○ 妙亀山 総泉寺
・江戸名所図会が描く総泉寺
・平賀源内墓
・松吟寺/お化け地蔵
・妙亀塚
・采女塚/鏡が池(清川)
・佐竹商店街(御徒町)
○ 保元寺
○ 砂尾山 不動院
○ 子育厄除地蔵尊
○ 明治天皇行幸
対鴎荘跡
○ めん処おばた
清川
以下、パノラマになっていて、繋がります。
「其三 総泉寺 砂尾不動 同薬師」
「其四 妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷」
「其五 法源寺 鐘が池」
順を追って、みていきます。
○妙亀山 総泉寺
「江戸名所図会」
「江戸名所図会」に掲載されている総泉寺です。
「其三 総泉寺 砂尾不動 同薬師」(江戸名所図会)
広大な大寺でした。
松並木の道の傍らに、松の木と比べられるほど大きな石地蔵が描かれています。
隅田川沿には、「此辺別荘おほし」と記されており、江戸時代は高級住宅街です。
江戸時代、すでに別荘という文字と概念があったことがわかります。
総泉寺は関東大震災で燃え落ち、その後の区画整理で板橋区へ移転しています。
総泉寺は、出羽国久保田(秋田)藩佐竹氏の江戸での菩提寺でしたが、
佐竹侯の墓は板橋に移転後、秋田に改装されています。
佐竹家上屋敷(現:台東区台東二・三・四丁目付近)は佐竹商店街としてその名を残しています。
※ 佐竹商店街は別途記載。
※ 移転後の総泉寺は別途記載。
「隅田川叢誌 続編」(矢掛弓雄 隅田川神社 明43.3)に石地蔵が掲載されています。
平賀源内墓は、国指定史跡となっています。
(説明板)
「平賀源内墓(国指定史跡) 台東区橋場2丁目22番
平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。
平成十七年三月 台東区教育委員会」
<史跡 平賀源内先生墓入口>
(正面) 「史跡 平賀源内先生墓入口」
(左側面)「昭和五年十二月 平賀源内先生顕彰会建之」
平賀源内先生顕彰会は、香川県の有志を中心に、松平頼壽伯爵(旧高松藩当主)が会長で、
史跡の再指定にも尽力しています。
<墓域>
<平賀鳩溪先生墓域修築之碑>
表面には「伯爵 松平頼壽篆額 医学博士 呉秀三撰 平安○(漢字がない)士
山田得多書」
「昭和五年四月十八日」
平賀源内の墓の由来と、区画整理で(史跡の指定もはずされた)、総泉寺とともに市外へ移ることとなった時、
有志の人たち(香川県)の骨折りによって旧地に保存されることになったことが記されています。
裏面には杉田玄白の墓碑銘が刻まれており、「昭和五年十一月」
裏面最後の部分には、「嗟非常人 好非常事 行是非常 何死非常」とあります。
左側面には「昭和五年十二月 平賀源内先生顕彰會建之」
正面(昭和5年4月)、裏面(昭和5年11月)、側面(昭和5年12月)と全部日付が異なります。
別々に造って、最後に合体したような印象を受けます。
最後に昭和6年に築地塀を整備。
<碑文の全文>
「墓碑史蹟研究第9巻」(磯ケ谷紫江 後苑荘 昭和10(1935)年)に、
表面、裏面、横面の全文が掲載されています。
説明文を引用すると、
「杉田玄白先生墓誌は当時、草稿のままで、石に刻んだのではない。
文中にある鳩渓先生の遺骨はここに埋めないと書いてあるが、改装の際、ここに埋めたのであった。」
<従僕福助の墓>
源内の墓の後ろに、従僕福助の墓があります。
平賀源内墓は東面していますが、こちらは南面で、向きが異ります。
丸に一引両の紋があり(と思ったら、前掲書には3本黒と記載)、
「鐵肝道舩禅定門 安永八己亥年四月廿七日」
右側面には「平賀源内家来 俗名 秋田産福助」と刻まれています。
安永8(1779)年4月なので、平賀源内が亡くなる8ヶ月前に逝去しており、
源内より福助の墓のほうが古いこととなります。
<寺門靜軒先生之碑>
「静軒先生之碑」と刻まれています。
儒学者である寺門静軒は、根岸、あるいは浅草新堀端の西福寺裏門の真向かいに住んでいましたが、
「江戸繁昌記」を著し、昌平坂の逆鱗に触れ、
奉行所のお沙汰により板木取り上げ、江戸を追放されています。
碑文の全文が前掲書に掲載されています。
寺門静軒が亡くなったのは明治1年3月24日で、碑の建立は明治2年5月です。
「墓碑史蹟研究第5巻」(磯ケ谷紫江 後苑荘 昭和10(1935)年)に、
