Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 寛永寺

  ○ 寛永寺根本中堂
  ○ 寛永寺根本中堂跡
  ○ 寛永寺総門「黒門」壁泉
  ○ 旧上野の黒門(円通寺)
  〇 寛永寺坂


寛永寺根本中堂  台東区上野桜木1-14-11 HP

 元禄11(1698)年、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応4(1868)年、彰義隊の戦争の際に焼失しました。
 現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建したものです。
 渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めています。

(説明板)
「寛永寺本堂  台東区上野桜木一丁目十四番十一号
 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに七間(十七・四メートル)。全面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重たるきとし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
  平成十六年三月  台東区教育委員会」

     

     

     

<銅燈籠>

 劣化で記銘が見当たらない銅燈籠2基。元はどこにあったのか不詳です。

     

<石燈籠>

 社務所の前にある石燈籠。
 南部重直盛岡藩主が大猷院殿尊前両基奉献ですが、1基のみあります。
 大猷院殿は第3代将軍徳川家光です。
 「奉献 石燈籠両基  武州 東叡山 
  大猷院殿 尊前  慶安四年辛卯歳 十二月廿日
  従五位下南部山城守源重直」

   

<銅鐘>

 「厳有院殿 御宝前」の鐘楼で、第4代将軍家綱の霊廟にあったものです。
 厳有院霊廟は東京大空襲で焼失しています。

(説明板)
「銅鐘(台東区有形文化財)
    台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺
 本鐘の大きさは、総高一七七・二センチ、口径九一・八センチ。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(一六八一)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(一八七三)から貞亨三年(一六八六)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳物技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成十八年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
  平成十九年三月  台東区教育委員会」

    

<水盤>
 
 元禄11(1698)年銘の水盤です。根本中堂が落成した年の奉納です。
 上野戦争で根本中堂は焼失しましたが、水盤は破壊を免れたということでしょう。
 「奉納 石盥盤
  東叡山 中堂
  元禄十一戌寅年九月吉辰
  営監 従五位下米倉丹後守源昌尹】

   

<六地蔵>

  

<鬼瓦>

 かつての本坊表門と根本中堂の鬼瓦です。

(説明板)
「旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
 この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定有形文化財)に据えられていたものです。
 旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和十二年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成二十二年から行なわれた解体修理によって修復されました。この時の調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より「吽」形が古いこと、かつては、鳥襖(鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥襖を取り付けた痕跡がなかったことが分かっています。
 東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折に西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。
  ◆旧本坊表門鬼瓦「阿」形
   高さ113cm×横幅118cm
  ◆寛永寺根本中堂鬼瓦
   高さ248cm×横幅325cm
  寛永寺 教化部」

   

<慈海僧正墓(都旧跡)>

(説明板)
「慈海僧正墓(都旧跡) 台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺
 墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統括、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。
 寛永元年(一六二四)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。
 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
  平成四年十一月  台東区教育委員会」

   

尾形乾山墓碑・乾山深省蹟>

 墓と顕彰碑の写しがあります。

(説明板)
「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟  台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺
 尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文三年(一六六三)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(一七一一〜一七三五)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 享保三年(一七四三)八十一歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一 の手によって探り当てられ、文政六年(一八二三)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化十二年(一八一五)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政二年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨四-八-二十五)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和七年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正十年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。
 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

   

(参考)「入谷乾山窯元碑」こちらで記載

<東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑>

 石碑が亀趺に乗っているので、かなりの偉人でしょう。

(説明板)
「東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑
 了翁禅師(一六三○〜一七○七)は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に陰元禅師に師事します。諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」と命名し、不忍池に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。
 こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永四年、七十八歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。
 本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。
  平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

    

   

「江戸名所図会 錦袋圓」
 錦袋円は江戸名所図会でも紹介されています。

  

「江戸名所図会 東叡山勧学寮図」
 勧学寮に「僧都像」と亀趺に乗った石碑「道行碑」があります。

    

<上野戦争碑記>

  

<虫塚>

(説明板)
「増山雪斎博物図譜関係資料 虫塚碑(都指定有形文化財)
   所在地 台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺境内
 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主、増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、雪斎の遺志によって文政四年(一八二一)に建てられた。
 増山雪斎は、宝暦四年(一七五四)に江戸で生まれた。本名を正賢といい、雪斎・玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人などと号した。江戸の文人大田南畝や大阪の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」(都指定有形文化財、東京国立博物館所蔵)はその精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政二年、六十八歳で没した。
 虫塚は当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、この場所に移転した。勧善院は、四代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
 碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる。
  平成二十五年十月  台東区教育委員会」

   

<茶筅塚>

  

<宝塔>

 気になる不詳の宝塔です。

  

<葵の間>

 徳川慶喜が蟄居していた葵の真です。

   


寛永寺根本中堂跡  台東区上野公園8番

 噴水池の一帯に、寛永寺根本中堂がかつてありました。

(説明板)
「寛永寺根本中堂跡  台東区上野公園八番
 江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには回廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。斎藤月岑作「武江年表」元禄十一年(一六九八)の項には、「八月、寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂入仏あり。九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来といったのにちなむ。瑠璃殿は坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ「竹の台(うてな)」と呼ばれた。
 竹の台はその名によるものである。慶応四年(一八六八)五月十五日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。
  平成四年十一月  台東区教育委員会」

    

 「東都名所上野東叡山全図」(広重)
  

寛永寺総門「黒門」壁泉

 上野公園入口にある壁泉が、寛永寺総門「黒門」の姿を表現しています。
 黒門は南千住の円通寺に移築されています。

(説明板)
「黒門(くろもん)
 この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門」の姿を表現しています。
 「黒門」は、寛永寺の総門です。かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入口となっており、その先に「黒門」がありました。
 幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。
 焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。」

   

「東京名所四十八景 上野黒門前花見連」(昇斎一景 明治4年 都立図書館蔵)

 説明板に掲示の「東京名所四十八景 上野黒門前花見連」です。

  


寛永寺坂 台東区上野桜木1丁目〜2丁目

 寛永寺橋から上野桜木2丁目交差点に上がる坂道が寛永寺坂です。
 かつては踏切と切通しの急坂でしたが、昭和3(1928)年に跨線橋(寛永寺橋)が開通しています。
 上野桜木2丁目交差点には、かつて京成線の「寛永寺坂駅」がありました。

(標柱) 台東区上野桜木1-15
「寛永寺坂(かんえいじざか)
 大正年間(一九一二〜二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は 昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。
  平成十二年三月 台東区教育委員会」

   

<石敢當>

 「石敢當」は魔除けのために置かれているようです。

   

<JR鴬谷駅方面>

  


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