Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 渋沢栄一 江東区永代

  ○ 渋沢栄一邸跡
  ○ 澁澤倉庫創業地
  ○ 福住稲荷神社
  ○ 佐久間象山砲術塾跡


渋沢栄一宅跡(江東区史跡) 江東区永代2-37-28 澁澤シティープレイス永代

 明治9(1876)年から住んだ旧深川福住町邸宅跡に案内板があります。
 当時は深川区で、渋沢栄一は同区会議員を15年にわたり務めました。

 旧渋沢邸は、深川、三田、青森と移転。
 さらに現在清水建設の「潮見イノベーションセンター」(江東区潮見2-8-13)に移築準備中です。

(説明板)
「江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。
 天保十一年(一八四〇)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(一八七三)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力を注ぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(一九三一)九二歳で没しました。
 栄一は、明治九年(一八七六)に深川福住町(永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二一年(一八八八)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と本区との関係は深く、明治二二年(一八八九)から同三七年(一九〇四)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三〇年(一八九七)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(一九一六)、実業界を引退するまでに五百余の会社の設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成二一年三月  江東区教育委員会」

    

   
 

三田共用会議所> 港区三田2-1-8

 渋沢栄一が有していた私邸(1878年に深川福住町に建築、1908年に現位置に移築)で、
 栄一の孫で元日本銀行総裁の渋沢敬三から1946(昭和21)年に財産税として物納された建物を、
 公邸を経て省庁の共用会議所として使用されています。現在の建物は1993年に改築された2代目です。
 初代の建物は、杉本行雄氏の尽力により、1991年10月に青森県三沢市の古牧温泉渋沢公園に移築され、
 現在、清水建設の「潮見イノベーションセンター」(江東区潮見2-8-13)に移築準備中です。
 潮見イノベーションセンター(仮称)は、2023年秋オープン予定です。

     


澁澤倉庫発祥の地

(碑文)
「澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・ 保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」
 日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。
 渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)であった。
 明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、このの記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。
 澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
   平成十六年四月吉日  澁澤倉庫株式会社」

    
 

<青淵澁澤榮一像> 澁澤シティープレイス永代

 澁澤シティープレイス永代のロビーに澁澤榮一胸像があります。
 青淵澁澤榮一像は、澁澤倉庫株式会社創業九十五周年を記念して制作、1993年1月設置です。
 澁澤倉庫株式会社は、上場企業では唯一、渋沢の名を冠した会社です。
 オフィスフロアの一角で渋沢栄一の史料を展示しているそうです(日経新聞記事)。
 1階ロビーが閉まっていたので、セブンイレブンとなりの窓から撮影しました。

    

 平日に訪問する機会を得たので、ロビーに入りました。
 銘板を見ると、「澁澤倉庫株式会社発祥地永代に澁澤シティプレイス建築を記念して製作 ニ○○四年四月吉日」とあります。
 以前記載した内容と異なります。以前記載した根拠を忘れましたが、新聞記事とかそれなりのもののはずです。
 澁澤シティプレイス竣工時に以前に製作されていた像を移設し、台座と銘板をこしらえて設置したのですかね。
 前回の記載は誤りとして、平成16(2004)年4月に製作・設置されたと訂正します。

     

(正面)
 「青淵澁澤榮一」

(裏)
 「澁澤倉庫株式会社
   発祥地永代に
    澁澤シティプレイス
     建築を記念して製作
      ニ○○四年四月吉日」

   


福住稲荷神社(渋沢栄一宅跡) 江東区永代2-37

 福住稲荷神社は、近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠でしたが、明治9(1876)年に澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、
 明治30年に澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。

 大正12(1923)年の関東大震災で焼失し、昭和5(1930)年に再興されました。
 鳥居、神狐像、力石(10個)が江東区文化財に指定されています。
 駐車脇に入り口の扉があります。開門時間7:00-17:00。

     

     
 

<扁額>

 額の文字は澁澤栄一によるものです。

   
 

<鳥居> 江東区登録文化財

 「澁澤倉庫株式会社」。昭和5年銘。

    
 

<力石> 江東区登録文化財

 力石が10基並んでいます。 が刻まれた力石もあります。

     

      
 

<神狐> 江東区登録文化財

 昭和6年6月銘の神狐。「澁澤倉庫株式会社社員一同」銘。

    

   
 

<玉垣>

 昭和6年6月銘。「澁澤倉庫株式会社荷役方一同」銘。

   


佐久間象山砲術塾跡(江東区史跡) 江東区永代1-14付近

 渋沢栄一宅跡の隣地に「佐久間象山砲術塾跡」があります。
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信州松代藩下屋敷があった場所です。

(説明板)
「江東区登録史跡 佐久間象山砲術塾跡
  永代一−一四付近
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(一八一一)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(一八三三)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保一三年(一八四ニ)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(一八四○〜一八四ニ)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永三年(一八五○)七月、深川小松町(永代一)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。同年十ニ月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(一八五四)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(一八六四)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月一一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、五四歳の生涯を閉じました。
  平成ニ一年三月  江東区教育委員会」

   


戻る