Discover 江戸旧蹟を歩く

 芭蕉ゆかりの地 深川@ (深川A 深川B 深川C

  ○ 芭蕉庵
  ○ 芭蕉稲荷神社/深川芭蕉庵跡
  ○ 芭蕉庵史跡展望公園
  ○ 正木稲荷神社
  ○ 芭蕉の顔いろいろ(森下駅)

 芭蕉ゆかりの地

  ○ 小田原町



芭蕉庵

 <本所深川絵図(江戸切絵図)>

  「松平遠江守 芭蕉庵ノ古跡 庭中ニ有」と記されています。

   
 

 <江戸名所図会> 巻之七

  「芭蕉庵
    古池や 蛙 飛こむ 水の音 桃青」

  「芭蕉庵旧址
    同じ橋の北詰、松平遠州候の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。
   延宝の末、桃青翁伊賀国より始て大江戸に来り杉風の家に入、後剃髪して素宣と改む。
   又、杉風子より芭蕉庵の号を譲請夫より後、此地に庵を結び泊船堂と号す。
   杉風子、俗称を鯉屋籐左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙子たりし頃のいけす(竹冠+禦)やしきなり。
   後、此業をもせざりしかば生洲に魚もなく、自水面に水草覆ひしにより古池の如くになりしゆゑに
   古池の口ずさみありしといへり。」(句読点を適宜振った)

  
  江戸名所図会では、芭蕉庵の前に大きな池があります。
  解説を読むと、この池は魚の生簀だったということです。
  芭蕉は、弟子の杉山杉風に草庵の提供を受けています。
  杉山杉風は、俗称を鯉屋籐左衛門といい、草庵は、魚問屋を営んでいた頃の生簀の屋敷だったところで、
  今となっては、生簀に魚もなく、水面は自生した水草に覆われ古池のようになっていたので、
  芭蕉は「古池や〜」と口ずさんだとあります。
  図会では小さな庵に見えますが、屋敷と説明があります。

     



芭蕉稲荷神社/深川芭蕉庵跡 江東区常盤1-3-12

 萬年橋通りの萬年橋近くの脇道を隅田川に向かうと20m先に芭蕉稲荷神社/芭蕉庵跡。
 萬年橋通りをそのまま進むと、旧新大橋跡、芭蕉記念館があります。
 芭蕉庵跡の道路反対側に正木稲荷神社、その先隅田川沿に芭蕉庵史跡展望庭園があります。

    
 

<扁額>

 扁額は「芭蕉庵史蹟 芭蕉稲荷神社」とあります。
 御朱印はありませんが、スタンプがあります。

      

       
 

<深川芭蕉庵旧地の由来>

(説明板)

「 深川芭蕉庵旧地の由来
 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常磐一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽くした。
 しかし、当所が狭隘であるので常磐北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
  昭和五十六年三月吉日  芭蕉遺蹟保存会」

   
 

<碑>

 「史蹟 芭蕉庵跡」
  昭和五十六年十月吉日
  芭蕉が愛好したと言われる石造りの蛙にちなんで、蛙がいます。

     
 

 「婦る池や蛙飛こ無水の音」
  昭和三十年

     
 

 「奥の細道旅立参百年記念碑」
  平成元年五月吉日 芭蕉遺蹟保存会

    
 

 「俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念」
  平成六年十月吉日 芭蕉遺蹟保存会

    
 

 「芭蕉記念館」
  芭蕉記念館の記念碑です。「此ヨリ北百五十米」

   
 

 「さまざまのことおもいだす桜かな」
  句が書かれた板が、いちょうの木に打ち付けてあります。

   



芭蕉庵史跡展望公園 江東区常盤1-1-3

 小名木川と隅田川の合流点にあります。

<芭蕉庵史跡展望庭園入口>

 入口手前左横に「観光高札」があります。
 入口は竹と木です。
 庵の雰囲気を出そうとしているのでしょう。
 

<観光高札>

 「 観光高礼  赤穂浪士ゆかりの道
  元禄15年(1702)12月、本所吉良邸を急襲し、本懐をとげた赤穂浪±47名は、泉岳寺に
 向かうために竪川一之橋を渡り、絵図点線のように隅田川沿いの道を南下して永代橋を渡
 ったといいます。途中、小名木川の万年橋、佐賀町あたりの上之橋・中之橋・下之橋を渡
 って、永代橋のたもとでひと息を入れたと伝えられています。
  ここから北に伸びる道は、当時の道筋が残っている場所です。
  赤穂事件で、将軍綱吉は、赤穂藩主浅野長矩を即日切腹させました。綱吉の裁断につい
 ては、武士道精神に反すると武士や庶民から批判されています。この道は、時代が武断政
 治から文治政治に移り変わろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。  江東区」

     
 

<周辺案内図>

 入口入って右手に周辺案内図。
 「本所深川絵図」(江戸切絵図)が添えられています。

    
 

