「清水堂 花見図(江戸名所図会)」
「上野清水堂にて
鐘かけて しかもさかりの 桜かな 室井其角」
<観音堂>
本堂内の左手に閻魔大王像がおられるようです(撮影禁止、暗い)。
「江戸東京四十四閻魔」の第十三番です。
(説明板)
「清水観音堂(国指定重要文化財) 台東区上野公園一番二十九号
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永八年(一六三一)に創建した。当初現在地より一○○メートル余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(一六九四)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、木瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
近年老朽化が目立ち、平成二年より全面的な解体・修復工事を実施、平成八年五月に完成した。この間、移築年代を元禄九年とする定説を覆す元禄七年の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年二月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年九月二十五日には、奉納された人形を供養する行事がある。
平成十年三月 台東区教育委員会」
2013年12月17日除幕式で月の松が復活しています。
足立区の造園職人によって3年がかりで満月を作ることに成功。
2本は輪にならずに失敗、1本は予備で少し離れたところにあるとのことですが、
2本ある松の枝だは輪になっておらず、該当の予備の松は見当たりませんでした。
「名所江戸百景」(広重)
「上野清水堂不忍ノ池」(安政3)/「上野山内月のまつ」(安政4)
<しのぶ川>
江戸時代から明治初期まで、不忍池から流れ出る忍川には、三橋が架かっていたことで有名でした。
こちらの「しのぶ川」碑の脇にある水源は、京成電鉄上野駅トンネル内の地下水で、不忍池に注いでいます。
<黒門の由来>
黒門は南千住の円通寺にありますが、復元された黒門が昭和39年にここに建てられましたが、
朽ち果て撤去され、黒門の由来碑が残ります。
<清水観音堂舞台下>
<石階段>
石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)石燈籠(天明6年)が複数基あります。
柵の向こうにも近寄れず誰の尊前か不明の石燈籠が3基あります。
<清水坂>
(標柱)
「清水坂(きよみずざか)
この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(一六三一)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。」
清水坂の石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)奉献石燈籠(天明6年)と、
「常憲院殿尊前」(五代綱吉公)奉献石燈籠(寛永6年)があります。
<人形供養碑>
観音堂の裏手に「人形供養碑」があります。
人形供養碑の脇と背後に奉献石燈籠が3基あります。
(人形供養碑台座)
「人形
それは人の心を
明るく楽しく
豊かにし
子どもを
優しく美しく
健やかにする」
(副碑)
「人形供養碑
清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり 子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終りにここに集めて読経のうえ茶毘に付します
それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。
清水観音堂」
「東叡山寛永寺其二 清水観音堂 秋色桜(江戸名所図会)」
「秋色桜は清水堂の御供所構の内、井のかたわらにあり。
花は一種にして虎尾と称するもの是なり。中頃江府の商戸某の女秋色といえるもの、花のころここに来たり、
「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」といえる秀句ありしより名づくるとなん」
「木のもとに 汁も鱠も さくらかな 芭蕉」
<秋色桜(八重紅枝垂)>
清水観音堂の脇に、秋色桜(ヤエベニシダレ)があります。
2本植わっており、手前は上野東京ライオンズクラブの植樹によるものです。
(説明板)
「秋色桜(しゅうしきざくら) 台東区上野公園一番
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。
お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(一七二五)没と伝えられる。
碑は、昭和十五年十月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。
平成八年七月 台東区教育委員会」
※秋色庵大坂家(しゅうしきあん おおさかや)
お秋の菓子屋は、現在も三田で営業しています。
<秋色の短冊>
「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
<句碑>
・秋色桜句碑。「秋色」は女流俳人・菊后亭秋色
「井戸はたの 桜あふなし 酒の酔」
・翠影句碑
「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり 翠影」
・寒心斎句碑(反対側の柵の中)
「惜春賦 花三日 みころはきのふ 阿喜みやげ」