Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 渋沢栄一生誕の地/血洗島

  ○ 旧渋沢邸「中の家」
  ○ 青淵公園 青淵由来之跡
  ○ 麺屋忠兵衛
  ○ 東の家跡地(渋沢酒店)
  ○ 諏訪神社


旧渋沢邸「中の家(なかんち)」 深谷市血洗島247-1

 渋沢栄一が生まれ育った主屋は1892年(明治25年)に火災で焼失、
 現在の中の家は家督を継いだ栄一の妹てい、夫の市郎夫婦が1895(明治28)年に上棟した住居です。
 現在は土地建物ともに深谷市所有となっています。
 

<旧渋沢邸「中の家」> 深谷市指定史跡

 旧渋沢邸「中の家」は、深谷市指定史跡に指定されているとともに、
 「渋沢栄一生地」として県の旧跡にも指定されています。
 「青淵翁誕生之地」(昭和15年建立)は、幸田露伴の書です。

   

    
 

<中の家にて>

 昭和2年「中の家」にて(パンフレット)

  
 

<若き日の栄一像>

 「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」

     
 

<主屋>

    
 

<屋根瓦紋>

 澁澤倉庫の社章と同じですね。
 藍玉の商いをするときに使用した記章の(ちぎり・りうご)の瓦です。

    
 

<渋沢栄一アンドロイド(和装姿)>

 渋沢栄一アンドロイドがプレ公開中です。首から上だけ動いています。
 令和3年2月13日〜12月26日まで。

    
 

<谷中霊園にあった碑>

 旧渋沢邸にある三基の碑は、栄一が眠る谷中霊園にありましたが、
 渋沢家墓所の整理縮小にあたって子孫より寄贈され「中の家」に据えられています。

     
 

<先妣渋沢氏招魂碑>

 渋沢栄一の母、渋沢えいの碑。
 撰文は栄一。

    
 

<晩香渋沢翁招魂碑>

 渋沢栄一の父、渋沢美雅の碑。
 撰文は尾高惇忠。

   
 

<渋沢平九郎追懐碑>

 渋沢平九郎は、尾高惇忠の末弟です。栄一がパリ万博に旅立つ前に養子となりました。
 1864(慶応4)年、飯能戦争で自刃。撰文は栄一。

   
 

<中の家を守った渋沢家の人々>

 渋沢栄一が中の家を出た後、中の家を守った市郎、そして市郎の次男治太郎、
 さらに名古屋大学総長を退任後、中の家に戻った市廊の長男元治。
 諏訪神社に顕彰碑があります。画像はパンフレット。

   
 

<中の家の建物>

     

     

     

 庭にあった石が気になりました。力石にしては小さくまん丸。渋沢栄一少年の練習用力石と勝手に思いこむ。

  


青淵公園 青淵由来之跡 深谷市血洗島255

 青淵由来之跡の碑は、旧渋沢邸の裏の青淵公園に建てられています。
 

<青淵由来之跡>

 表面「青淵由来之跡」は、渋沢栄一とも親交のあった清浦奎吾の揮毫です。
 裏面には、栄一の甥の渋沢治太郎による「建碑の記」が記銘されています。昭和11年10月記銘。

 渋沢栄一の号「青淵」は、渋沢栄一が18歳頃に尾高惇忠に付けてもらいました。(雨夜譚会談話筆記に記載)
 中の家の下にあった淵が命名のもとで、中の家は「血洗島字淵の上」でした。(碑裏面に記載)

    

   
 

<青淵橋>

 清水川にかかる橋は青淵橋。

  


○渋沢家墓地

 血洗島渋沢一族墓地だと勘違いしました。そちらはもう少々東でした。

  
 

○稲荷神社 深谷市血洗島

 稲荷神社があります。その奥にはネギ畑が拡がります。

   


麺屋忠兵衛 深谷市血洗島247-1 048-598-2410 11:30-14:00
 
 旧渋沢邸(中の家)の真横に古民家の煮ぼうとうの店「麺屋忠兵衛」があります。
 山梨の味噌仕立てのかぼちゃほうとうと趣を異にし、深谷の煮ぼうとうはしょうゆ仕立てです。

     

     


東の家跡地(渋沢酒店) 深谷市血洗島234-5

 論語の道にある渋沢酒店に「東の家跡地」の掲示があります。

 「天皇皇后両陛下来村 平成二十九年十月二十一日
  渋沢市郎右衛門・喜作 宗助 東の家跡地 渋沢利雄」

    


諏訪神社 深谷市血洗島117-6

 諏訪神社は旧血洗島村の鎮守です。

 本殿は明治40(1907)年9月に渋沢栄一と血洗島村民が費用を折半して造営されました。
 拝殿は大正5(1916)年9月に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進しました。

 渋沢栄一も幼少期に舞った、血洗島獅子舞は、深谷市の無形民俗文化財に指定されています。

   
 

<社号標/参道>

 社号標「村社諏訪神社」は、明治30(1897)年に栄一が揮毫したものです。

     
 

 拝殿の左脇に橘の木と石碑があります。長女穂積歌子が橘の木を植え石碑を建てました。

(説明板)
「 諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えれれている。
 大正五年(1916年)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市 」

   
 

<澁澤親子遺徳顕彰碑>

 一の鳥居の右側に大きな「渋沢親子遺徳顕彰碑」があります。「以和為貴」の題字です。
 渋沢栄一が中の家を出た後、中の家を守った市郎、そして市郎の次男治太郎、
 さらに名古屋大学総長を退任後、中の家に戻った長男元治、
 この三人を顕彰しています。昭和48年の建立です。
 碑文は、諏訪神社の拝殿に置いてあるパンフレットに記載されてるので参考になります。

    
 

<澁澤栄一翁の寄進による拝殿建立一○○周年記念>

 「平成二十八年十月吉日」

    
 

<宮城遥拝所>

  
 

<拝殿・本殿>

 拝殿と本殿はそれぞれ独立しています。
 本殿の扁額は渋沢栄一の揮毫です。
 「諏訪神社 正四位勲二等男爵澁澤榮一謹書」

    

    
  

<渋沢青淵翁喜寿碑>

 渋沢栄一の喜寿を祝って、諏訪神社の氏子中の拠金によって建立されました。
 徳川慶久(徳川慶喜の7男)の題額です。
 碑文は、諏訪神社の拝殿に置いてあるパンフレットに記載されてるので参考になります。

    

  
 

<天満宮ほか>

 境内右奥に天満宮があります。境内左奥に石祠2、石祠3があります。

    


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