○ 採荼庵跡
○ 芭蕉俳句の散歩道 別頁
○ 小名木川五本松跡/五百羅漢道標
○ 臨川寺
松尾芭蕉は、奥の細道に旅立つ前、それまで住んでいた芭蕉庵を人にゆずり、
門人だった杉山杉風の採茶庵に居を移し、ここから舟で奥の細道に旅立ちます。
(説明板)
「採茶庵跡 〜奥の細道はここから〜 深川一−八付近
採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。
採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川一−八)を挟んだ一角でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより一四○メートルほど南西に位置します。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。
江東区教育委員会」
(標柱)
「採茶庵跡
芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した
昭和三十三年十月一日 江東区第七号」
<芭蕉翁像>
今にも立ち上がりそうな芭蕉翁像です。
<ハリボテ>
裏から見ると、ハリボテです。
<芭蕉俳句の散歩道> 仙台堀 江東区史跡
仙台堀川沿に芭蕉俳句の散歩道が続きます。
仙台堀川は旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつです。
仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから「仙台堀」と呼ばれました。
仙台堀は江東区史跡に指定されています。
※更新されました。別途記載。
「東京名所 深川仙臺堀」(井上探景(井上安治))
井上安治が明治初期の仙台堀を描いています。
河口方向に清川橋が見えます。
仙台堀の右手に見えるのは、日本で初めてのセメント工場かと思います。
ここに仙台藩の蔵屋敷がありました。
小名木川橋の欄干に五本松と小名木川を描いたレリーフがあります。
芭蕉もここで句を残しています。
「川上とこの川下や月の友」
この句碑は、江東区芭蕉記念館と芭蕉庵史跡展望公園にあります。
「小名木川五本松と芭蕉の句
松尾芭蕉は延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番
小木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。
平成24年3月吉日」
(標柱)
「五本松跡
江戸時代この付近から東にかけて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり地名ともなったほどであってその一本の松が九鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった」
「江戸名所図会」
「深川の末、五本松といふところに船をさして 川上とこの川下や月の友 芭蕉」
満月が描かれています。
「絵本江戸土産」(広重)
絵本江戸土産は安藤広重等が描いています。
「小名木川 五本松
此松ハかの千年の老松花橘ともいふへきものか 実に稀代の名木なり」
「五本松雨月」
小林清親と井上安治が「五本松雨月」を描いています。
小林清親 井上安治
<五百羅漢道標 文化二年在銘>
「五百羅漢道標
五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。
造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保一六年(一七三一)、寛政九年(一七九七)、文化二年(一八〇五)の計三回再建されたことがわかります。現在の道標は文化二年に再建されたものです。
五百羅漢寺とは、明治二〇年(一八八七)まで現在の大島四-五付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された五三六体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。
この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。
平成十九年三月 江東区教育委員会」
延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、
足繁く参禅するようになりました。
芭蕉庵と呼ばれた草庵が、臨川庵とほんの五百メートルほどしか離れていなかったことも、
二人の交流を深める助けとなったのでしょう。
「玄武仏碑」「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残され
芭蕉ゆかりの寺として知られています。
(以上、臨川寺ホームページ及び現地説明板よりまとめました)
(説明板)
「玄武仏碑
臨川寺は、承応二年(一六五三)鹿島根本寺(茨城県)第二○世の冷山和尚が小名木川に近い現在地に結んだ臨川庵に始まり、仏頂河南和尚(根本寺第二十一世)が幕府に願い出て、正徳三年(一七一三)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号が許され、京都妙心寺の末寺となりました。
延宝八年(一六八0)に深川に移り住んだ松尾芭蕉は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。芭蕉の号「桃青」も仏頂によるものといわれています。以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などが残されています。(以下略)
平成二十六年六月 江東区教育委員会」
(※江東区教育委員会説明中「桃青」の俳号の件は、発句也の時に桃青と号していたので、正確ではないかな)