○ 清水坂
○ 薬師の泉
○ 妙亀山 総泉寺
○ 志村一里塚/齋藤商店
○ 小豆沢の庚申塔道標
○ 戸田橋親柱
志村坂上交差点から左斜めに下りていく坂道が旧中山道の清水坂です。
8代将軍吉宗が、鷹狩りに出向いた際、この坂下の大善寺に立ち寄り、
湧き出る清水を見て感嘆し寺の本尊薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝えられています。
坂の名にも用いられました。
坂上と坂下にそれぞれ、板橋区の「清水坂」石標があります。
<清水坂 戸田 板橋>(坂上) 板橋区志村2-7-16
<清水坂 戸田 板橋>(坂下) 板橋区志村2-27-8
<清水坂説明板>
右手に富士が見えるとの説明がありますが、道筋からは筑波山は見えても富士は見えないでしょう。
(説明板)
「清水坂
日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったといわれています。坂の下には板橋・蕨両宿を繋ぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和三十年頃までは旧街道の面影をのこていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。
平成十二年三月 板橋区教育委員会」
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」の「隠岐殿坂」と「清水ヤクシ」部分の抜粋です。
<富士大山道道標と庚申塔>(板橋区文化財) 板橋区志村2-7-1
(説明板)
「富士・大山道の道標と庚申塔
富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川県の大山へ通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(一七九二)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりまかわこへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(一八六○)に建てられたもので、左側面に「是より富士山大山道」とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。
この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。
平成十七年三月 板橋区教育委員会」
・「庚申塔」(右の碑)
万延元(1860)年9月の造立です。
左側面「是ヨリ 富士山大山道
練馬江一里
柳沢江四里
府中江七里」
・「是より 大山道并ねりま川こへみち」(左の碑)
「武州豊島群志村講中」
寛政4(1792)年3月の造立です。
湧水があります。
徳川吉宗が大善寺に立ち寄った際、境内に湧く清水を見て、寺の本尊である薬師如来像を
「清水薬師」と命名したと伝わっています。
板橋区は「江戸名所図会」の挿絵に基づき、当時の庭園を復元整備し、
平成成元年12月に「薬師の泉庭園」を開園しました。
<正門>
(説明板)
「薬師の泉
十五世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と称すべしという。
志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。
大善寺は昭和の初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃した。
この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。
平成元年 板橋区」
<北門>
<庭園内>
「江戸名所図会 清水薬師清水坂」
江戸名所図会に「清水薬師清水坂」が描かれています。
清泉部分を拡大。階段の下に清流が流れ橋がかかり、その先に清泉が描かれています。
(説明板)
「『江戸名所図会』と薬師の泉
『江戸名所図会』は神田雉子町の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら三代が四十年の歳月をかけて天保七年(一八三六)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精確と評価されている。
図中、左上が中山道清水坂、階段を下り細流の橋を渡ると大善寺境内、右手のお堂が清水薬師で参拝者も描かれている。崖下に広がる池泉近くに湧出する清泉がある。これを地域の人々は「薬師の泉」と呼んで親しんできた。
清水薬師
清水坂
境内山の腰より
清泉沸出す
故に清水の号あり
此辺夏蘿葡を
名産とす
清水種とて
世に賞しはべり
板橋区」
本寺はもと台東区橋場にあった大寺で、開基は千葉介。中興開基は石浜城主千葉介守胤。
その後石浜城主千葉氏の菩提寺となります。
江戸時代になると江戸三刹の一つとして幕府の庇護をうけ、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となりました。