<深川芭蕉庵>

 入り口入って左手に深川芭蕉庵の説明板。

「  深川芭蕉庵
 ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝八年(一六八〇)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一林がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄七年(一六九四)に至る十五年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝八年冬から、天和二年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ三年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
  櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
  芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
  氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 天和三年(一六八三)冬、友人素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが二つ、茶碗が十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』の旅はここから旅立った。
  古池や蛙とびこむ水の音
  花の雲鐘は上野か浅草か
  蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
 元禄二年(一六八九)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄五年五月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
  名月や門に指し来る潮頭
  川上とこの川下や月の友
  秋に添うて行かばや末は小松川
 芭蕉庵の所在地は、元禄十年松平遠江守の屋敷となリ、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。」
  平成七年四月  江東区  」

   
 

<芭蕉句碑>

 入口入って左手に芭蕉句碑。
 「川上とこの川下や月の友」

「 小名木川五本松と芭蕉の句
 松尾芭蕉は延宝8年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番 小木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。
  平成24年3月吉日 」

    
 

<北斎「冨嶽三十六景 深川萬年橋下」>

 板柱に描かれています(帰りの風景)。

     
 

<芭蕉翁絵詞伝(義仲寺蔵)>

 パネルの前は古池をイメージしているのでしょう。

     
 

<芭蕉翁之像>

 「 この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる
  杉山杉風(一六四七〜一七三二)が描き京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫
  により制作したものです。 (原画 岐阜県高山市 加藤功氏 蔵)
    平成七年四月 」

    

    
 

 <隅田川テラスからの芭蕉翁像>

  17時から22時まで、芭蕉像が動いてこちらを向き、2つの照明でライトアップされます。

     
 

<清洲橋/新大橋>

 下流に清洲橋、上流に新大橋が見えます。
 芭蕉翁像をライトアップする照明が2基あります。

      
 

<パネル>

 パネルが9枚も設置されています。狭いスペースですが読むと時間がかかります。
 芭蕉が植えられています。
 
  
 

「 深川芭蕉庵
 俳誌『ホトトギス』明治四十二年一月号に所載の図である。中材不折は幕末慶応二年(一八六六)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は十九世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。」

「 俳人百家撰
 江戸の緑亭川柳が安政二年(一八五五)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は、天保五〜七年(一八三四〜一八三六)に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。」

「 芭蕉翁略伝
 天保十四年(一八四三)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化二年(一八四五)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭缶である。」

「 芭蕉翁絵詞伝
 蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政五年(一七九三)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り漆をかけて仕上げる。」

「 深川八貧図
 蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(一六八八)十二月十七日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵)」

「 俳諧悟影法師
 天保八年(一八三七)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田英泉である。構図は安永二年(一七七三)刊、小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。」

「 埋木の花
 明和八年(一七七一)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから五十五年後の文政九年(一八二六)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安永二年(一七七三)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑は其の模刻である。」

「 芭蕉文集
 安永二年(一七七三)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く『句餞別』の編者でもある。」

「 芭蕉庵再興集
 明和八年(一七七一)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄末斎長喜。(学習院大学蔵)」

    

    

    



正木稲荷神社 江東区常盤1-1-2

 <正木稲荷由来> 平成7年5月

 「 正木稲荷由来
  (略)
   当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に「マサキイナリ」と記載されている。
  この絵図は文久二年(1862)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも称されている。
  江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。
  当社はその一つであった。
   昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。
   (略)
   小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(1590)水路が開かれ、
  江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(1629)現在の河幅に開削され、
  船舶取り締りの ため当社の隣に船番所が設置された。
   寛文元年(1661)船番所は大島九丁目の小名木川と中山の交査する場所に明治維新まで置かれた。
   (略)」

 <正木稲荷の由来>
  平成2年5月

      

     

   
 

 「絵本江戸土産」(広重)

  「新大橋 萬年橋 並 正木の社」
  「萬年橋 征木稲荷」

  征木稲荷が描かれています。
  新大橋と萬年橋が描かれていますが、新大橋は現在はここの場所ではなく、もっと上流に架かります。
  旧新大橋の跡には、旧新大橋跡の石柱が建っています。

    
 

 「江戸切絵図」

  「マサキイナリ」「新大橋」「万年ハシ」が見えます。

   
 

 「東京名所 萬年橋ヨリ大橋」(井上安治)

  明治初期の描画です。萬年橋から、大橋を描いています。
  右手に正木稲荷が描かれています。

  


芭蕉の顔いろいろ 江東区森下 森下駅

 都営新宿線「森下駅」A3出口付近に、「芭蕉の顔いろいろ」と題して、
 19点の松尾芭蕉の肖像画がパネル化して展示されています。
 江東区芭蕉記念館にある松尾芭蕉の肖像画19点です。

   
 

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