○ 全国社会福祉協議会 初代会長渋沢栄一
○ 全国民生委員児童委員連合会 初代会長渋沢栄一
○ 渋沢栄一と感化教育
○ 渋沢栄一と滝乃川学園
○ 渋沢栄一と清水建設/清水基金
(参考)北浦雅子会長お別れの会
その他
○ ノーベル平和賞候補
○ 渋沢栄一と寺社
○ らい予防法と渋沢栄一
<初代会長渋沢栄一>
全国社会福祉協議会の初代会長は渋沢栄一でした。幹事には留岡幸助等が入っています。
(明治41(1908)年10月の設立当時は中央慈善協会、大正10(1921)年社会事業協会と改称、
昭和26(1951)年中央社会福祉協議会等を経て現在の全国社会福祉協議会)
<雑誌慈善→月刊福祉>
渋沢栄一は明治42(1909)年に雑誌「慈善」を創刊し、
その後時代に応じて「社会と救済」「社会事業」と変えて、
現在は「月刊福祉」として続いています。
<渋沢栄一像>
福祉新聞によると、渋沢栄一の大理石の胸像が全社協役員室にあるとのこと。
制作者は渡辺義知で、昭和29年の作です。
渋沢栄一が初代の、みずほ銀行、東京ガス、帝国ホテル等がモニュメント設置や展示を行い、
元養育院が展示コーナーを設置している中、全社協も、渋沢栄一像を一般の方の目に触れない役員室ではなく、
ホールとかに設置し併せて説明パネル設けたらどうでしょうかね。
「雨夜物語:青淵先生世路日記」(渋沢青淵 択善社 大正2年)
渋沢栄一の中央慈善協会にかかる記述の抜粋です。
「(四)中央慈善協会」
昭和6(1931)年4月、全日本方面委員連盟(現在の全国民生委員児童委員連合会)が誕生し、
初代会長に渋沢栄一が就任しました。
病を押して救護法実施に取り組んだ渋沢栄一は、連盟の発会式をみることなく昭和6年11月に逝去、
翌7年3月、渋沢別邸において発会式が行われました。
養育院従業員慰労会での挨拶(昭和4年5月19日)で、こんな記述を見ました。
子どもに対する取扱方が、厳格に躾けねば情弱になるとして厳格であったので、
子どもの将来のため決して策の得たものではないと感じ
「児童の為めに親に代つて心配して呉れる人が必要である」
と直ちに職員を任用した結果、児童の性質がよくなったと語っています。
まさに子どもへの福祉対応の本質を突いた対応と思います。
内務省主催の感化救済事業講習会(現在の国立武蔵野学院付属児童自立支援専門員養成所)や、
感化院長会議(現在の児童自立支援施設長会議)に、中央慈善協会会長として出席、
演説する力のいれようをみると、養育院として感化部も有し(現在の東京都立萩山実務学校)、
児童の感化教育に尽力した渋沢栄一の卓越さを感じます。
○滝乃川学園跡 北区滝野川1-90-11
明治通りの滝野川1丁目の歩道の植栽の中に「滝乃川学園後」説明板があります。
(説明板)
「滝乃川学園跡 滝野川一−九○地先
滝乃川学園は、日本で初めての知的障がい児のための教育福祉施設として滝野川七四三番地に設立されました。
学園創立者の石井亮一は、キリスト教精神に基づく知的障がい児の教育・研究に生涯をささげた教育者で、アメリカで障がい児教育の見分を広め、こうした成果を自らの学園で実践し、妻の筆子と共に我が国の障がい児教育と福祉・女子教育に大きな足跡を残しました。
学園の起こりは、明治二四年(一八九一)年に発生した濃尾地震で孤児となった女児たちを引き取り、「孤女学院」を設立したことに始まります。この児童の中に知的障がいの子供がいたことから、障がい児の教育と福祉に力を注ぐことを決意したのです。翌年滝野川の地に園舎を建て、明治三○(一八九七)年に「滝乃川学園」と改称しました。滝乃川学園となってからは、従来からの孤女への教育と障がい児への教育を行う二つの教育部が設けられ、教員保母の養成も行われました。七・八百坪とされる敷地内には、生徒の居室にあたる建物や教室、祈りをささげる礼拝堂などが所在しました。
