○ 将軍家御成橋・御成道松並木跡
○ 国土安穏寺
○ 旧陣屋(桐田家)
○ 赤羽家長屋門大扉
旧日光街道沿に「将軍家御成橋・御成道松並木跡」石標柱があります。
平成9年3月に建てられた比較的新しいものです。
日光街道の西を流れる千住堀にかかっていた橋がかつてあった跡。
御成橋を渡ると葵の紋を許された国土安穏寺への松並木御成道となります。
松並木も現在はありません。
南無妙法蓮華経題目碑 国土安穏寺 安政2(1855)年
左
南無妙法蓮華経題目碑 安穏寺 宝暦13(1763)年 右
<施主>
施主は「新吉原江戸町 和泉屋平左衛門」とあります。
花畑大鷲神社の拝殿・本殿の東石垣と南石垣に新吉原の奉納が記銘されているし、
新吉原は、幅広く奉納しています。
御成橋→松並木の全くなくなった御成道を来て、山門は閉じられているので通用門から入ります。
歩道にはタイルモザイクがあります。
<山門>
山門は閉じているので、ここからは入れません。
本山は中山法華経寺で、酉の市の案内の掲示が右手の掲示板にありました。
正面に浄蓮院があります。左手に仁王門。
<御善所>
将軍忠秀および家光の鷹狩り・日光参詣の御膳所となっていました。
葵の紋を授けられた経緯は、謎の多い宇都宮の釣り天井事件です。
(説明板)
「国土安穏寺(こくどあんのんじ)
日蓮宗、天下長久山国土安穏寺と称す。
創建は、応永十七年(一四一○)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。
当初は、長久山妙覚寺と称した。本尊ならびに中山三祖日祐聖人自作の祖師像がある。
江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御膳所となり、八世日芸聖人の代宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(一六二四)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。したがって、当寺は、葵紋の使用を許された。
寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがある。
なお、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。
平成二年十月 東京都足立区教育委員会」
<仁王門>
手前に通用門があり、その先に立派な仁王門があります。通行はできません。
天井には鳴双龍が描かれています。
草鞋が一対奉納されています。
<御手植之松>
「第三代将軍徳川家光公 御手植之松
国重文「五街道分間延絵図」に画かれている樹木です。
足立史談会員 榎本義憲」
<本堂>
本堂前の松が、徳川家光公お手植えの松。
右手に「法華経を説くお祖師さま 高村光雲作」。
高村光雲の名前をみたのは想定外でした。
傍に「宗祖日蓮大聖人銅像造立銘」があります。
<鐘楼>
鐘楼の横には「旧本堂屋根瓦」が置かれています。
<嶋根歌舞伎発祥公演之地>
島根歌舞伎については、鷲神社にも碑があります。
<墓域>
掃除小僧と居眠り小僧の石像があります。
歴代住職の墓域は葵の紋、荘厳です。
「当山歴聖墓誌」には、宇都宮釣り天井事件に関わりのある8世日藝聖人も刻まれています。
<山内池護岸工事奉納碑>
寛永寺への奉献石燈籠「有徳院殿 尊前」が5基あります。
有徳院は徳川8代将軍吉宗です。
いずれも寛延4(1751)年6月20日)の記銘です。
裏面に奉納者の名が記銘されているので、寛永寺から燈籠を賜った個人の方々が
国土安穏寺へ奉納したことがうかがえます。読み取れた範囲内(推定含む)での記録です。
<仁王門3基>
仁王門近くに、小道を挟んで2基と1基の計3基あります。
「奉献石燈籠 両基
東叡山
有徳院殿 尊前
寛延4年6月20日」
有の文字が確認できるので、有徳院殿尊前と推定。
奉献者は読み取れず。
「奉献石燈籠 両基
武州東叡山
有徳院殿 尊前
寛延4年6月20日
岡崎城主
従五位下水野織部正忠任」
水野忠任は、三河岡崎藩第7代藩主です。
2基並んだ石燈籠の小道の反対側に1基あります。
「東叡山
有徳院殿 尊前
寛延4年6月20日
丹波国出石城主
従五位下越前守源○仙石氏政辰」
仙石政辰は、但馬出石藩の第3代藩主です。
<本堂左石燈籠>
「奉献石燈籠 両基
武州 東叡山
有徳院殿 尊前
寛延4年6月20日
奥州棚倉城主
小笠原内膳源長明」
ウィキで調べると、当時の棚倉城主は小笠原長恭。
<本堂右燈籠>
「奉献石燈籠 二基
有徳院殿 尊前
寛延4年6月20日
加賀国大聖寺城主
従五位下松平備後守朝臣利道」
加賀前田藩の支藩大聖寺藩主、前田利道の奉献です。
前田利道は、加賀大聖寺藩の第5代藩主。
旧陣屋(桐田家)前に、樹齢300年の足立区指定保存樹木の黒松があります。
桐田家には将軍の鹿狩り(ししがり)の際に、村の御用勢子人足が使用した旗があり、
足立区有形登録文化財に指定され、足立区立郷土博物館で保存(非公開)されています。
(説明板)
「有形文化財(歴史資料)
御鹿狩勢子村旗渕江領嶋根村
桐田家は嶋根村の旧家である。ここに江戸時代の鹿狩で使用した旗が保存されている。江戸幕府の将軍は軍事演習や権威を象徴する目的で、鷹狩をはじめとする多くの狩猟を行った。鹿狩もその一つで、享保一○年(一七二七)に八代将軍徳川吉宗が小金牧(松戸市小金原)で行った大規模な鹿狩は有名で、その後も江戸時代に四回行われた。
狩に際しては関東各地の農村の人々が勢子(人足)として動員されたが、人数は村ごとに決められており各々目印となる旗を掲げた。この桐田家に保存されている旗は、嘉永二年(一四八九)十ニ代将軍徳川家慶が行った小金牧の鹿狩で鳴根村の勢子が用いたもので、縦一○六cm・横六五cm、紺地に白抜き文字で次のように記されている。
「御鹿狩 渕江領
勢子人足四十一人
御用 鳴根村」
ここに記されたように嶋根村から勢子人足四一名が参加したことが分かる(勢子の全動員数約五万人)のをはじめ、将軍の鹿狩と村の関係を示す歴史資料として重要である。
平成八年三月 足立区教育委員会」
「御鹿狩勢子村旗渕江領嶋根村」(出典:足立区立郷土博物館所蔵資料)
スーパーの中に文化財が保存されているのは珍しいと思います。
文化財の指定は赤羽家長屋が解体された時点で足立区は解除しています。
(説明板)
「赤羽家長屋門
この長屋門は近世の島根村の人々に「金武様」の通称で知られていた牛込家のものであった。
建築年代は定かではないが、飾り金具の形状や和釘の使用から幕末と推測される。
その後赤羽家が昭和14年に屋敷とともに買い受けたものである。
この長屋門中央に取り付けられていた両開きの大扉を、
跡地であるこの場所に残し、歴史を受け継いでいく。」