全文が掲載されているので抜粋します。
<茅生塚>
前掲書によると、加茂真淵の門人、楫取魚彦(かとりなひこ)が亡くなられた時に、
門下生が碑を建て、先生の遺稿を埋めた茅生塚があったらしいのですが、
当時、すでに消失していたとのこと。
<手水鉢>
六地蔵かと思ったら、地蔵の数は4つでした。
<その他>
その他の墓もいくつかあります。
<旧墓域にあった墓>
前掲書によると、
旧墓域には、梶原、千葉、宇都宮の古将、
佐田白茅、根本通明博士(現在は秋田市に移転)、寺崎広業先生の墓があったとのこと。
<関東大震災前の総泉寺と平賀源内墓>
「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第一輯 東京市公園課 1923」に掲載の
「総泉寺」と「平賀鳩渓墓」の写真です。
<お化け地蔵>
(説明板)
「お化け地蔵
台東区橋場二丁目五番三号 松吟寺
お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。
この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊「東京名所図会」には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を刈りとり、 石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。
お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(1721)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(1790)に建てられた。
総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
<供養塔>
裏面に「元総泉寺墓地境内諸佛為供養」と刻まれています。
「昭和25年4月吉日建之」
<常夜灯>
地蔵尊と刻まれた常夜灯です。寛政2(1790)年10月の建立です。
関東大震災で総泉寺の本堂は焼け落ちていて、常夜灯も火にさらされた痕跡が痛々しいです。
<手水鉢>
昭和24(1949)年奉納の手水鉢です。
<西國第七番如意輪観世音>
「江戸名所百人美女 あさぢがはら」(豊国・国久 安政5(1859)年)
こま絵にお化け地蔵が見えます。
背景に屋根の上に天水桶を置く新吉原が見えます。
「東京開化狂画名所 浅茅が原 化地蔵近眼の親父をおどす」(月岡芳年 都立図書館蔵)
月岡芳年が描くとこうなります。
近眼の親父はメガネをはずして手に持ちよく見えないのでしょう、驚いてはいません。
2019年11月3日(日)は、「平賀源内 妙亀塚まつり
おばけ地蔵ご縁日」に行ってきました。
会場は三つ。平賀源内エリア、おばけ地蔵エリア、妙亀塚エリアです。
<平賀源内墓>
法要が行われました。
<おばけ地蔵>
式典会場が設けられ、多くの来賓の方々が来られていました。
<妙亀塚>
手のこんだ亀の飾りが供えられていました。
ハゼの天ぷら、お餅のふるまいがありました。
妙亀明神社として、妙亀堂、妙亀庵が描かれています。
上方に玉姫稲荷。玉姫稲荷についてはこちらで記載済。
挿絵には、
「浅茅ヶ原にて あだし野や 焼きもろこしの かわばかり 其角」
「人めさえ かれて淋しき 夕まぐれ 浅茅が原の 霜をわけつつ 道興准后」とあります。
<妙亀尼塚(関東大震災前)>
「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖.第1輯」東京市公園課編 1922
<妙亀尼塚(関東大震災後)>
「上代の東京と其周囲」(鳥居竜蔵 磯部甲陽堂 1927)に掲載の関東大震災後の妙亀尼塚。
<妙亀塚> 台東区橋場1-28-3
(説明板)
「妙亀塚(都指定旧跡) 台東区橋場一丁目二十八番三号
この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。
妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。
謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。
なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。
平成十年三月 台東区教育委員会」
(説明板)
「釆女塚 台東区寄与方一丁目十三番十三号 出山寺
石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間(1661-72)新吉原雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。翌朝、草刈りの人たちが
「名をそれとしらずともしれさる沢の
あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目のあたりを指し、「江戸名所図会」によると鏡が池の面積は、文政(一八一八ー二九)の頃、約五百平方メートル、橋場一丁目の北部あたりにあったという。
碑は、文化元年(一八○四)大田南畝ら文人たちによって建立。第二次世界大戦で火をあびている。
平成七年三月 台東区教育委員会」
説明文中にある句は、天皇の寵愛が衰えて猿沢池に身を投げた釆女をたとえた句で、満年齢16歳での釆女の博識ぶりに驚きます。
<碑文内容>
碑文は「浮世絵文献資料館」(加藤好夫氏)釆女塚より引用です。
(碑文)
「寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいましめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、釆女が格子窓のもとに来りて自害せり、采女その志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、浅茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短冊を付けたり。
名をそれとしらずともしれさる沢のあとをかゞみが池にしづめば
そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるして建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を継て、石ぶみにゑり置ものならし。
文化元年甲子六月 駿河加島郡 石川正寿建」
碑の正面
<文化元年甲子六月 駿河加島郡 石川正寿建>
この面は、大きな文字でどうにか読みとれます。
この面は文字が多く、びっしりと句と作者がそれぞれ刻まれている気がしますが読めません。
隠語の面
「金之竟合水也相比綵之無絲嬉而不喜士可以□言可以己車之所指毎田即是一人十日潭辺無水」
「隠語碑」とも呼ばれていて、
金之竟合 金+竟=「鏡」
水也相比 水+也=「池」
綵之無絲 綵ー絲=「采」
嬉而不喜 嬉ー喜=「女」
土可以封 「塚」
言可以己 言+己=「記」
車之所指 「南」
毎田即是 「畝」
一人十日 一+人=「大」
十+日=「田」
潭辺無水 潭−水=「覃」
隠されてる文は「鏡池采女塚」「記南畝大田覃」となります。
<鏡ヶ池>
江戸名所図会の鏡ヶ池「其五 法源寺 鏡が池」です。
「隅田川叢誌 続編」(矢掛弓雄 隅田川神社 明治43年)に鏡ヶ池の絵図が掲載されています。
采女衣掛松が描かれています。
「江戸名所百人美女 鏡が池」(豊国・国久 安政5(1859)年)
こま絵に鏡が池が描かれています。
鏡が池から察するに、恋人を儚んで鏡が池に身を投げた采女が描かれています。
能の小道具に「狂い笹」があり、笹を持って舞うことが、狂女の印となります。
鏡が池は妙亀尼も関連があり、描かれている人物は妙亀尼の可能性もあります。
「江戸切絵図」
江戸切絵図で鏡ヶ池の場所を確認すると、出山寺の真横です。
台東区清川1丁目27番地を中心にした一帯と推定します。
<其角の句碑>
(説明板)
「其角の句碑 台東区清川一丁目十三番十三号 出山寺
草茎をつつむ葉もなき雲間哉
碑の正面に宝井其角の句を刻む。
其角の著『末若葉』によれば、これは元禄九年(一六九六)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句であるという。
碑は、この風流の故事を顕彰して、寛政五年(一七九三)に建立された。
