Discover 江戸旧蹟を歩く

 投込寺

  【新吉原】
   ○ 浄閑寺
   ○ 西方寺  ※別ページ
   ○ 西方寺跡 ※別ページ
   ○ 正憶寺(善応寺) ※別ページ
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  【洲崎】
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浄閑寺 荒川区南千住2-1-12 03-3801-6870

 荒川区教育委員会説明板より
 「  投込寺(浄閑寺)
  浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、
 たくさんの吉原の遊女が、投込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。
 花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
  壇徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、
 十冊の過去帳が現存する。
  遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。
 「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
   荒川区教育委員会」

      

    
 

 <新吉原総霊塔>

       
 

 <永井荷風>

  新吉原総霊塔の向かいに永井荷風の筆塚と詩碑があります。

      

     



遊女供養塔 足立区中川3-3-5(善応寺) 足立区有形文化財

 善応寺は、1929(昭和4)年に浅草橋場の正憶院が移転してきて合併してできた寺です。
 橋場の正憶院は吉原遊女の投込寺のひとつでした。
 
    

   
 

 <説明板>

  「 善応寺(ぜんのうじ)
    善応寺は、天正十一年(1583)に創建されたという。
   現在の寺は、昭和四年浅草、橋場の正憶院が移転合併してできたものである。
    堂内には、江戸時代の造像とみられる本尊阿弥陀三尊、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像が安置され、
   元和二年(1616)にはじまる正憶院の霊簿、善応寺田畑什物等、多数の古文書が残されている。
    霊簿は、新吉原遊郭の開設者、庄司甚右衛門をはじめ楼主、遊女、禿の戒名を記し、
   境内の遊女の墓碑、笠塔婆、楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑と共に貴重な資料である。
    また、本寺には江戸時代中期ごろ、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼願し、
   そのお礼に艾餅を供えたとの言伝えがある。
   それが世人に広まり、地蔵を草餅如来、本寺をくさもち寺と呼ぶようになったという。
     平成元年十二月  東京都足立区教育委員会 」

    
 

 <遊女墓碑>

  供養塔の前に、遊女墓碑が並んでいます。

     
 

 <楼主庄司・野村・西田三氏の供養碑>

  大笠塔婆があり、遊女の戒名がびっしりと刻まれています。
  供養塔の橋場からの移転について、東京市の許可も刻まれています。

       

      
 

 <笠塔婆>
  説明板中記載のある笠塔婆がわかりませんでした。
  供養碑が笠塔婆だとしたら、供養碑が浮いてしまうし。

 <歴代住職の墓>

    



文殊院 板橋区仲宿28-5

 <遊女の墓>

  墓地入口に無縁塔に「遊女の墓 この先20m左」の案内表示があります。
  20m進むと、「遊女の墓 ← 板橋区教育委員会」の案内板があります。

     
 

 <遊郭「盛元」家墓地/遊女の墓>

  正面に、遊廓「盛元」家の大きな墓石があります。

       
 

  脇に遊女の墓があります。
  「盛元」楼主が自家の墓域に葬っています。
  遊女の墓には、俗名、没年月日が刻まれています。
  他の「投げ込み寺」は無縁塔として弔われているのとは異なっています。

        
 

 <延命地蔵堂/庚申塔>

      
 

 <閻魔堂>

  閻魔堂内には、左に亡者から剥ぎ取った衣を衣領樹の枝に掛け生前の罪の重さを計っている懸衣翁。
  中心に閻魔大王、右に奪衣婆。
  左手に地獄絵が掲示されています。

       

     
 

 <子大権現>

     
 

 <文殊院>

     

     
 

 <ありがたや六道能化のほとけたち
  維時平成五年 文殊院第二十一世 照圓書>

    
 

 <六地蔵/無縁塔/その他>

      
 

 <八十八ヶ所霊場巡拝>

  四国八十八ケ所お砂踏み巡礼として四国遍路ができるようになっています。
  八十八番までの敷石があり、最後に 「高野山奥の院」であがりです。

       

      


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