谷中三崎町の法住寺、浅草の安養寺が、昭和10年に当地に移転し合併し新たに法受寺となりました。
浅草にあった照光山安養寺は、本荘家累代の菩提寺です。
「江戸名所図会 三崎 法住寺」
江戸名所図会に三崎法住寺が描かれています。
「三崎 法住寺 俗に新幡随意院と云ふ 妙林寺 蛍沢」
第1駐車場から墓地に入ったので、後から正門から入り直しました。
正門から入り直す
<布袋尊>
山門入ってすぐのところに布袋様。
<「生類憐れみの碑」ペット霊園>
入って右手にあります。
怪談「牡丹燈籠」ゆかりの寺です。
法住寺は関東大震災で被害を被りこちらに移転。
1995(平成7)年に記念碑が建てられています。
落語家三遊亭円朝の「牡丹燈籠」は谷中の法住寺が舞台。
法住寺は、江戸名所図会に描かれているほどでしたが、維新で幕府の援助が絶え、
荒れていたのを三遊亭円朝が『牡丹灯篭』に仕立てたようです。
幽霊のお露と牡丹灯篭の絵とともに、三遊亭円朝演述、橘右近書による縁起が彫られています。
<書家墨庵の墓>
「墨庵先生之墓」と刻まれています。
沢村墨庵は、丹後宮津藩に仕え江戸詰御用人・御番頭格、祐筆(右筆)(武家の秘書役を行う文官)
を務めた書家。寛政12年〜文久2(1862)年。
<関口弥太郎(氏暁)の墓>
柔術家関口弥太郎(氏暁)の墓です。
<歴代住職の墓>
歴代住職の墓も立派です。
墓は2基あり、そのうちの1基は「三界萬霊塔」を兼ねています。
<本荘家(桂昌院)の墓>
5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺に埋葬され、昭和33年に合祀塔へ改葬されています。
桂昌院の養家であった本荘家の菩提寺が安養寺であった関係から、
桂昌院の墓碑が本荘家墓域に建立されています。
桂昌院:寛永4(1627)年〜宝永2年6月22日(1705年8月11日)
「感応院殿」(義父)と「照高院殿」(実母)の墓が桂昌院の両脇にあります。
また、異父弟笠間城主本庄宗資の墓が一番右にあります。
一番左に、宗資夫人の墓もありました。
「貴族院議員従三位勲四等子爵本荘宗義墓」があります。
桂昌院等の墓域の右手の墓域には「高富本荘家累代之墓」があります。