その後、園児の増加や設備の増設などの必要から明治三九(一九○六)年、隣接する巣鴨村に約四二○○坪の敷地を確保し移転しました。昭和三(一九二八)年にはさらに、現在の学園の所在する国立市谷保へと移転しています。
平成二十五年三月 東京都北区教育委員会」
石井亮一は「滝乃川学園」(2021年に創立130年を迎えます)の創設者。
日本知的障害者福祉協会の創設者。
墓石には、十字架の下に「石井亮一室筆子之墓」と刻まれています。
裏面は生没年月日が刻まれています。
大正9(1920)年3月、園児の失火が原因で滝乃川学園は被災し、石井夫妻は学園の閉鎖を決意します。
石井筆子の東京女学校時代の同級生の穂積歌子(法律家の穂積陳重の妻で、渋沢栄一の長女)と
渋沢栄一が学園に来て援助を申し出たらしいです(歴史が眠る多摩霊園のサイトで記載を見ましたが、
記念財団のアーカイブには記載は見つけられない)。
また、渋沢栄一は大蔵省では筆子の父・渡辺清と席を並べた間柄でした。
貞明皇后より事業存続の内旨があり、寄付金が集まり学園は再建されます。
間もなく3代目理事長に渋沢栄一が就任しました(大正9年9月から死去まで。記念財団のアーカイブより。
滝乃川学園のHPでは大正10年就任とあります)。
公職を去っていた渋沢栄一は「石井さんの事業だけは、経営の労を省いて教育に専心させてあげたい」と
理事長に就任します(滝乃川学園二十年史)。
渋沢栄一は、大正4年に中央慈善協会の懇談会が滝乃川学園で開催され出席、
大正6(1917)年9月13日に、養育院の安達幹事を伴って滝乃川学園を参観しているので
被災前から心を寄せていたようです。
巣鴨で栄一を出迎えた亮一は、度重なる労苦に見違えるほど痩せ細り、元気を失っていたといいます。
傍らで寄り添う筆子に、栄一は、「上州渋川の奥の四万温泉に2週間ほど行ってきなさい。
多少不便な山の湯だが、どんな名医にかかるより効き目があると我が故郷では評判だ。
石井君の神経と胃腸にも、お筆さんの足の怪我にも効き目抜群、騙されたと思って行きなさい」
と優しく語りかけました。これが渋沢理事長から亮一に出た初の出張命令だったそうです。
(北区ホームページ 堀船中学校 「滝乃川学園と渋沢栄一のつながり」より引用)
社会福祉法人 瀧乃川学園のホームページが網羅的に詳しいです。
何回か行っていますが、同行者が写っている画像が多く、一部のみ抜粋して掲示しています。
グループホームなど、施設外の地域にも展開しています。
明治20(1887)年、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため、渋沢栄一は相談役に就き経営にあたり、
約30年間務めました。
渋沢栄一が創業に関わった企業は多々ですが、清水建設は江戸時代創業で渋沢栄一は創業に関わっていませんが
渋沢栄一の精神をしっかりと受け継いでいる会社だなと思います。
昔、清水基金海外研修30周年記念後援会を聞きに行って、末光先生のお話も感銘を受けましたが、
清水建設社長の清水康雄氏が、渋澤栄一から、
「会社の利益は、社会のおかげで得たものであるから、利益の一部は社会に還元しなければならない。」
と助言を受け、清水康雄氏の遺言に添って清水基金が創設されたということに改めて感銘しました。
知的障害児者と重症心身障害児者の福祉の向上にしっかりと取り組んできた清水基金に感銘します。
渋沢栄一は、日米関係の改善に取り組んだことで、
1926年と27年にノーベル平和賞の候補に推薦されていました。
渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めました。
また1924(大正13)年からは浅草寺の信徒総代となり、
浅草寺臨時営繕局、(財)浅草観音大慈会にも顧問として関わりました。
<日光東照宮> こちらで記載
