○ 音羽富士
○ 江戸名所図会(護持院/護国寺/西国札所写三十三所)
○ 護国寺
・惣門/開かずの門/仁王門
・手水舎〜不老門
・大師堂/一言地蔵尊/石碑群(身代地蔵尊)
・筑波山から移設の銅像
・銅燈籠
・観音堂前参道左
・観音堂前参道右
・観音宝前銅燈籠と観音堂
・観音堂左手
○ 奉献石燈籠
○ 墓地
○ 今宮神社(今宮五社)
<惣門> 文京区指定文化財
入口は、仁王門のほかに惣門があります。惣門をくぐると葬祭場の桂唱殿があります。
惣門は、明治維新までは、護持院の山門でした。
<閉ざされた門>
惣門の隣に、閉ざされた門があります。皇室専用の墓地「豊島岡墓地」正門です。
「東京市史稿 御墓地篇」(東京市 1913年)の出版当時、大正2(1913)年の時の「正門」と、
「豊島岡御墓地図」(明治40(1907)年)です。
<仁王門> 文京区指定文化財
護国寺は、神齢山悉地院と号します。
正面(南側)の両脇に金剛力士像。
背面(北側)の両脇には、二天像。
桂昌院の発願により創建されており、提灯には「九つ目紋」。
夏目漱石の小説「夢十夜」の第六夜の舞台でもあります。
二天像(左の広目天と右の増長天)
(説明板)
令和2年1月の真新しい説明板です。
「護国寺仁王門
文京区指定有形文化財(建造物)
昭和57年11月1日指定
八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。
正面(南側)の両脇に金剛力士像(阿形像・吽形像)、背面(北側)の両脇に、二天像(増長天・広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
護国寺の山門の朱の丸柱
つよきものこそ美しくあれ(窪田空穂)
文京区教育委員会 令和2年1月」
<夏目漱石「夢十夜」>
夏目漱石が夢十夜の六夜で、運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいる夢を見た作品の場所です。
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。・・・
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだからけっして間違う筈はない」・・・
自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめて早速家へ帰った。・・・
自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。」・・・
<護国寺境内案内図/縁起>
(縁起説明板)
「大本山護國寺の縁起
真言宗 豊山派 大本山 護國寺
當寺の創建は天和元(一、六八一)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護國寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護國寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まる
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は元禄十(一、六九七)年正月、観音堂建立の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年八月四日落慶式が挙行された
後に六臂如意輪観世音菩薩(現本尊秘仏)が安置される
元禄時代の建築技術の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一と称賛される
もろもろの くのうをすくう
観世音 大悲の恵み
尊うとかりける
月光殿 国指定重要文化財は近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物である 平成二十五年十一月、月光殿文化財保存修理工事が完了する
護國寺の茶席 境内には月窓院、化生庵、草蕾庵、不昧軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数寄を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治から昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物である。」
<本坊>