其角は、寛文元年(一六六一)の生まれ。榎本ともいった。医師竹下東順の子。十四、五才のころ、芭蕉に入門し、早くから頭角をあらわしたという。天和三年(一六八三)蕉風の先駆とみなされる『虚栗』を編集し、芭蕉の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。宝永四年(一七〇七)没。
なお、右側面に刻む「くさぐきの今にのこるや人の口 屠竜」は、姫路城主酒井忠以の弟であり、当時根岸に住んでいた画家酒井抱一の句である。
平成七年三月 台東区教育委員会」
<開山>
出山寺は、総泉寺十一世江山厳英和尚(延宝4(1676)年寂)が開山、創建したといいます。
墓地に江山厳英和尚の墓があります。
<満願地蔵尊>
「其五 法源寺 鏡が池」(江戸名所図会)
「江戸名所図会」では、法源寺とあります。
大正時代に、元の保元寺の名称に改められています。
橋場の「普門寺」(亀戸に移転)、「長昌寺」、「保元寺」には、鐘ヶ淵の沈鐘伝説があります。
<榎本武揚一族之墓>
橋場の郷士だった「榎本武揚一族之墓」があります。
榎本武揚と夫人の両名のみ、文京区吉祥寺に改葬されています。
橋場不動尊は通称で、正式名称は天台宗砂尾山橋場寺不動院です。
ホームページの歴史の内容が充実しています。
「江戸名所図会」に描かれています。
<由来概略>
昭和12(1937)年、児童の福祉施設、同情園が火災で全焼し、
12名の子どもたちが焼死した霊を慰める地蔵尊です。
経緯があって、砂利業者の合田さんが隅田川に捨てられたお地蔵さんが水中で光っていて
これを引き揚げ再度お地蔵さんを子育て厄除け地蔵尊に安置しました。
白鬚橋の西詰め南側に対鴎荘遺蹟碑があります。
対鴎荘は三条実美別邸で、明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れています。
(説明板)
「対鴎荘跡 台東区橋場二丁目一番
隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(一八三七ー九一)の別邸であった。
「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。
隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛未五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。
対鴎荘は、昭和三年(一九二八)、白髭橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
平成七年三月 台東区教育委員会」
江戸時代から隅田川畔の橋場一帯は高級住宅街でした。
(参考)
「三条実朝墓」は護国寺にあります(こちらで記載)
「めん処おばた」は、お隣というか奥にある「小幡製麺工業」の直営店。コインランドリーも直営。
「浅草北部ことぶき商店会」の加盟店。
入口右手にTAKE OUTの窓があり、メニューが掲示されています。
冷しいたけ、550円(温かいのだと470円)。
甘辛い椎茸は肉厚で、何個も入っています。刻み海苔、刻みネギ、蒲鉾、ミニトマト半切、錦糸玉子。美味い。
かき揚げ天ざる、520円。かき揚げ2個、しいたけの天ぷら、かぼちゃの天ぷら、計4品もある。
近くの千賀ノ浦部屋のお相撲さんも食べに来られるようです。
<めん処おばた 肉つけそば>
2019年11月より日曜のほか、土曜も休みとなりハードル高くなり間があきました。
聞いてみると土曜再開の予定はないようです。
冷やししいたけを食べようと、久しぶりに行くと(2020年9月)、
新たなメニューの肉つけそば(肉そばもあり)が登場しています。
迷わず肉つけそばの食券490円を購入。
豚シャブのような豚肉が6枚ぐらいてんこ盛り、油が浮いて味も豚の個性が強く出ています。
<めん処おばた 肉つけそば>
2021年7月、新メニューがありましたが、再び肉つけそば(490円)。
出山寺の近くだったので、寄りました。
この辺まで来ると、かつての弾左右衛門屋敷の北に接していた立地です。
「江戸切絵図」に、本性寺が記載されています。
「江戸切絵図」
門前に「秋山自雲墓在當寺」石碑、
山門入って左手に、痔の神様、秋山自雲の墓所があります。
<題目堂>
山門入って右手に題目堂。