○ 大音寺
○ 田川屋
○ 旧竜泉寺町
○ 樋口一葉旧居跡
○ たけくらべ大黒屋の寮跡 別頁
○ 一葉記念館
○ 一葉祭
○ 龍泉寺
○ 千束稲荷神社
○ 正燈寺(もみじ寺)
○ 東嶋屋
樋口一葉ゆかりの地(別頁)
○ 樋口一葉生誕地 (千代田区)
○ 樋口一葉ゆかりの桜木の宿跡 (文京区)
○ 樋口一葉菊坂旧居跡 (文京区)
○ 旧伊勢屋質店(菊坂跡見塾) (文京区)
○ 樋口一葉終焉の地 (文京区)
○ 樋口一葉の墓 (杉並区)
○ 樋口一葉文学碑/樋口一葉玉梓乃碑(台東区鷲神社)
○ 樋口一葉像まとめ
江戸時代後期に、大音寺前に、田川屋・駐春亭という料理店がありました。
永井荷風「里の今昔」によると、現在の国際通りに面した東向きの大音寺の門は、
以前は別の所にあって向きも北向きだったとおぼろな記憶を語っています。
「里の今昔」永井荷風
「大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる処ではなくして、
別の処に在つて其向きも亦ちがつてゐたやうである。
現在の門は東向きであるが、昔は北に向ひ、道端からずつと奥深い処に在つたやうに思はれるが、
然しこの記憶も今は甚だおぼろである。」
永井荷風の説明に従うと、大音寺の門は北に向かい道橋からずっと
奥深いところにあったということですから、江戸切絵図で確認すると、茶屋町通りが門前ですね。
田川屋・駐春亭は、大音寺の門前、茶屋町通りにあったと推察されます。
茶屋町通りは1本道で、新吉原のお歯黒どぶに行き当たります。
<大音寺>
樋口一葉の「たけくらべ」ゆかりの寺です。
新吉原の投げ込み寺、浄閑寺、西方寺、正憶院、大音寺と、新吉原の投げ込み寺でした。
田川屋・駐春亭は下谷竜泉町の大音寺門前にあった鷺料理の店です。
浴室の設備を備えていました。
吉原の茶屋は仕出しを注文することが多く、八百善とともに大いに繁盛したようです。
鷺は草食ではなく動物食です。美味しいのかどうかわかりませんが川柳に鷺が出てきます。
「泥水のかへり田川の鷺で飲み」
「青鷺の首をくくるは意気な茶屋」
「花落の袖青鷺の口へ入れ」
「江戸高名会亭尽 大をんし前」(広重)
国立国会図書館所蔵の広重の浮世絵ですが、右上を拡大すると「田川や」と記されています。
有名店だったわけです。
「江戸名所百人美女 大音寺まへ」(豊国・国久)
こま絵にある茅葺の平屋が田川屋でしょうか。
つけ毛をする遊女が描かれています。
(参考)
八百善 台東区東浅草1-8-12(跡地)
山谷の八百善は、文人墨客から将軍家までが利用する江戸第一と称された料亭です。
八百善があった場所は、新鳥越2丁目で、後に、吉野町二一番地、現在は東浅草1-8-12です。
現地には、今は何の痕跡もありません。
八百善のホームページ(消失) インタビュー記事
(説明板)
「旧町名由来案内
下町まちしるべ
旧 竜泉寺町
本町名は、古刹「竜泉寺」にちなんで付けられた。「竜泉寺」の創建は大変古く、慶長から元和の頃(一五九六〜一六二三)にさかのぼる。そのためこの付近一帯は早くから竜泉寺村と呼ばれていた。そして延宝七年(一六七九)の頃、吉原から金杉へ抜ける道筋に民家が建ち始め、町並みができた。そこは竜泉寺村の内であったが、いつしか竜泉寺町と呼ぶようになった。
明治二年(一八六九)竜泉寺町は下谷竜泉寺町と改称した。その後、同二十四年には竜泉寺村、千束村および三ノ輪村の一部を合わせ町域を広げるとともに下谷竜泉寺町となった。そして明治四十四年に下谷を略し再び竜泉寺町となった。