本坊の前に六地蔵があります。
<手水舎/水盤>
石段下の両脇に手水舎があります。
蓮葉型手洗水盤は桂昌院殿よりの御寄進です。
境内の湧水を利用した自噴式水盤でしたが、平成20(2008)年に改修復元されています。
江戸名所図会でも、手水舎と水盤が石段下左右にそれぞれ描かれています。
現在の位置より、石段から少々離れているようです。
水盤のあった場所と思われる痕跡があります。
<不老門>
昭和13(1938)年4月の建立。江戸名所図会では存在していません。
「不老」の文字は徳川家達の書です。石段の上に建っています。
<義海和尚咸恩碑>
不老門の左手の植込みに、巨碑「義海和尚咸恩碑」が建っています。大正10(1921)年5月の建立。
高城義海大僧正への感恩碑です。護国寺の住職を務め、その後、総本山長谷寺化主に就かれました。
不老門をくぐると右手に大師堂と一言地蔵尊があります。
左手には、かつて西国三十三所写がありました。
大師堂までの間と境内に、石碑が色々とあります。
・六地蔵
・針供養塚
・筆塚
・安倍仲麿塚古碑
高橋箒庵は、石灯籠二十墓を寄進した後、阿倍仲麻呂の塚石を碑陰を刻み大師堂前に寄進しました。
奈良の道具屋で、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけ、安倍文殊堂の前にあったと聞き、
招魂碑としてこれをこの地に建てたものに違いないと考えました。
塚碑の奥に見えるのが仲麿堂です。
・仲麻呂堂
・和敬静寂の碑
裏千家13代目の鉄中宗室の報恩碑です。
・不詳の塚
・修行記念碑
3人の行者の富士山登山等が記録されています。
身代地蔵尊は、巣鴨プリズンの教誨師だった田嶋隆純大僧正(1892〜1957年、大正大学教授)の発願により、
昭和28(1953)年3月に建立されました。
台石の下には、戦犯処刑者1,068名の氏名が刻まれた銅版が納められています。
また、その後出版された「世紀の遺書」が防蝕処置を講じて納められました。
なお、仏教タイムスによると、BC級戦犯の一部遺骨を納めているとのことです。
・納札塚
・陰陽道先師留魂碑/留魂碑合祀祭神慰霊碑
社団法人大日本陰陽会(現日本疫学連合会)が、昭和11(1936)年5月2日建立。
<大師堂> 文京区文化財
「堂は、元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に大修理し、
大師堂として、現在置に移築したものである。(以下略)」(文京区教育委員会)
石燈籠は、両燈とも寛政2(1790)年銘です。
大師堂の裏の石段を下りると墓地に繋がっています。
大師堂の横の石段を上がると鐘楼に出ます。
<一言地蔵尊>
一言だけの願いを聞き届けるおじぞうさまです。
<斜面の石仏・石碑・墓標群>
大師堂の斜面には石仏・石碑等が多く並んでいます。
庚申塔など、音羽講中庚申塔が建っている場所にあったのをこちらに集約したようです。
(右手の鐘楼下の4基)
・駒型庚申塔。青面金剛をあらわす種子(ウーン)が刻まれています。延宝8(1680)年5月の造立。
・笠付型(笠がもげていると思われます)庚申塔。延享3(1746)年1月の造立。
・角柱型庚申塔。正徳6(1716)年5月の造立。
・西國四國坂東秩父大願成就。
(庚申塔など)
斜面最右手の保存状態の良い庚申塔。
・青面金剛庚申塔。足下に邪鬼と三猿。左右面に鶏。元禄2(1689)年の造立。
・舟型光背型庚申塔。青面金剛像と下には三猿。右に「諸願成就」
正徳2(1712)年9月の造立。
・その他
不動明王、一面八臂の石仏、蛙塚など。他に墓標多し。
護持院は、明治元(1868)年に廃され、護持院(筑波権現の別当寺別院)から分離独立した筑波山神社から、
旧護持院の仏像などが、明治3(1870)年に返還されています。
地蔵菩薩像(天明7(1787)年6月銘)、一体だけの金剛力士像(元々一体)、大仏、銅製多宝塔です。
参道の最後の石段の手前に地蔵菩薩像。
参道の最後の石段を上がった左手の金剛力士象は、胸と背中の筋肉が隆々です。
参道の最後の石段をあがった右手の大仏は、移設当初は銅燈籠と観音堂の間の右手にありました。
銅製多宝塔は薬師堂の裏にありましたが、現在は、音羽陸軍埋葬地に忠霊塔としてあります。
参道の最後の石段を上がると、参道の両側に銅燈籠があります。
左燈籠
台石に「九つ目紋」があります。
「従五位下 本庄氏宗俊」の文字が読みとれます。
元禄10(1697)年11月18日の寄進。
本庄宗俊とは誰ですかね?
