長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、
城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりといいます。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った後、水道橋明暦の大火で、吉祥寺が焼け、
門前の人々が武蔵野に移住して開いた村が武蔵野市の吉祥寺です。
こちらは本駒込に移転した本来の吉祥寺です。
吉祥寺の前は何度も通っていますが、初めて中に入って、
本郷通りから想像したのとは大違いの広大な寺院に驚きました。
(説明板)
「曹洞宗 諏訪山吉祥寺 本駒込3-19-17
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋辺りにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として旃檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
古い堂塔
山門 享和2年(1820)再建、江戸後期の特色を示す。
経蔵 文化元年(1804)再建、旃檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。
墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家) (墓地内左手)
鳥居燿蔵(江戸南町奉行) (墓地内左手)
榎本武楊(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)(墓地内右手)
川上眉山(小説家) (墓地内右手)
‐郷土愛をはぐくむ文化財‐
文京区教育委員会 平成6年3月」
<旧町名案内旧駒込吉祥寺町>
(説明板)
「旧町名案内
旧 駒込吉祥寺町 (昭和41年までの町名)
むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。
明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側
一帯にあった吉祥寺が移ってきた。そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延亨2年(1745)から町奉行支配となった。
明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。
江戸時代、吉祥寺には旃壇林といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒澤大学に発展)。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居燿蔵や川上眉山らの墓がある。」
<山門/参道>
「旃檀林」の額がかかる吉祥寺の山門(享和2(1802)年再建)。
山門から参道に足を踏み入れると、本堂までの長い参道に圧倒されます。
「江戸名所図会 吉祥寺」
江戸名所図会に長い参道が描かれています。
また、各所に多くの学寮が描かれています。現在は墓地になっており、墓地も広大です。
<榎本武揚夫妻墓所>
山門をくぐって参道を進み、左手の釈迦如来座像のところで、右手の墓地へ入ります。
数十メートル進むと榎本武揚の墓所が左手にあります。
台東区橋場の保元寺から、榎本武揚と夫人の両名は、こちらの吉祥寺に改葬されています。
「陸軍中将子爵榎本武揚墓」「元帥海軍大将伊東祐享書」と彫られた立派な墓です。
隣は夫人の墓です。
(説明板)
「榎本武揚の墓
天保七年ー明治四十一年(一八三六〜一九○八)。江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
東京都文京区教育委員会」
<川上眉山の墓>
参道右手の墓地の参道脇にあります。
(説明板)
「川上眉山の墓
明治二年ー明治四十一年(一八六九〜一九○八)。大阪の生まれ。名は亮。小説家。
東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。また「文学界」同人とも交わる。
明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。
東京都文京区教育委員会」
<二宮尊徳の「墓碑」>
参道の左手脇にあります。
(説明板)
「二宮尊徳 の「墓碑」
天明七年ー安政三年(一七八七ー一八五六)、相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。
人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。
その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中、病死する。彼の思想・行動は後に『報徳社運動』として展開するようになった。
東京都文京区教育委員会」
<お七吉左比 翼塚>
昭和41(1966)年「お七生誕三百年」を記念して日本紀行文学会が建立(平成19年再建)。
<花供養塔>
翼塚の隣に、駒込生花市場が建立した「花供養塔」(昭和43年)があります。
「祀詞
花を愛し 花こそわが命と 花をなりわいとする われら相集いて
多くの人々に愛された 儚くも美しき 花々の精を茲に祀る
昭和四十三年四月吉日
駒込生花市場
駒込生花市場後援会
花供養塔建立委員会」
<茗荷稲荷>
<碑林>
鐘楼の前に碑林があります。
・「甕江先生之碑」
宮中顧問官を務めた漢学の川田剛の墓誌銘。墓域に墓もありました。
・「松叟板倉君之碑銘」
川田甕江の主君で、幕府老中だった板倉松叟の碑。
・「をどり塚」
日本舞踏協会初代の会長波多海蔵翁の記念碑のようです。
・「三桃之碑」
幕末の尊王攘夷派、桃井可堂の碑。
・「田邊君之碑」
田邊良顕の顕彰碑。
<童謡二碑>
鐘楼と経蔵の間に、童謡の碑が2つあります。
・「河村光陽先生記念碑」
・「小出浩平先生顕彰歌碑」
碑を建てた時と状況が変わっているようです。
<鐘楼/経蔵>
経蔵は学僧の図書館だったところです。
<その他>
燃え跡の残る萬世常夜燈。
<墓域>
広大な墓域の奥には、古い墓碑塔が立ち並んでいます。
島津氏の墓など、倒壊しかけている墓が多く、地震が起きたらと思うと、近づけないです。