○ 本行寺(月見寺)
○ 経王寺
○ 延命院
○ 下御隠殿橋/トレイン・ミュージアム
○ 御殿坂
○ 七面坂
「本行寺」は、「月見寺」とも呼ばれ、風流を愛した江戸の粋人たちに好まれました。
開基は太田道灌の孫の太田大和守資高で、江戸城内の平河口に創建されましたが、
神田・谷中を経て、宝永6(1709)年に現在の西日暮里に移転しました。
太田道灌が斥候台を築いた「道灌公物見塚跡碑」と「道灌丘碑」があります。
住職・日桓上人(俳号・一瓢)が多くの俳人と交流があったため、
小林一茶の句碑が2基、種田山頭火の句碑もあります。
一茶はしばしばこの寺を訪れています。
墓地には、外国奉行・軍艦奉行・若年寄などの要職を歴任した、江戸末期の幕臣・永井尚志の墓や、
儒学者の市河寛斎と書家の市河米庵親子の墓があります(東京都旧跡)。
「史跡 若年寄 永井尚志墓 儒者 市河寛斎墓 書家 市河米庵墓」
「都旧跡 市河米庵墓 市河寛斎墓 永井尚志墓」
<寺門 長久山>
寺門に掲げる「長久山」の扁額は市川米庵の筆です。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(一五二六)江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(一七○九)現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交友があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。
儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥侯台を築いたと伝える物見塚があったが、現在は寛延三年(一七五○)建碑の道灌丘碑のみ残る。 荒川区教育委員会」
<長久山 本行寺由来>
お寺の詳細な由来も掲示されています。
<月見寺>
<道灌公物見塚跡>
江戸名所図会日暮里惣図に、「ものミ塚」「碑」が描かれています。
<道灌丘之碑>
(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料
道灌丘碑
長禄元年(一四五七)、太田道灌(資長)が江戸城築城の際、眺めの良いこの地に「物見塚」という斥候台(せっこうだい)を造ったという。『江戸名所図会』の「日暮里惣図」によると、本行寺の境内裏手に「ものミ塚」があり、塚の脇にこの石碑が描かれている。本行寺は道灌の末裔とされる掛川藩主太田氏の菩提寺であり、寛延三年(一七五○)に住職の日忠や太田氏にゆかりのある古屋孝長、四宮成煥らが、道灌の業績を記した碑を建てた。撰文は、儒者の石島筑波。小林一茶もしばしば訪れ、「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。物見塚は、明治時代の鉄道施設でなくなったが、碑は山門を入った正面に移設されて今日に至る。」
<「道灌公物見塚跡」「道灌丘之碑」>
「道灌公物見塚跡」「道灌丘之碑」があります。
境内にはかつて道灌物見塚がありましたが、鉄道敷設により失われ、移設された道灌丘之碑が残っています。
寛延3(1750)年の造立です。碑文は漢文で、斥侯台(物見塚)の由来などが刻まれています。
<一茶留錫の處>
「刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原 一茶
菜の花としりつゝのむやつるべから 一瓢
平成八年十二月十二日」
<一茶句碑>
「陽炎や道潅どのの物見塚」
この句碑は、昭和61(1986)年11月、山頭火の句碑とともに大山澄太が建立しています。
<種田山頭火句碑>
東京に山頭火の句碑がないとして、大山澄太が一茶の句碑とともに建立しています。
「ほつと月がある東京に来てゐる 山頭火」
「昭和六十一年十一月五日 友人一同建立」(裏面)
<短冊塚>
平成28年建碑と新しい碑です。
<月見寺>
平成二十八年十月吉日
<猫供養塚>
山門入ってすぐ右手に猫供養塚があります。
<愛犬猫等の墓>
<永井尚志墓>(東京都旧跡)
(説明板)
「東京都指定旧跡
永井尚志墓
所在 荒川区西日暮里三丁目一
指定 昭和三年八月
江戸時代後期の幕府官僚、明治政府の官吏。「なおむね」とも読まれてきた。
文化十三年(一八一六)十一月三日三河奥殿藩主松平(大給)乗尹の子として生まれた。
二五歳で旗本永井能登守尚徳の養子となり、嘉永六年(一八五三)海防掛目付に抜擢された。安政二年(一八五五)我が国最初の海軍士官養成機関となった長崎海軍伝習所を統監した。その後、初の外国奉行になり新設の軍艦奉行となったが、安政の大獄で処罰された。文久二年(一八六二)軍艦操練所御用掛として復職し、京都町奉行を経て、慶応三年(一八六八)若年寄格として将軍徳川慶喜を補佐し大政奉還の上表文を起草した。
明治元年(一八六八)鳥羽伏見の戦いに敗れ、函館に逃れたが、明治五年許されて明治政府の開拓御用掛に任ぜられ、左院少議官、元老院権大書記官を歴任した。
岩瀬忠震・大久保忠寛(一翁)らとともに阿部正弘に登用された幕府官僚の一人である。
平成六年三月三十一日 建設 東京都教育委員会」
<市河寛斎墓>(東京都旧跡)
「文安先生市河子静墓銘」
儒学者で江戸の4大詩人の1人である市河寛斎の墓。
<市河米庵墓>(東京都旧跡)
「米庵河翁寿蔵之碑」
寛斎の長子で幕末三筆の一人である市河米庵の墓。寛斎の墓と並んで立っています。
【市河家の方々のお墓】
<市河三喜碑>
正面「市河世儒傳芳之碑」。
本墓は多摩霊園にあります。
市河三喜は英語学者。市河賞というのがかつてありました。
<市河遂庵墓>
市河恭斎没後、市河米庵の養子。
<市河恭斎墓>