桂昌院の弟である本庄宗資の次男で、元禄10年当時従五位下・安芸守だった本庄宗俊が、資俊に改名。
後に父の家督を継いだ笠間藩主本庄資俊でした。
右銅燈籠
台石に葵の紋
「甲州谷村城主
従五位下但馬守藤原姓秋元氏喬朝」
甲斐谷村藩主秋元喬知の寄進です。護国寺の普請奉行にも任じられています。
<多宝塔>
昭和13(1938)年4月の建立です。
<茶道茶碗供養塔>
多宝塔の裏手に「茶道茶碗供養塔」があります。
左にもうひとつ石碑がありますが、柵があり近づけないので詳細不詳。
<茶室>
実業家・茶人の高橋箒庵(高橋義男)は、大正から昭和初期にかけて、
護国寺の数々の茶室や建物を整備しました。
9つの茶室のうち、その多くが境内の西側に集中しています。
<仰木魯堂顕彰碑>
高橋箒庵のもと護国寺の数々の茶寮や建物を手掛けた棟梁が、仰木魯堂です。
仰木魯堂顕彰碑は、昭和3(1928)年11月に魯堂輩下の応宣会が建立しました。
<仰木魯堂の墓>
音羽講中庚申塔の西のほうにある埋経塚の西側に仰木魯堂の墓があります。
<月光殿> 国指定重要文化財
多宝塔の隣にあるのが「月光殿」ですが、裏手にあるので見えません。
桂昌院の紋所である「九つ目紋」、徳川家の「三つ葉葵の紋」が見えます。
<鐘楼(付梵鐘)> 文京区指定文化財
説明板によると、梵鐘は天和2(1682)年に寄進されたもので、
銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているとのこと。
梵鐘や銅像など、金属供出されずに、良く保存されていると思います。
<除闇之碑>
石燈籠見本の脇に建っています。
亀趺に乗っている西園寺公望揮毫の「除闇之碑」です。
亀趺は、牙がないし、耳もなく、造形は亀みたいです。
<石灯籠見本>
大正11(1922)年に実業家・茶人の高橋箒庵(高橋義雄)が寄進した石灯籠の見本です。
<巨碑四基>
巨碑が四基並んでいます。右から順に記載。
歌人小出粲の顕彰碑。山縣有朋の揮毫。明治42(1909)年2月の建立。
<報国六烈士碑>
日露戦争の6兵士の慰霊顕彰碑。
明治41(1908)年5月に建立。
<棋聖宗印之碑 奎堂顕>
将棋の11世名人8代目伊藤宗印(最後の家元)の顕彰碑。昭和11(1936)年5月建立。
題字は、清浦奎吾の揮毫です。
<紀念碑>
西南戦争で殉死した警察官の慰霊碑。明治13(1880)年の建立。
<観音宝前銅燈籠>
左銅燈籠
天和2(1682)年12月吉祥日の寄進。複数の氏名が刻まれています。
台石に「九つ目紋」。銅燈籠には「九つ目紋」があちこちにちりばめられています。
右銅燈籠
「従五位下本庄因幡守藤原朝臣宗資」と刻まれています。貞享2(1685)年初夏吉祥日の寄進。
本庄宗資は桂昌院の弟で、下野足利藩主・常陸国笠間藩主となっています。
台石に「三つ葉葵の紋」。銅燈籠には「九つ目紋」があちこちにちりばめられています。
(参考)本庄宗資の墓について、法受寺の中で記載
<観音堂(本堂)> 国指定重要文化財
元禄10(1697)年の造営。震災・戦災を耐えています。
本尊は桂昌院念持仏の天然琥珀観世音菩薩(絶対秘仏)です。
御前立として木像の如意輪観世音菩薩像が安置されています(毎月18日に御開帳)。
(参考)「文化財愛護火気厳禁ボード」
重要文化財のそばに立っているHITACHIの火気厳禁と書かれたボード。
日立製作所が、社会貢献の一環として全国の文化財を保護しようと、
昭和42(1967)年に始め、いまも続いている活動で、全国の設置数は1008枚。
文化財愛護シンボルマークは、昭和41(1966)年5月に文化庁が定めています。
文化庁「文化財保護シンボルマーク」
<薬師堂> 文京区指定文化財
(説明板)
「護国寺薬師堂 文京区指定有形文化財(建造物)
