「江戸名所図会 大塚護持院/護国寺」
護持院と護国寺の挿絵を繋げています。
護持院と惣門、護国寺と仁王門が描かれています。
<大名も馬から降りて通る>
門前の道を歩いている人物を見ると、19人のお供を伴った大名が馬から降りて、
お供に囲まれて歩いています。
国会図書館所蔵のものから抜粋しましたが、馬のところが破れているのが残念。
「江戸名所図会 護国寺/本浄寺」
護国寺の一部と本浄寺の挿絵を繋げています。
挿絵左上には「護国寺裏門」が描かれています。広大な境内です。
裏門から観音堂裏に至ったところに、多くの桜が描かれ花見をしています。
桜とツツジが多く植えられていたようです。
観音堂の西南にあった、西国札所写三十三所観音は雲に隠れて描かれていません。
別途詳細に描いているので、ここでは省略したのでしょう。
かろうじて札所1番は描かれています。
挿絵の下には、弦巻川が描かれています。
「絵本江戸土産 大塚護国寺 音羽町」(広重)
「神齢山悉地院と号す 新義真言の大梵刹なり 境内に西国三十三番の札所の写しあり」
音羽通りが不忍通りに至り、仁王門が描かれています。
写真は現在の音羽通りから見た仁王門です。
音羽通りは将軍綱吉が護国寺へ供揃1000人以上で度々参詣したので、御成道として整備されていました。
文化天保の頃は、遊郭があり非常の雑踏を極めましたが、後に禁じられました。
「絵本江戸土産 護国寺」(広重)
「護国寺は関東真言の四ケ寺の一にして本尊馬瑙石の如意輪観世音は唐土の請来なるよし
寺領千余石となん 構内広くして珠数の躑躅花あり 季春の頃は色を争ひていと艶なり」
昭和13(1938)年に設置された不老門はありませんが、手水舎と水盤が描かれています。
「江戸切絵図 雑司ヶ谷音羽絵図」
江戸切絵図に「筑波山護持院」「神霊山護国寺」が描かれています。
門前通りの西に「鬼子母神出ケシ井」、東に「富士見坂」が見えます。
「江戸名所図会 護国寺境内 西国札所写三十三所観音の図」
かつては、観音堂の西南に広大な「西国札所写三十三所観音」がありました。
複数の挿絵を繋げています。
三十三体の観音像を納める三十三棟の仏堂も描かれています。
左から2枚目に音羽富士も描かれています。現在の合目石には文化4(1817)年と刻まれています。
西国札所写三十三所観音は、天明年間(1781-1789)に開設されましたが、
管理が行き届かず、荒廃していったようです。
西国札所写三十三所観音と富士塚の造立は、幕府の助成と関連しています。
幕府は享保2(1717)年に、護持院・護国寺への修復費用の助成を打ち切り、
開帳などで自力で費用捻出するようにと方針転換しました。
出開帳は期間が限られるため、年間を通して集客できる西国札所写三十三所や富士塚の設置に向かいました。
寺院に富士塚が存在する所以です。
護国寺の西にある本浄寺まで連なって描かれています。
現在の日本大学豊山高等学校・中学校及び文京区立青柳小学校、小学校裏手の墓地が該当します。
画像は現在の青柳小学校と裏手の墓地と連なる首都高です。
<西国三十三所写/さんけいみち>
観音堂の裏手に、寛政3(1791)年10月銘「西国三十三所写」「さんけいみち」と刻まれた石標があります。
西国三十三所写の痕跡は、この石標と移設された音羽富士がとどめています。
また桂昌院寄進の西国札所観音模像(桂昌院の御髪が納められている)の三十三身像が
三十三か所の仏堂にそれぞれ納められていましたが、現在は観音堂(本堂)に祀られています。
<石標が本来あった場所>
「礫川要覧 小石川新聞社 明43年10月」に記述があります。
「石階の上左に「西國三十三所寫さんけいみち」と刻したる石標を有す。
此三十三所を模せしもの今は廃絶なり。」
江戸名所図会にもそれらしき石標と、その先に「西國札所一番」が描かれています。
現在も、石畳と石段が残っています。
<秩父三十四所総開帳供養塔>
観音堂の裏手、「西国三十三所写/さんけいみち」の東側に秩父三十四所総開帳の供養塔があります。
秩父三十四所が、明和元(1764)年7月から出開帳した際の供養塔が開帳終了時の10月に建てられています。
護国寺(護持院)は、浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気がありました。
一番上の段には、
正面「秩父三十四所 総開帳供養塔」
右面「天下泰平国土安穏 大樹殿下御武運長久」
(大樹殿下とあるのは、将軍のことです。)
左面「吉明和改元甲申歳十月十日」
全部で6段あり、請待再開帳の願主として護持院と護国寺の連名で刻まれています。
再開帳の度に段数を重ねて供養塔が積み上がったのでしょう。
4段目まで記銘が確認できたので、最低4回は秩父三十四所の出開帳が行われています。
秩父三十四所総開帳
(「礫川要覧 小石川新聞社 明43年10月」の記録と、現地記銘より以下を推定)
・明和元(1764)年7月9日〜10月10日
・年月読みとれず
・安永4(1775)年7月22日〜11月10日
・寛政12(1800)年6月1日〜
・文化8(1811)年
正面と裏
1段目
2段目〜4段目