Discover 江戸史蹟散歩
 
 奉献石燈籠 寛永寺編 (奉献石燈籠 増上寺編

   徳川三代将軍家光(大猷院)は、慶安4(1652)年4月20日に逝去、
  幕府は、一周忌に全国の大名に燈籠献上を命じ寛永寺大猷院廟へ燈籠を寄進させました。
  慶安5年4月20日に、大猷院廟の仏入式が行われます。
  大猷院廟は享保5(1720)年に焼失、石燈籠はそのまま置かれました。
  戦後、燈籠は寛永寺再建寄付の返礼などで、寺院や個人に払い下げられ、寛永寺子院の林光院などに残った石燈籠があります。

  大名による奉献石燈籠をとりあげます。

  【千代田区】
   ○ ホテルニューオオタニ庭園 別頁

  【文京区】
   ○ 護国寺  別頁

  【台東区】
   ○ 林光院
   ○ 浄名院     別頁
   ○ 寛永寺根本中堂 別頁
   ○ 家綱霊廟勅額門
   ○ 開山堂銅燈籠
   ○ 清水観音堂   別頁
   ○ 天海僧正毛髪塔 別頁
   ○ 上野東照宮の銅燈籠と石燈籠 別頁
   ○ 萬隆寺  別頁
   ○ 壽松院  別頁
   ○ 榧寺   別頁

  【墨田区】
   ○ 法恩寺  別頁

  【江東区】
   ○ 羅漢寺  別頁
   ○ 東覚寺  別頁
   ○ 光明寺  別頁

  【豊島区】
   ○ 東福寺  別頁

  【北区】
   ○ 与楽寺  別頁
   ○ 城官寺  別頁
   ○ 地福寺  別頁

  【板橋区】
   ○ 養育院中央記念広場 別頁
   ○ 板橋区立郷土資料館 別頁

  【足立区】
   ○ 延命寺   別頁
   ○ 国土安穏寺 別頁

  【葛飾区】
   ○ 九品寺   別頁

  【清瀬市】
   ○ 長命寺  別頁

  【川越市】
   ○ 喜多院  別頁
 
 衆道と殉死

  ○ 殉死者の墓
  ○ 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓
  ○ 衆道(武士の男色)


林光院 台東区上野公園15-9

<路傍「大猷院殿 尊前」燈籠>

 道路沿の空地に燈籠2基と、燈籠の破損パーツがあります。
 1基は「大猷院殿 尊前」の燈籠です。もう1基は不明。

    
 
   

<山門前「大猷院殿 尊前」燈籠>

     

 左燈籠
 【奉献 石燈籠両基
  武州 東叡山
  大猷院殿 尊前
  慶安5年4月20日
  従五位下中川内膳正源朝臣久盛】

    

 右燈籠
 【奉献 石燈籠両基
  東叡山
  大猷院殿 尊前
  慶安4年12月20日
  従五位下大江朝臣毛利日向守就隆】

   

<寺号標石「林光院」>

 「東叡山 林光院」の寺号標石。
 
  

<境内「台徳院殿 尊前」燈籠>

 「台徳院殿 尊前」の燈籠が境内にあります。
 台徳院は2代将軍・秀忠です。
 台徳院霊廟は、増上寺にありましたが戦災で焼失。

    

   


家綱霊廟 勅額門 台東区上野桜木1-16

 4代将軍家綱の奉献石燈籠が4基あります。
 常憲院霊廟勅額門として国の重要文化財に指定されています。

(説明板)
「徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財) 台東区上野桜木一丁目十六番
 四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五月八日に三十九才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。
  平成六年三月  台東区教育委員会」

     

<「厳有院殿 尊前」燈籠>

 燈籠には、「厳有院殿 尊前」と刻まれています。
 柵外からの確認なので、細かいところまでは未確認です。

  


寛永寺開山堂(両大師) 台東区上野公園14-5

 銅燈籠は、大猷院(家光公)霊廟に奉納されていたものです。
 葵の紋のある銅灯籠ですが、なんと二引き両が刻まれています。
 大名奉献の石燈籠は、大名の家紋は一切ありません。

   


殉死者の墓 台東区上野公園18(現龍院墓)

 家光死去の際の殉死者の墓です。

(説明板)
「殉死者の墓  台東区上野公園十八番 現龍院墓地
 慶安四年(一六五一)四月二〇日、三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣五名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣四名と、その家臣八名の墓がある。
  堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)
  阿部重次(老中。武蔵国岩槻藩主)。家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
  内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)。家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
  三枝守恵(元書院番頭)。家臣の秋葉又右衛門。
 殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から十二年後、寛文三年(一六三三)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。
  平成十六年三月  台東区教育委員会」

 公開されておらず、柵外から見るだけです。

   


釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓 日光市本町1

 栃木県文化財、県HP説明より
 「 女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する釈迦堂の西側に所在する墓地であり、
  南北に長い長方形状を呈し、東側の釈迦堂本堂に向く。
  墓碑は総計24基で、3代将軍家光の殉死者5名、初代家康及び2代秀忠譜代家臣の墓碑19基である。
  その没年銘により、慶長15年(1610)から寛文8年(1668)に及び、およそ江戸初期のものとみられる。
  大老や老中といった幕閣の最高の権門・武門のものを含む24基の墓碑が、
  整然と存する本墓地の景観はまさに偉観であり、その価値は極めて高いといえる。」

     

    


衆道(武士の男色)

 殉死の理由は、衆道(武士の男色)にあるようです。
 側近の小姓など、主君に目をかけられ、ひいきされて重要なポストに取りたてられ、
 大きな御恩を自覚していた人々です。
 戦国時代に戦場で活躍した武士は御恩と奉公の関係が成立しているので、主君が死んでも殉死はしません。

 徳川家康の場合は殉死者はいません。秀忠の場合は、ひいきされていた老中1名が殉死。
 男色が公然となっていた家光の場合は5名の殉死者です。

 家光から深く寵愛された堀田正盛の出世がはんぱないですね。
 小姓から26歳で老中に出世し、老中のまま大政参与となって、老中の仕事は免除されています。

 女性に関心を示さない家光に対しては、世継ぎに困った春日局は、
 女中に男装させたり、尼に関心を示す家光と、功を奏し、これが大奥のはじまりのようです。

 伊達政宗が寛永13(1636)年に亡くなった際には15人が殉死しました。
 家光は殉死者が出ないように命じていますが(政宗の男色を知っていたのでしょう)、
 最終的には許可しています。家光が亡くなった時は寵愛した臣下5人が殉死しました。


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