関東大震災で被災すると、昭和3年この地に移転し大善寺と合併しました。
※ 秋田藩佐竹氏の江戸での菩提寺でしたが、佐竹侯の墓は板橋に移転後、
1998(平成15)年、秋田市の天徳寺に改葬されました。
<山門>
「妙亀山 総泉寺」
<石標塔>
両寺のものがあります。
・「清水薬師如来」と中央に刻まれ、右肩に「聖徳太子彫刻」とあります。
・「三界萬霊座寸」と刻まれた石識。
・大正15年3月建立の漢文碑で、総泉寺復興の碑のようです。
<開山堂>
長い間、バリケードで封鎖されているようです。
お寺の方が掃除道具をもってバリケード内に入っていかれたので、完全封鎖ではないようです。
<薬師堂>
薬師三尊は、元大善寺の本尊です。
<地蔵堂>
<骨仏堂>
<納骨堂>
<仮本堂>
<六地蔵など>
六地蔵をはじめ、全像レインコートを着ています。
「甘露水」と刻まれた鉢は、文化12(1815)年の奉納です。
後日再訪問、レインコートなしのお姿です。
<奉献石燈籠>
妙亀斎場の脇に、立派な奉献石燈籠が1基あります。
「奉献石燈籠二基」
「寛文二年壬寅七月十二日」
どなた?かの墳前にあった石燈籠のうちの1基のようです。
<廻し七福神>
亀の背に七福神の石球がのっていて、回ります。
軽く触れるだけで簡単に回ります。
<石碑>
「開山□叟(がくそう)宗俊大和尚」と刻まれているので、総泉寺の開山和尚の碑です。
もうひとつは「貞乖解空」、万延年間に建てられた石碑のようです。
「江戸名所図会」
江戸名所図会での橋場で描かれている総泉寺です。
右上に総泉寺、右下に大門、左に延びる参道。
広大な寺院だったことがうかがえます。
複数枚にわたって描かれているので、部分抜粋合成です(妙亀堂部分が欠けました。)
<妙亀斎場>
国道沿の斎場入口は使われていませんが、寺境内が入口となっていました。
中仙道(国道17号)で、この道の両側に対になって残されているのが「志村一里塚」です。
当初の原形のままの姿の一里塚は、中山道では28里目(高崎・板鼻間)とこの志村一里塚のみです。
国史跡、板橋区史跡、板橋十景です。
(説明板)
「志村一里塚
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六〇四)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約九m)四方、高さ一丈(約三m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(四km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(一八三〇)の『新編武蔵風土起稿』では「中山道往復の左右にあり」と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(一八七六)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(一九二二)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。
平成十七年三月 板橋区教育委員会」
志村一里塚に隣接して板橋区文化財の斎藤商店があります。
(説明板)
「齋藤商店
齋藤商店は、欅を主に扱う原木商として明治二十二年(一八八九)に当地で創業しました。現在は竹材を主とし、箒や笈などの竹製品も商っています。現在の建物は、昭和八年(一九三三)の中山道(現:国道十七号線)の拡幅工事に伴って新築されたものです。
建物全体は、店舗部分と住居部分が一体となっており、下屋庇を廻したL型平面の入母屋造桟瓦葺の平家に二階部分を載せた複雑な構造となっています。築材には国産材を使っており、また宮大工が建手たとも伝わりますが、大工の名前などは不明です。
建物の外観には、破風を各所に見せる複雑な屋根の構成や、二階の窓の手すりに高欄風の反りを持たせるなどの意匠が見られます。さらに外壁には真壁漆喰塗りが施されています。
齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(大正十一年国史跡)と一体化した町のランドマークとしても親しまれています。また、平成四年には「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれています。
斎藤商店は、区の歴史や文化に関係が深く、また、意匠的、技術的にも優秀であることから、区の建築史を明らかにするうえで重要な建築物です。平成二十四年度に登録文化財となりました。
平成二十六年二月 板橋区教育委員会」
板橋中央総合病院の角の歩道に庚申塔道標があります。
歩道の端ではなく、珍しく歩道の真ん中に建っている庚申塔道標です。
天明5(1785)年「武州豊嶋郡志村講中」造立の庚申塔道標です。
正面「奉造立庚申供養塔」
左面「左ハ 上い多者しみち」
右面「右ハ 大山道」とあり道標を兼ねています。
1978年に現在の戸田橋に架け替えられる前の東京側の親柱です。
左の親柱背面には銅板が埋め込まれていて由緒と仕様が書かれています。
<左の親柱>
<右の親柱と説明板>
<地図>