(説明板)
「富士見坂 大塚二丁目と五丁目の間
坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13(1924)年10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂は緩やかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにいくおほつかなかまち
会津八一(1881〜1956)
この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
窪田空穂(1877〜1967)
文京区教育委員会 平成14年3月」
元和8(1622)年、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神の御神体を戴き、江戸城中紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」と称し創建、
その後松平大学頭家・大塚村(小石川4丁目)へ遷座、吹上稲荷神社と改名したといいます。
その後、護国寺、薬師寺等に移遷し、明治45(1912)年に現在地に遷座したといいます。
<一の鳥居と社号標>
<二の鳥居>
二の鳥居と神額
山県有朋の篆額です。
明治三十九年八月明治三十九(1906)建立。
文面から日露戦争の紀念碑です。
<吹上稲荷神社略記>
平成8(1996)年8月。
<神狐>
宝暦12(1762)年2月奉納の石造の神狐です。
<幟>
稲荷神社は赤い幟が多いのですが、こちらは紫色の幟です。
数多く奉納され圧巻です。
<拝殿>
賽銭箱は葵の紋です。
元禄10(1697)年、桂昌院の発願により、京都紫野(桂昌院の出身地で崇敬)の今宮神社から
御分霊を勧請し護国寺境内に鎮座しました。
神仏分離により、明治6(1873)年7月、護国寺境内から現在地に遷座しました。
通称の「今宮五社」は、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・岩清水八幡神社・熊野大社を表しています。
「江戸名所図会」
護国寺本堂の裏に「今宮」の記載と、鳥居と社殿が描かれています。
神仏分離により、護国寺境内から音羽に遷座しています。
<今宮神社御由緒>
御由緒の転記は一部省略しましたが、多くの御祭神をお祀りしています。ご利益はなんでも幅広い。
「今宮神社御由緒(通称今宮五社)
文京区音羽一ノ四ノ四鎮座
旧文京区音羽九丁目二十番地
当社は元禄十年(一六九七)十月徳川五代将軍綱吉、犬公方の御生母桂昌院殿の発願により、護国寺御建立の時、同所に京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて鎮座した。明治元年の神仏分離により明治六年七月音羽九丁目の現在地に遷座した。
五社今宮とは、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・岩清水八幡神社・熊野大社を示している。
創祀以来三百年余青柳・音羽・桜木の鎮守神として崇敬され、明治十二年十二月にはコレラ伝染除の祭典が執行され、京都今宮神社同様病気平癒の御利益があったとのことである。狛犬は宝暦四年(一七五四)八丁堀の石工小右エ門作である。(以下略)」
<手水鉢>
鉄分含んでいるようで、白い痕跡も気になります。地下水ですね。
<狛犬>
宝暦4(1754)年の造立です。
<天水桶>
中はコンクリートが詰っています。
<拝殿>
扁額は、「今宮神社 内閣総理大臣鳩山一郎謹書」
お隣は、鳩山会館(元鳩山邸)ですからね。
<天日鷲神社>
社殿右脇に天日鷲神社。明治9(1876)年に鎮座。