米庵の養子となった市河恭斎の墓。
<市河万庵墓>
市河万庵は市河米庵が60歳の時の長子で、万庵が市河家を継いでいます。
墓石側面に、法名「大悟院実相古道居士」が大きく刻まれています。
<市河泰庵墓表>
<伊勢丹社員之墓>
伊勢丹呉服店創業者が菩提寺に建てた伊勢丹社員の墓です。
「あまさけや呉服店」「伊勢丹呉服店」「大正七年二月」
参考までに、清水建設の社員の墓が清水家の菩提寺にありました。
慶応4(1868)年の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。
天保7(1836)年建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っています。
皆さん触るからでしょう、銃弾の痕のまわりは色が変わっています。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
大黒天経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(一六五五)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬をあつめている。
慶応四年(一八六八)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府群の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
荒川区教育委員会」
(標柱)
「荒川区指定文化財 経王寺山門 付門番所
天保七年(一八三六)に、桶屋安五郎らが願主となり建立された。切妻造、桟瓦葺、総欅造の薬医門で、脇に瓦屋根付きの板塀と潜り戸を設け、西側には門番所が連結される。間口寸法(親柱間)一〇尺九寸、奥行寸法(親柱・控柱間)七尺六寸と、堂々とした規模をもち、脇に付設された門番所と併せて日暮里の寺町地区を象徴する「辻」の景観を形成する貴重な建造物である。また、慶応四年(一八六八)の上野戦争の際のものと伝えられる弾痕が残っており、地域の歩んだ歴史も刻まれている。」
<山門>
<本堂/大黒天>
寛永17(1640)年、日長が三代将軍家光から安産の祈祷を命じられ、翌年家綱が誕生したことを受けて、
慶安元(1648)年、徳川家綱の乳母、三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として
日長により延命院は開創されました。
社殿等は大奥から寄進されたとされています。
家綱の将軍就任後、徳川家の永代祈願所となり、庇護されました。
延命院の七面大明神は江戸の中でも最も古い七面大明神の一つであり、
江戸名所の一つとして多くの参詣者を集めました。
特に江戸城大奥から信仰を集め、正室の代参や、女中の祈願が盛んに行われたことで知られています。
(延命院HPと荒川区説明板を参照しました)
<本堂/七面堂>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
七面大明神と延命院の大椎
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出産の際に、安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請、慶安元年(一六四八)別当寺として延命院を開創したという。
七面大明神には、胎内に慶安三年(一六五○)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。
境内には樹齢六百年を越えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。
荒川区教育委員会」
「江戸名所図会」
江戸名所図会「日暮里惣図」の七面堂部分の拡大です。
大きな木が描かれています。
階段坂の隣に、七面坂が描かれています。
現在の「夕やけだんだん」は、昔も階段坂だったようです。
<谷中騒動>
第十一代将軍徳川家斉の時、大奥でおきた延命院事件の舞台となった寺です。
本堂の右に日潤の供養塔があります。
延命院事件は歌舞伎に取り上げられ、
明治11年5代目尾上菊五郎の日当(歌舞伎では日潤は日当)で初演されました。
その上演にあたり、日潤上人追善のため5代目尾上菊五郎と12代守田勘弥によって供養塔が建てられました。
供養塔には「行硯院日潤聖人」と刻まれています。
線香立てには、尾上菊五郎と守田勘弥の名前が刻まれています。
(説明板)
「1878年(明治11)第5世尾上菊五郎と第12世守田勘弥が東京・新富座において歌舞伎「延命院日当」を上演するのにあたり延命院第16世行硯院日潤上人(=通称『日当』)追善のためこれを建碑した。1803(享和3)年の延命院事件を題材にし、後に河竹黙阿弥の「日月星享和政談」によって脚色劇化された。
「延命院事件」は日潤上人が幕府権力とつながった女犯の容疑で処刑とされるが、正しくは江戸城内の御本丸大奥と西丸大奥の権力紛争によって捏造された事件だという。」
「新撰東錦絵 延命院日当話」(歌川(月岡)芳年 明治18年 国立国会図書館蔵)
「延命院実記 : 谷中騒動」(鶴声社等 明治20年6月)
日当と柳全が描かれています。
<延命院の大シイ>
(説明板)
「東京都指定天然記念物
延命院のシイ
所在地 荒川区西日暮里三の一○の一延命院内
指 定 昭和五年三月
延命院は慶安元年(一六四八)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。
