Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 太田道灌創建・再興・ゆかりの寺社

  ○ 太田姫稲荷神社本宮
  ○ 太田姫稲荷神社元宮
  ○ 麹町太田姫稲荷神社
  ○ 平河天満宮布袋像「慧」

 【別頁】
  ○ 築土神社
  ○ 市川亀岡八幡宮
  ○ 吉祥寺
  ○ 法恩寺   (太田氏七代菩提寺)
  ○ 本行寺   (道灌孫創建菩提寺)
  ○ 湯島天満宮 (再興)
  ○ 根津神社
  ○ 妙義神社道灌霊社
  ○ 品川神社
  ○ 道灌稲荷跡 (待乳山)
  ○ 川越氷川神社


太田姫稲荷神社(本宮) 千代田区神田駿河台1-2-3

 元宮と本宮があり、こちらは本宮です。
 元宮には楠の大木の御神木がありますが、本宮には境内前のしめ縄のかかったこちらも大木です。

    

    
 

<由来>

 太田道灌の娘が天然痘を罹い、道灌は、京都の「一口(いもあらい)稲荷神社」が霊験があると聞き、
 娘の回復を祈願したところ娘の病は治癒していきました。
 これに感謝した道灌のもとに太田姫命が現れ、御告げによって
 1457年に江戸城内に一口稲荷の分霊を遷し稲荷神社を築きました。
 神紋は、太田道灌の家紋に同じで「桔梗紋」です
 古くは「一口稲荷(いもあらいいなり)」と称され崇敬を集めました。
 

<遷座>

 太田道灌によって1457(長禄元)年に、江戸城内に一口稲荷を勧請したと伝わります。
 慶長11(1606)年、江戸城大改築にて、西丸の鬼門の地(現:神田駿河台4丁目)へ遷されました。
 昭和6(1931)年に、総武線建設のため社地の大半を収用され、現在地に建築物をそのまま移転します。
 旧社地には古い椋の御神木が元宮として残っています。
 東日本大震災で被災し、平成25(2013)年に大改修を終えています。

    

   
 

<狛犬>

   
 

<手水舎>

 吐水口は鯉です(一見して鯰かと思うも鱗があります)。

   
 

<拝殿/本殿>

     

    


○山下恒雄作の布袋像「慧」 千代田区神田駿河台3-9 三井海上本社ビル

 太田姫稲荷神社の西側にある三井住友海上火災保険駿河台ビルに団扇を持った布袋像が建てられています。
 山下恒雄作の「慧」(けい)です。
 「民を災厄から守る布袋像をと祈願しつつ、制作に入った次第です。」と作者のコメント

    


太田姫稲荷神社元宮 千代田区神田駿河台4-8

<ご神木>

 御茶ノ水駅・外堀(神田川)のほとりには、楠の大木のご神木が元宮として残っています。
 大木の隣は、「出口専用臨時改札口」です。
 飯田橋駅から和泉橋の江戸城小石川堀(神田川)は、仙台藩が開削工事を行った場所です。
 三代藩主伊達綱宗の時代に始まり、万治4年(1661年)、四代藩主綱村の時代に完成しました。

    

    
 

<太田姫神社元宮>

 太田姫神社元宮木札、太田姫稲荷神社神札、一口太田姫神社の由緒、
 「ご自由にお持ち下さい」と書かれたボックスに「太田姫一口稲荷 風邪咳封治御守」
 以上が椋の古木のご神木に括り付けられています。
 神社名がバラバラです。

   
 

<太田姫神社元宮>

 「太田姫神社 元宮 旧名 一口神社」と書かれた社号板。

 「太田姫神社
  元宮
  旧名一口(いもあらい)神社」

  
 

<太田姫稲荷神社商売繁昌守護>

  
 

<一口太田姫神社>

(説明板)
「一口太田姫神社
一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開創した時江戸城の結界また鬼門の護り神とし旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された
昭和六年(一九三一)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鐵道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり開通時天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鐵道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫」

  
 

