○ 滝沢馬琴誕生の地
浄心寺は、4代将軍徳川家綱の乳母、三沢局の菩提を弔うため、万治元年(1658)に創建されました。
十万石の格式をもつ大寺院で、身延山からのご開帳が度々行われるなど、江戸十大祖師の随一といわれた名刹です。
「名所江戸百景 金杉橋海」(広重)
身延山久遠寺の開帳仏を東海道で各地から集まった講中が出迎えて、
開帳仏とともに安政4(1857)年7月19日からの出開帳先の浄心寺に向かう様子が描かれています(諸説あります)。
<山門/本堂>
<蔵魄塔(関東大震災慰霊碑)>
作者は彫刻家の日名子実三氏。
「供養塔は半球ドーム型の白いコンクリート造の墳墓を
悲しみに暮れる女性が抱きしめている姿のモニュメントで、蔵魄塔と名付けられました。」
(説明板より抜粋)
【境内】
<梵鐘>
行伝寺(川越)の鐘が戦時中に金属供出されましたが溶かされる前に終戦となり、
売出された鐘を浄心寺檀家さんが買受けたものです。
<百度石/水屋の由緒>
<梅玉之碑>
<石造燈籠>
【墓地】
墓地入口には石灯籠2基。
狭い通路に数多くの墓石が林立しています。
境内は案内・説明板が豊富なのですが、墓地は案内板は一切ありません。
三沢局墓と洲崎廓追善墓に墓参。
三沢局(徳川家綱乳母)、慶長16(1611)年〜明暦2年3月30日(1656年4月24日)
墓地最奥の歴代住職の墓所の真中に三沢局の墓があります。
「浄心院殿妙秀日求大姉」「明暦二年三月三十日逝」
<元洲崎遊郭無縁精霊之供養塔>
左端に、比較的新しい高さのある供養塔があります。
「昭和三十九年八月十四日」
「施主 深川平野町二丁目有志」
洲崎遊郭で亡くなった遊女の合葬墓です。
「大正八年九月再建」世話人に4名の名前が刻まれています。
<供養観世音>
「洲崎カフェー組合」と「従業婦多津美会」が昭和29年に建立した供養観世音。
「千代梅」の文字も刻まれています。
<不明の墓>
右端に、石川県士族堀鼎墓。詳細不詳。
「江東区深川ふれあいセンター/江東区平野児童館」に滝沢馬琴誕生の地のモニュメントがあります。
モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分です。
(説明板)
「滝沢馬琴誕生の地(平野一 - 七・八付近)
江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四七)年十一月六日、八十二歳で病没しました。名は興邦、曲亭馬琴、著作堂主人などと号しました。
安永四(一七七五)年、九歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、同九(一七八〇)年、十四歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政二(一七九〇)年山東京伝のもとに入門しました。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言
」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
天保五(一八三四)年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約四七〇種にものぼる著作を残しています。
平成九年三月 江東区教育委員会」