<養育院と渋沢栄一像>
渋沢栄一は35歳の時に養育院の設立に携わり、92歳で亡くなるまで院長を務めました。
銅像は大正14(1924)年に制作され、栄一本人も出席して除幕式が行われました。
銅像は戦時金属供出の対象となりましたが、輸送の困難さや空襲等の事情から結局供出されず残りました。
養育院は、現在、東京都健康長寿医療センターとなっています。
2階に養育院・渋沢記念コーナーがあります。
<養育院中央記念広場>
正門から入って右手に養育院中央記念広場があります。
<養育院中央記念広場と「よろこび」>
ブロンズ像「よろこび」は元は池の中にあったようですが、現在池の外にあります。
池には水は張られていません。
(説明板)
「養育院中央記念広場と「よろこび」
この広場は、養育院初代院長渋沢英一翁の業績を記念し、あわせて院内のおとしよりや、地域並びに広く都民の方々の「いこい」と「ふれあい」の場として設けられたものです。
池の中にあるブロンズ像「よろこび」は、昭和五十七年度東京都「文化のデザイン」事業の一環として、この広場にふさわしい、やすらぎとうるおいを与える目的で制作されたものです。以下略。
昭和五十八年三月」
<養育院本院の碑>
(碑文)
「養育院本院の碑
養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申(救貧三策)の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独(かんかこどく)の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究・看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了ごん寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園にある。
なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
平成二十五(二千十三)年三月 養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」
(板橋区説明板)
「旧養育院長渋沢栄一銅像
日本の福祉・医療の原点である「養育院」は明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を越えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
帝展・文展の審査員も務めた彫刻家・小倉右一郎の制作で、高さ16
尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で作られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないまま昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至っています。
大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。昭和26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
平成26年12月 板橋区教育委員会」
<子爵澁澤榮一像> 板橋区登録有形文化財
台座正面の銘文には「子爵澁澤榮一像」と刻まれています。
裏面には「大正十四年十一月建設寄贈 澁澤養育院長銅像建設會
理事 中村是公〜」
平成14年10月の保護のための塗装工事で灰色となりました。
3層に保護膜が塗られ、最上層はフッ素系の保護膜が塗られています。
3代将軍徳川家光と11代将軍徳川家斉の寛永寺徳川将軍霊廟への奉献石燈籠が
養育院中央記念広場内にあります。
お寺以外へも幅広く石燈籠は放出されていたのですね。
奉献石燈籠
武州東叡山
大猷院殿尊前
慶安五年四月二十日
松平出雲守源勝隆
奉献石燈籠壱基
東叡山
文恭院殿尊前
天保十二年辛丑閏正月晦日
豊後国佐伯
従五位下伊勢守藤原毛利高泰
※家斉は天保12(1841)年1月7日に亡くなりましたが幕府はこれを隠し
1月30日に亡くなったこととしたため、公式には1月30日に亡くなったことになっています。
養育院・渋沢記念コーナー > 展示ガイド「ようこそ養育院・渋沢記念コーナーへ」
このほか、施設の沿革史を紹介するリーフレット「櫻園通信」各号がネットにアップされています。
<東京都養育院合葬碑> 塩原妙雲寺
碑文には、
「昭和十九年七月太平洋戦争終局に近く疎開の為栃木分院開設同二十七年七月閉院迄の間
不幸二豎に侵され、此の地に永眠せる者五八一人 洵に哀悼の念に堪えず
今平和復するも逝く者復還らず、茲に碑を建て永く諸霊の冥福を祈る
昭和二十八年春 東京都養育院」
平成22年7月の新しい碑が建っています。後に1名を合葬し、582人が眠っています。