石で叩くと良くなるといわれ、
 このとき出る音から「かんかん地蔵」とも呼ばれています。このため、叩かれる部分がへこんでいます。

   

<芭蕉句碑>

 「ゆく春や 鳥なき魚の 目は泪」(昭和29年)の碑があります。

   

<樹齢500年前後の黒松>

    

<大黒湯唐破風屋根(移築保存)>

 「キングオブ銭湯」と呼ばれた大黒湯(足立区千住寿町)が閉店(令和3(2021)年6月30日)しました。
 大黒湯の唐破風屋根が安養院に移築保存されています(2022年9月23日「完成披露の日」)。

    

    

   


足立区立郷土博物館 足立区大谷田5-20-1 03-3620-9393

 千住宿の旧碑がここに集められているので訪館。

 入館料200円ですが、無料公開日が設定されています。
 毎月第2・第3土曜日、5月5日、5月18日、10月1日、11月3日。
 土曜の無料公開日に利用しました。

   

<芭蕉句碑>

 解説板より
 「芭蕉句碑
   春も漸けしきととのふ月と梅 ばせを
  文久3年(1863)、千住三丁目本氷川神社境内に建てられた芭蕉句碑。
 千住は芭蕉奥の細道の旅立ちの地でもあり、蕉門の流れをくむ巣兆が住んでいたこともあって
 俳諧がさかんであり、千住連衆が活躍していた。枇杷園随筆、白雄夜話によれば、
 芭蕉の自画讃で紅梅にこの句を讃しているという。
 本氷川神社に梅樹があって、芭蕉崇敬者らが建立したと考えられるが、真説は定かではない。
 風化が激しいため、平成3年年地元で新たに句碑を再建し、旧碑をここに保存した。

   

<水戸海道道標>

 解説板より
 「水戸海道道標
  もと千住四丁目30-1角、旧日光道中より分岐する旧水戸海道入口に建てられていた道標である。
 年代不詳だが、街道でなく海道とあり、往時の表記がわかる。
 現地は道幅が狭いうえ交通量も多く破損のおそれがあるので、ここに移した。」
    
    

<千住新橋親柱>

 解説板より
 「千住新橋親柱
  千住新橋は荒川放水路の開削に伴って、大正9年に着工、同13年6月に竣工した近代橋であった。
  その北千住側南詰に建てられていた親柱である。御影石の石柱で、北詰・南詰それぞれ2本ずつ建っていた。
  昭和53年、現在の新橋に架け替えられた際、取り壊され、一部ここに保管された。」

    


戻る