<御守 太田姫一口稲荷>

「御守
 太田姫一口稲荷
  風邪咳封治  御守
この御神符は当神社にて古い判木が現存して居りまして江戸時代より明治大正昭和の初めの頃まで風邪咳治封の御守護札としてかなり流行した町々に流布されたものと云われ伝はったものです。いささか摩滅の所がありますが当時の物で御座います。
当太田姫神社は京都稲荷大社の分社で日本いなり總社本宮愛染寺(別当寺名)より1キロ程の所、一口いなり別名豊吉いなりと申されます。宇治川と淀川の合流地の岸に社が御座います。村落は一口村と言はれ、この数年前に久美山町の一部に合併されで町政下にあります。
いもあらいは元語はゑも(潰瘍のウミ・血・尿の障害を洗ふと云う事申すのです。この一口の今はり五三〇年昔江戸城にありし太田道灌公の姫君当時大流行した天然痘泡瘡(ホウソウ)(いもがさ)高熱に呻吟苦悩余名危ふき時、人ありて進言、山城の国一口の里に病に靈験あらたかな一口神ありこの神を信仰し平癒を祈れば守護の御利益ある 古来より伝承あると、聞きたヾちに公使者を立て祈祷を修した。霊感いやちこに平癒せられた。公感謝。領民の健全をも含め城口に一口いなり分祀勧進す。後に太田姫いなりの社となり関西の神が江戸に創祀されて、江戸市民の信仰高く広く天然痘悪病除災の厚く宗教された 
この咳治療守りは願かけ中は里芋のネバっこい液が痰に悪い症状をもたらすと禁断にされてまじない祈願の時は神前に供へるので芋稲荷の凡稱で呼ばれて居りました。
百日咳風邪は季節を問はず発生流行し体熱高く痰多く万病の元とまで云はれました病でビールス菌が散りとび感染が広がる多勢の人を悩ます流行病であり幸い医術薬学の進歩にて悪質病は治封されました事、古代人のまじない秘法暗鬼の心も信神の心の支へと神札を懐中し守護御安泰ならん事を祈り上げます」
※なお、道灌が九江戸城内に稲荷神社を築いたとされるのは1457年ということですので、それより530年足すと、
この文書は今から24年前の1987年の頃のものと推定できます。」

   
 

淡路坂> 千代田区神田駿河台4丁目

 聖橋南詰から昌平橋までの坂。一口(いもあらい)坂とも呼ばれました。

(標柱)
「淡路坂
 江戸時代、坂の上には鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられました。また、屋敷の道をはさんだ向かい側には太田姫稲荷がありましたが、別名の一口稲荷にちなんで一口坂とも呼ばれていました。」

   
 

「江戸切絵図 駿河台小川町絵図」

 「アワジザカ」「太田姫稲荷」が画かれています。

  
 

「神田川夕景」(小林清親)

 神田川下流から上流を眺めたところです。
 右手に昌平坂と湯島聖堂の塀、左手に淡路坂と坂上に大木が見えます。

  
 

「神田川駿河臺」(井上安治)

 同じ構図の井上安治の作品です。

  


麹町太田姫稲荷神社 千代田区麹町1-5-4

 太田姫稲荷神社が麹町にもあるので寄りました。

     

   
 

(説明板)
「麹町 太田姫稲荷神社 縁起
 当神社は、駿河台太田姫稲荷神社の分社と思われますが両社の伝説も共通のものがありますので左記に記します。
 伝説によれば、室町時代太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病み、薬石効なく一日一日と悪化の道をたどりつつあったとき、友人に「山城国一口の里にある稲荷神社に祈願しなさい。どんな思い天然痘でも忽ち平癒するから」と言われ、道灌は早速同神社に参詣祈願、帰国すると姫の病は忽ち平癒した。江戸築城のとき道灌は崇敬、感謝の念で一口稲荷を伏見より勧請、江戸城内にお祀りした。時は長禄元年(一四五七年)の頃であったと言われます。
 後、徳川家康・江戸入府、慶長十一年(一六○六年)江戸城改築の際、城内にあった神社、仏閣を城外に移したが、太田姫稲荷神社も駿河台の淡路坂(一口坂=いもあらいざか)上に遷座され、その後変遷を経て現在の地に鎮座しております。
 一口坂は「いもあらい坂」と言われており、九段の一口坂、神田一口坂、昌平橋(いもあらいばし)などがあります。いもあらい(一口)の意味は、当時天然痘を「いもがさ又はへも」とも呼ばれたので「天然痘を洗い流して直す」からきたものと解釈されています。
 現今は、病気平癒、商売繁盛の神として崇敬されております。
  平成六年五月二十日 祭祀再開二十年を記念して建之 麹町『太田姫稲荷神社』」

  
 