明治に入り幕府の庇護を失った日光の社寺と景勝を護るべく、明治12(1879)年に「保晃会」が組織され、渋沢栄一も会員の一人でした。
渋沢栄一は、日光鉄道(現JR日光線)の敷設、日光駅(現JR日光駅)の築造、日光ホテルの整備などを支援しました。
日光東照宮三百年祭奉斎会が大正2(1913)年に組織され栄一は会長を依嘱されました。
三百年祭は大正四(1915)年六月三日に行われ、栄一は列席しました。
「日光東照宮社号標」
日光東照宮の参道、石鳥居の手前にある社号標は、大正13(1924)年5月に建立されたもので、
文字は渋沢栄一の揮毫です。
<明治神宮> こちらで記載
明治神宮は渋沢栄一が創建に当たって中心的役割を果たしました。
渋沢栄一書「明治神宮鎮座祭紀念碑」(大正10年8月)が素盞雄神社(荒川区南千住)に残っています(こちらで記載)。
大正9(1920)年11月1日から3日間、鎮座祭が行われています。
「明治神宮外苑」は渋沢栄一たちを中心に、民間や市民の手によって作られました。
渋沢栄一の揮毫による「御鷹の松碑」があります(こちらで記載)。
富岡八幡宮の社殿大修理のため、明治36(1903)年7月9日修補会会長となり尽力しました。
明治42(1909)年に火災で焼失した増上寺再建のため、大正7(1918)年に興勝会の副総裁となり尽力しました。
<諏訪神社/福住稲荷神社> こちらで記載(諏訪神社/福住稲荷神社)
深谷市の旧血洗島村の鎮守の諏訪神社の本殿は、明治40(1907)年9月に渋沢栄一と血洗島村民が費用を折半して造営されました。
本殿の扁額は渋沢栄一の揮毫です。
拝殿は大正5(1916)年9月に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進しました。
社号標「村社諏訪神社」は、明治30(1897)年に栄一が揮毫したものです。
福住稲荷神社(旧渋沢邸内)の扁額は渋沢栄一の文字です。
<七社神社> こちらで記載
渋沢栄一は明治34(1901)年に飛鳥山邸を本邸とし七社神社の氏子となりました。
「栄一揮毫の社額」と「枯松を祭る文の碑」(松が枯れたことを悲しみ栄一が建てた碑)があります。
<小塚原回向院> こちらで記載
小塚原回向院烈士遣蹟保存会は、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、
渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足しました。
大正9(1920)年に無縁仏供養塔、大正10(1921)年に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑を建立しています。
<湯島聖堂> こちらで記載
関東大震災で焼失した湯島聖堂を復興するための聖堂復興期成会で、
渋沢栄一は副会長となり、聖堂再建に尽力しました。
<らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑>
(碑文)
「患者であった方々などが強いられてきた苦痛と苦難に対し、深く反省し、率直にお詫びするとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げ、ハンセン病問題の解決に向けて全力を尽くすことを表明する。 平成23年6月 厚生労働省」。
画像撮っていたはずなのですが見当たらず。
<らい予防法と渋沢栄一>
ハンセン病の専門医として隔離の必要性を主張し続けた光田健輔医師を支えた渋沢栄一の存在は大きい。
1905(明治38)年には渋沢栄一、大隈重信らが癩予防相談会を開催し、らい予防法の上程に繋がっています。
1931(昭和6)年3月に設立された財団法人「癩予防協会」の会頭に渋沢栄一が就いています。
今の時代から見ると、渋沢栄一や大隈重信、北里柴三郎は判断を誤ったと言えましょう。