(昭和50年11月1日指定)
薬師堂は、元禄4年(1961)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するようになったものである。
大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることである。
小規模であるが、創建以後大きな改変もなく、元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。
文京区教育委員会 平成26年12月」
<閼伽井(あかい)>
閼伽を汲むための井戸です。
<象供養>
大正15(1926)年4月15日、第1回象供養が護国寺で開かれました。
4月15日は象供養の日に制定され、現在も像供養が行われています。
燈籠と象供養碑があります。
「燈籠」
表「東京象牙美術工芸協同組合
創立十周年記念並に象供養九十周年記念之碑」
横「昭和五十一年四月十五日建之」
象牙供養90周年の式典は、平成28(2016)年に行われていて、
東京象牙美術工芸協同組合は昭和42(1967)年に設立されています。
10周年と90周年のつじつまがあわないような。。。
「象供養 教海書」
表面:「象供養 教海書」、その下に2頭の象が描かれています。
裏面: 東京象牙美術工藝組合による昭和27(1952)年4月の建立です。
<忠霊堂>
日清戦争の戦没者の遺骨を埋葬する多宝塔の拝殿として、明治35(1902)年に建立。
なお、忠霊堂の裏手にあった多宝塔は、平成8(1996)年に音羽陸軍埋葬地に移築されています。
<忠魂塚紀念碑>
忠霊堂の裏に「忠魂塚紀念碑」が建っています。
碑文には、日清戦役の遺骨を護国寺内に小墳を設け樹を植え目印としたが、
ほとんど顧みられなくなったため、大正15(1926)年5月に建碑したと記されています。
<音羽講中庚申塔> 文京区指定文化財
天明5(1785)年銘の圧巻の庚申塔です。
造立は、西国札所写三十三所観音が開設された時期です。
現在は寂れた場所にありますが、大師堂傾斜地に移設された庚申塔も明治時代はここにありました。
江戸名所図会を見ると、この場所は護国寺裏門からの参道途中です。
当時は人通りが多かったと思います。
(説明板)
「音羽講中庚申塔 一基
大塚5-40-1 区指定有形民俗文化財
この庚申塔は、全国にもその例を見ない形式で、当時の民俗や習俗を知る貴重な資料である。塔は規模も大きく(総高210cm)基壇部、台座、塔部から形作られている。
塔部は台座上の三猿によって空中で支えられ、天明5年(1785)の銘がある。
台座は須弥壇形式(仏像をのせる台)で、その四面に肉彫り装飾、返花紋様が施され、その彫りは精巧かつ華麗である。基壇部分には、門前の音羽通りの人々76人の名が刻まれている。当時お互いに力を合わせ、金銭を出し合う共同社会の成立や信仰心の深さなどを知る上で、貴重な資料である。
庚申信仰は、庚申の夜(60日毎)講の当番の家で、般若心経を唱え、なごやかに夜を過ごす風習があった。寝ると体内の三尸の虫が抜け出て、天帝にその人の罪を告げ、早死にさせるといわれていた。
ー郷土をはぐくむ文化財ー
文京区教育委員会 平成11年3月」
大工が多く名を連ねているのが興味を引きます。
西国札所写三十三所観音は、観音像を納める三十三棟の仏堂が建設されており、
当てずっぽうですが、これに携わる大工たちも名を連ねているのではないかと思います。
<主真権僧正の感恩碑かな>
庚申塔の右に、文字で埋め尽くされた漢文石碑が建っています。
表「主真権僧正〜」
主真は護持院第17世住職(護国寺第十世住職)で、享保20(1735)年逝去。
「享保二十年乙卯奉」とあるので、住職が逝去されての感恩碑のようです。
隣の庚申塔より古いです。