<麹町一丁目の由来>

 記載内容は、千代田区のサイトのこちらにも書かれています。

(説明板)
「千代田区町名由来板 麹町一丁目の由来
   作家・荒俣 宏
 麹町は、江戸城の西に位置した半蔵門から外堀四谷御門にいたる道筋、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに誕生した町である。
 江戸時代には半蔵門の正面に麹町一丁目、以下、聖イグナチオ教会付近が十丁目となり、あとは四谷御門の外から新宿に向かい、十一丁目から十三丁目まであった。江戸城の守りとなるこのあたりは、半蔵門から見て右手に番町の旗本屋敷、左手に但馬豊岡藩(兵庫)京極家や播磨明石藩松平家、近江彦根藩井伊家などの大名屋敷があった。その中央をつらぬくように走る麹町の通りは、四ツ谷)、内藤新宿を経由して甲州路につながり、沿道には武家屋敷の御用を調達する商家が並んでいた。江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が一丁目の堀端に住んだことから「麹町」の名が起こったといわれている。ほかに竹屋、魚屋、西瓜屋、乗物屋、太物(綿・麻布)屋など有力な店もあって、日本橋の商家に対抗する勢力を誇ったといわれる。
 しかし麹町の由来はさらに古く、上古にあっては豊島宿(のち江戸宿)から府中の国府を往来する国府街道の、江戸における出入口であった。すなわち国府路の町であった。よって、元来は「国府路町(こうじまち)」であったとする説も有力で、徳川時代に入り大名旗本の小路となったことから「小路町(こうじまち)」となり、元禄年間(1688年?1704年)に麹屋をはじめ、呉服商の岩城枡屋などの有力な商屋の繁栄を見るようになってから、「麹」が当てられたと考えられる。
 かつて国府に行く道の始点であったことと、半蔵門から江戸城内を通って竹橋に抜ける通路(代官町通り)の出入口でもあったことから警護も厳しく、幕末に「桜田門外の変」が起きた際には半蔵門竹橋間は一般の往来も禁止された。明治維新後、多くの大店は大名旗本の没落と運命をともにした。
 明治二年(1869)に東京府が五十番組に区分され、麹町一丁目は第二十三番組に所属し、明治四年(1871)に大区小区に再区分されて第三大区第二小区の一部となった。次いで明治十一年(1878)に十五区制となり「麹町区」として分立した。さらに太平洋戦争後、昭和二十二年(1947)に隣接の神田区と統合し、千代田区内の町となり現在に至っている。
 麹町は武家地と町人地とが隣り合う江戸の中枢であった。その性格は今も継承され、国会、官庁、裁判所、大使館、そして皇居に囲まれた商業地として、賑やかだが品格のある町並みを回復した。政治・文化・商業のミックスされた、ユニークな町である。内堀沿いの風景も美しい。いつまでもこの景観が保たれることを願う。」

   


平河天満宮 千代田区平河町1-7-5

<太田道灌創建>

 太田道灌は菅原道真を祀る天満社を江戸平河城内に創建し(邸内社)、屋敷の周りに梅を植え、この坂は梅林坂といわれています。
 坂上にあった天満社は、本丸修築の際、麹町へ移され、その地を平河町とし、平河天満宮と名付け、
 徳川家から特別な格式を与えられています。
 

<江戸三大天神>

 江戸三大天神とは、江戸時代における江戸の代表的な3つの天満宮の総称です。
 亀戸天神社は江戸の外であるため、代わりに五條天神を入れる場合もあります。
 ・湯島天満宮(東京都文京区)
 ・平河天満宮(東京都千代田区)
 ・亀戸天神社(東京都江東区)
 ・五條天神社(東京都台東区)

    

 拝殿裏の参道にも立派な社号標があります。

  
 

<御由緒>(平河天満宮HPより抜粋)

「御由緒
 江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明十年(一四七八年)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)
 その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っています。

 徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷しましたが、慶長十二年(一六○七年)二代将軍秀忠公に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられました。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていました。
 また学問に心を寄せる人々は、古来より深く信仰し、名高い盲目の学者塙保己一や蘭学者高野長英等の逸話は、今日にも伝えられています。(以下略)」

    
 

<銅鳥居>

 支柱銘文に、天保十五年(1844)十二月の銘。千代田区内最古の鳥居です。
 「西村和泉」家8代目当主よって作られた銅鳥居で、
 市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居は「西村和泉」家5代目当主の作です。
 左右の台座部分に四体づつ獅子の彫刻があります。

 空襲の際の機銃掃射による弾痕が支柱にくっきりと残っています。

(説明板)
「平河天満宮銅鳥居
千代田区指定文化財
1994年(平成6年)4月1日指定
 この銅鳥居は1844年(弘化元年)12月に、麹町周辺の人々により建設・奉納されたものです。柱木自体は石製で銅板が巻き付けられています。鳥居を制作したのは、神田鍛冶町に居住した鋳物師の西村和泉藤原政時です。左右の台座部分には、4体ずつ獅子の彫刻がのせてあるなど特徴があります。
 左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。」

    

     
 

<三殿宮>

 大鳥神社/塩神社/浅間神社の三社を祀っています。

  
 

<常夜燈>(千代田区指定文化財)

