Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 芝公園

  ○ 増上寺


○増上寺  港区芝公園4-7-35 HP

 渋沢栄一は、明治42(1909)年に火災で焼失した増上寺再建のため、
 大正7(1918)年に興勝会の副総裁となり尽力しました。

    

   

 左手にザ・プリンスタワー東京(徳川家南霊廟)、右手に東京プリンスホテル(徳川家北霊廟)。
 徳川歴代将軍の元霊廟の上に建っています。

   

「江戸切絵図」

 「芝口南西久保 愛宕下之図」に描かれています。
 増上寺部分を回転して拡大。

   

「江戸名所図会」

 江戸名所図会に「三縁山増上寺」其一〜其四にわたって描かれています。
 其1〜其4の絵を1枚に連結しました。

  

<増上寺旧方丈門> 港区芝公園4-7-35

(説明板)
「東京都港区指定文化財 有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)
 増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。
 四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。
 蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
  昭和五十五年十一月十五日  東京都港区教育委員会 」

   

<三解脱門>

 国の重要文化財として指定されています。

     

    

<グラント松>

 (説明板)
 「グラント松
  米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓として日本を訪れ、
  増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。」

   

<鐘楼堂/大鐘楼>

 「今鳴るは芝か上野か浅草か」
 戦時中に供出されなかったことが不思議です。

     

<土木殉職者慰霊塔>

 全国建設業協会の前身である日本土木建築請負業連合会が、
 昭和12年3月21日、殉職者の御霊を合祀・供養するため慰霊塔を建立しています。

   

<聖観世音菩薩>

 ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして

    

<魚供養之碑>

   

<仏足石>

 (説明板)
 「仏足石 
   仏足石は仏の足うらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や
  菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。
   この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に
  建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。」

   

<ブッシュ槙>

 (説明板)
 「ブッシュ槙(コウヤマキ)
  米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、
  記念としてこの樹をお手植されました。」

    

<詠唱発祥の地>

 増上寺吉水講の発足20周年を記念して2002年に建立されています。

  

<奉納 桜二百本 さつき二千株>

 永谷園本舗が昭和55年に奉納。

  

<奉納桜百本>

 永谷キミの喜寿記念に昭和55年に奉納。

  

聖鋏観音>(北村西望氏の制作)

 北村西望氏の作品がありました。

(説明板)
「聖鋏観音縁起
 この聖鋏観音像は、昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
 願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己を滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の拠り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。
 聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
 毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。
  ハサミは観音菩薩の御手そのものである。
    徹誉大僧正」

     

<祐天桜>

 住友林業のバイオテクノロジーで増殖された貴重種の祐天桜が植えられています。

   

<阿波丸事件殉難者之碑>

 (碑文)
「阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和二十年四月一日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は二千有余名、世界史上最大の海難事故となった。(以下略)
  昭和五十二年四月一日    阿波丸事件犠牲者 遺族一同」

     

<め組殉難供養碑>

 江戸の町火消し「め組」の殉難者・物故者の供養のために、享保元(1716)年に建立されました。
 かたわらに纏を刻した標石と、組員名を刻した玉垣風の石柱があります。
 徳川家の菩提寺境内に、町人の供養碑があります。

   

    

弔魂之碑>

 西南の役で戦死した看護卒の供養碑で、明治11年に建てられたものです。
 題字は山岡鉄太郎(鉄舟)の筆です。

    

<筆塚(心と創造)>

   

<熊野(ゆや)神社(熊野三所大権現宮)>

   

 「三本足の烏[八咫烏]」
  手水鉢には熊野権現の神使「八咫烏」が日輪とともに描かれています。

    

 「熊野三所大権現宮 由来記」

  

<芝縁(しえん)>

 料理店があります。

  

<西向聖観世音菩薩>

 鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した
 石像の観音さまです。昭和50(1975)年、安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。
 江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています。(増上寺HP説明を短くまとめた)

(標柱)
「西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、 現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
 将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。
  平成四年三月三十日  港区文化財総合目録登録  港区教育委員会」

    

   

<千躰子育地蔵>

 現在は千体を超え、1300体ほどあるようです。

     

<三波石>

  

<安国殿>

 家康公が尊崇していた「黒本尊」(御開帳:正月・5月・9月の15日)が祀られています。

    

<大殿>

 大修理中。

  

<四菩薩像>(港区登録有形文化財)

 徳川将軍家墓所前にあります。

   

<貞恭庵>

 皇女和宮さまゆかりの茶室です。

   


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