○ 洲崎遊郭追善供養
雲光院
洲崎三業組合が建てた 「洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養」
の石碑があります。
昭和6年11月9日、洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養が執り行われ、
信州善光寺大本願119世大宮智栄上人が詠んだ歌が碑に刻まれています。
「白菊のはなにひまなくおく露は なき人しのふなみたなりけり 智榮」
「昭和六年十一月九日
信州善光寺大本願大宮尼公台下御親修
洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養執行記念
洲崎三業組合建之」
吉原弁財天に同じ内容の智栄印の歌碑があります。
「白菊のはなにひまなくおく露は なき人しのふなみたなりけり 智榮 龜雲年鐫」
吉原三業組合の建立で、昭和6年12月と刻まれ、智栄上人のイチョウ植樹碑が横にあります。
長野の善光寺、智栄上人が、昭和6年11月に洲崎遊郭で、
続いて12月に吉原遊郭で、法要を行ったことがうかがえます。
<石碑「信州善光寺大本願大宮智榮上人御手植公孫樹 昭和六年十二月」>(吉原)
石碑は昭和30年7月の再建です。
「東京名所帖 洲崎」(井上安治)
井上安治が洲崎を描いています。時計塔が見えます。
根津から移転直後に描かれたものでしょう。
「東京名勝三十六景 洲崎遊郭真景」(明治26年12月)
右手に時計塔が見えます。
「日本之名勝 洲崎遊郭遠望」(史伝編纂所 明治33年12月)
南に海を控えて、高楼が建っています。
庄司甚右衛門
天正3(1575)年〜寛永21年11月18日(1644年12月17日)
<庄司甚右衛門墓>
本堂右手の墓域の手前の通路に墓石が3つ並んでおり、
中央の墓の台石に、「庄司墓」と刻まれています。
施主は「新吉原仲之町施主箕浦四郎」と刻まれています。
馬喰町の雲光院に葬られました。過去帳は旧正憶院にあります。
慶長16(1611)年、徳川家康の側室、阿茶局の発願により、
増上寺の潮呑上人を初代住職として高巌寺が開創されました。
阿茶局没後、阿茶局の法名「雲光院」が寺の名称となりました。
開創地は中央区馬喰町付近で、明暦3(1657)年の大火に被災し神田岩井町に替地、天和2(1682)年、現在地に再び替地となりました。
阿茶局(徳川家康側室)
天文23年2月13日(1554年3月16日)?寛永14年1月22日(1637年2月16日)
「江戸名所図会」
挿絵は描かれていませんが、本文に深川寺町の一つとして雲光院が記載されています。
「江戸切絵図」
「霊厳寺」「浄心寺」があり、「龍徳山雲院」が描かれています。
明暦の大火(1657年)後、小名木川から仙台堀川の間に、
霊厳寺(1658)、雲光院(1682)、浄心寺(1658創建)といった有力寺院の移転・創建が続きました。
※霊厳寺はこちらで記載、浄心寺はこちらで記載、臨川寺はこちらで記載
<山門/本堂>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物)
石造宝篋院塔(阿茶局墓塔) 寛永十四年在銘
三好二ー一七ー一四
平成一三年三月二九日指定
本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。
阿茶局は弘治元年(一五五五)、武田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、徳川家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康死後は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和九年(一六二三)従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永十四年(一六三七)、八三歳で没しました。
本塔は総高三六三・一cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永十四年閏正月廿日」と刻銘があります。
本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<石造宝篋印塔(阿茶局墓塔)>
阿茶局の墓が墓域にあります。
「石造宝篋印塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘」
塔身正面に「雲光院殿従一位尼公」、上基礎の正面に「正誉周栄大姉」と刻銘されています。