天保七年(一八三六)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政二年(一八五五)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高一六.二m、幹周り五.五mの巨樹でしたが、平成十四年(二00二)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
半分、南側部分がもげているのに、この樹勢です。すごい生命力です。
<牙角彫刻 左刀一派紀念之碑>
「左刀一派紀念之碑」であるとともに、「徳蔵翁霊」「山田潮月大人霊」2名の顕彰碑も兼ねています。
明治26(1893)年8月建碑。
「日本左刃彫刻会」(牙角彫刻や根付の作家の会)のホームページ(消失)によると
伊勢生まれで大阪の住人「徳蔵」が、牙角彫刻の刀法を江戸の「山田潮月」に伝えたと刻んであるそうです。
「荒川ふるさと文化館だより」(平成22年3月26日)に裏面の銘文の詳細な解説があります。
延命院門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂道。七面堂にちなんで名づけられました。
坂の両側に荒川区と台東区の説明板があります。
(説明板) 荒川区西日暮里3-14
「あらかわの史跡・文化財
七面坂
殿坂坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。
荒川区教育委員会」
(説明板) 台東区谷中5-11
「七面坂
宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三ー十)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三ー十)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
坂は『御府内備考』の文政九年(一八二六)の書上によれば、幅二間(約三・六メートル)ほど、長さ五十間(約九十メートル)高さ二丈(約六メートル)ほどあった。
なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
平成六年三月 台東区教育委員会」
下御隠殿橋は、日暮里駅前にある跨線橋です。御殿坂下と東口を繋いでいます。
橋の中ほど北側に「トレイン・ミュージアム」と呼ばれるバルコニーが設置されています。
JRの新幹線や特急列車を始め京成線など、1日に20種類約2500本の列車が行き交っています。
カメラを持った見物人多数です。
<プレート>
<説明碑>
バルコニーに説明碑があります。
「下御隠殿橋の完成にあたって
旧下御隠殿橋は、コンクリートと鋼板でできた幅員が6mの橋で、昭和3年に建設されました。その後、昭和39年2月に都市計画決定された東京都市計画道路補助線街路第188号線の一部として、西日暮里二丁目と西日暮里三丁目及び谷中地域とを結ぶ重要な役割を果たしてきました。
しかし、60余年に亘る長い年月と近年の車両交通の増加により、腐食やひび割れが著しく、通行の安全性を確保することが困難な状況になってきました。そのため、昭和63年2月に橋の幅員を15mとする都市計画変更を行い、損傷した橋を架け替えることになりました。
架け替えにあたっては、周辺地域の人々をはじめ多くの関係者の叡智を集め、景観と眺望に優れた橋として建設しました。それは、日暮里・谷中地区に数多く残る古い神社仏閣や文学碑などを中心とした歴史的な風情に配慮すること、新幹線をはじめ、数多くの種類の列車が1日2500本も通過する日本有数のこ線橋としての特性を活かすこと、日暮里駅は荒川区の玄関口であり品位と格調をもった橋とすること、を基本的な考え方にすえて整備しました。
新しい下御隠殿橋は、和風的なデザインで、バルコニー付きの広い歩道があり、列車ウォッチングができる生きたトレイン・ミュージアムとしてここに蘇りました。
この橋が街に新たな表情を与え、荒川区の活力ある発展に大きく貢献することをここに祈念します。
【橋の概要】 橋 格 1等橋
形 式 3径間鋼ラーメン橋
橋 長 100m
幅 員 15m
工 事 平成元年7月?平成7年3月
示方書 道路橋示方書・同解説(昭55)
平成7年4月
東京都荒川区」
御殿坂は、荒川区と台東区の区境の坂です。
下御隠殿橋から七面坂(こちらも荒川区と台東区の区境の坂)へと続きます。
坂の説明板(本行寺前)と標柱(谷中墓地横)が荒川区と台東区のそれぞれにあります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
御殿坂
西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。
当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。
天保九年(一八三八)刊の『妙めを奇談』は、寛永(一六二四〜四四)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
荒川区教育委員会」
(標柱)
「御殿坂
文政十二年(一八二九)に成立した『御府内備考』には、「感応寺と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には、長さ十五間(約二七.三メートル)幅二間(約三.六メートルm)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの路線ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。」