(説明板)
「常夜燈
千代田区指定文化財
2005年(平成17年)4月1日指定
 常夜燈は、本来左右一対の2基で存在したと思われますが、完形で現存するのは本殿から見て左側の1基のみです。平河天満宮が1945年(昭和20年)の空襲で被災したため、その際に右側は破損したと思われます。
 銘文によれば、1852年(嘉永5年)閏2月に、石工の弥兵衛および留三郎によって作られ、雲龍堂と龍海堂の門弟らによって奉納されました。雲龍堂は麹町八丁目(現在の麹町五丁目)に文政年間に開業した寺子屋で、龍海堂は松田町(現在の鍛冶町二丁目)に1804年(文化元年)に開業した寺子屋です。平河天満宮は学問の神として知られる菅原道真公(845年-903年)を祀っており、奉納された1852年は菅原道真公の950年遠忌にあたります。常夜燈はこの機に合わせて、学業成就などを願い奉納されたものと考えられます。」

    
 

<百度石>(千代田区指定文化財)

 1852(嘉永5)年奉納の百度石です。

(説明板)
「百度石
千代田指定文化財
2003年(平成15年)4月1日指定
 百度石とは、神社仏閣の境内で一定の距離を100回往復して参拝し、願いの成就を祈願するために使用される石柱のことです。この百度石は、境内の南側にあり、平河稲荷神社への参道脇に立てられています。銘文から、1852年(嘉永5年)2月に、鮫ヶ橋(現在の新宿区若葉)周辺に在住した人々ら67名によって奉納されたと考えられますが、その由来は明らかではありません。
 常夜燈や筆塚などと同様、学問の神様として知られる菅原道真公950年遠忌にあわせて奉納されました。」

   
 

<狛犬>(千代田区指定文化財)

 1801(享和元)年に奉納、1852(嘉永5)年に補修・再設置。
 「獅子」(右)と「狛犬」(左)との対で、狛犬の頭上には窪みができており、角が掛け落ちた跡が見られます。

(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1995年(平成7年)4月1日指定
 この狛犬は1801年(享和元年)麹町周辺の人々によって奉納されました。1850年(嘉永3年)の火災で角や足が失われましたが、1852年(嘉永5年)の祭神菅原道真公の950年遠忌にあわせて補修し、再設置されました。
 狛犬の原型は、京都の御所の紫宸殿賢聖障子(ししんでんげんじょうのしょうじ)という障屏画といわれています。この障壁画には、一対の「獅子」と「狛犬」が描かれていますが、頭上に角をもっているのが狛犬です。平河天満宮もまた、本殿向かって「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)とが対になっています。狛犬の頭上には、径10センチメートル、深さ5センチメートルほどの窪みがあり、角が掛け落ちた跡が見られます。」

    
 

<撫で牛>(千代田区指定文化財)

 1852(嘉永5)年の奉納の石牛です。1852年は菅原道真公の950年遠忌にあたります。
 牛嶋神社〔文政8年(1825)〕、湯島天満宮〔嘉永2年(1849)〕についで古い石牛です(神社HP記載)。
 みなさん撫でるから頭部と背中が摩耗してツルツルです。
 コロナ感染防止のため触らずに祈念するようにとの注意書。

(説明板)
「石牛
千代田区指定文化財
2010年(平成22年)4月1日指定
 1852年(嘉永5年)に、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されました。区内における学芸関係者の天神社に対する信仰の様子を物語る資料として重要です。
 1852年は、祭神菅原道真公の950年遠忌にあたり、平河天満宮では2月25日から60日間にわたって御開帳が行われました。この時にあわせて石造物が多数奉納されており、現在も境内の各所で見ることが出来ます。」

     
 

<石牛>

 奉納の石牛が4基あります。

     
 

<拝殿>

     
 

<境内その他>

 双体神の石燈籠は初めて見ました。

     
 

<平河稲荷神社>

     
 

<力石/筆塚>

 力石と筆塚があります。両方とも千代田区指定文化財です。
 力石は中央「天龍石」、右「十店助次郎持之」、左「同新助」と刻まれています。
 筆塚は、1852(嘉永5)年の奉納。

(説明板)
「力石(天龍石) /筆塚
千代田区指定文化財
1993年(平成5年)4月1日指定(力石)
2015年(平成27年)4月1日指定(筆塚)
 力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。この力石は長径80cm、短径60cmの卵型に近い形をしており、表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」という銘文が刻まれています。
 この筆塚は菅原道真公950年遠忌の1852年(嘉永5年)2月に奉納されました。「筆塚」の文字は楳庵蟻道によるものですが、楳庵はもとより奉納者についてもよくわかっていません。」

     
 

<江戸名所図会 平川天満宮>

  


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