明治文壇の女流作家樋口一葉は、明治二十六年七月からこの地に住んだ。僅か十箇月だったが、ここでの生活があってこそ一葉文学が生まれたといえる一葉ゆかりの地である。
台東区」
「鶉なく聲もきこえて花すゝき まねく野末の夕べさびしも」
(説明板)
「樋口一葉旧居跡
樋口一葉は明治二十六年七月二十日、本郷菊坂町より下谷竜泉寺町三百六十八番地に移り住み、この界隈を背景にして不朽の名作「たけくらべ」や「わかれ道」の題材を得た。この碑の位置は、一葉宅の左隣り酒屋の跡にて、一葉と同番地の西端に近く碑より東方六メートルが旧居跡に当る。
なお一葉はこの辺りを
「鶉なく聲もきこえて花すゝき
まねく野末の夕べさみしも」
と和歌に詠んでいる。
昭和五十一年十一月二十三日(一葉没後八十年)
台東区教育委員会」
樋口一葉の命日である11月23日は、「一葉祭」が催され、無料公開されます。
樋口一葉:明治5年3月25日〜明治29年11月23日(1872年5月2日〜1896年11月23日)
<一葉記念公園>
「一葉女史たけくらべ記念碑」(昭和26年)
佐佐木信綱の歌二首が刻まれています。
「一葉記念碑」
菊池寛の一葉を称える撰文が刻まれています。
昭和11年7月に建てられ戦災で破損したために昭和24年に再建されています。
11月23日は樋口一葉の命日で、11月22日〜24日の3日間、「一葉祭」が開催され、
期間中、一葉記念館は入館無料となります。
一葉祭の最終日に一葉記念館を利用しました。
酉の市の時は、開館時間を延長していました。酉の市の縁起熊手が雰囲気を盛り上げています。
作品は、撮影できるものとできないものがあります。
<一葉住居>
二軒長屋で、右隣は人力車屋。
<青海学校小学高等科第四級卒業証書(複製)>
「右上の号数は成績順につけられており、「第一號」は一葉が首席で卒業したことを意味している。」
との解説あり。
<「奇蹟」の舞台を提供した博文館>
博文館は一葉を支援していました。
田山花袋の温泉ガイドは博文館から出ていましたね。
・山名常人作「一葉女史胸像」
・仕入れ姿の一葉
・文芸誌に掲載の一葉
・吉原今昔図
吉原今昔図を売っていました。2500円。吉原神社でも売っています。
門と通用口は閉ざされ、中に入れません。
<樋口一葉胸像/塵中日記>
思いのほか大きな胸像です。
正面の碑文には、「塵中日記」の一節が自筆で刻まれています。
「明日ハ鎮守なる千束神社ノ大祭ナリ今歳は殊ににぎはしく山車などをも引出るとて人々さわぐ 樋口夏」
「樋口一葉「塵中日記」明治二十六年八月十九日
一葉の自筆(樋口陽氏所蔵)」
<江戸の紅葉見>
江戸の紅葉見は、下谷の正燈寺と品川鮫洲の海晏寺(こちらで記載)が特に有名でした。
足を延ばして真間の「弘法寺」も有名でした。
正燈寺と海晏寺が特に人気を集めたのは、正燈寺の近くには吉原遊郭があり、海晏寺には品川宿に飯盛女がいたことです。
川柳
「紅葉狩り例年行けどもいまだ見ず」
「紅葉狩りどっちに出ても魔所ばかり」
「紅葉狩聟やるまいぞやるまいぞ」
「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」
「紅葉よりめしにしようと海晏寺」(めしとは「飯盛女」)
「堅い奴うどんで紅葉見て帰り」(弘法寺の近くに遊郭はなく行徳「笹屋うどん」があった)
「江戸名所図会 正燈寺丹楓」
江戸名所図会に「正燈寺丹楓」が描かれています。
挿絵説明「庭中楓樹最おふくして晩秋の紅錦は海晏寺の園林にも劣る色なく実に一時の奇観たり」
加舎白雄は、正燈寺の紅葉を句に詠んでいます。
「門に入て紅葉かざゝぬ人ぞなき」
小林一茶は、紅葉を見に、正燈寺、海晏寺をそれぞれ訪れています。
「散紅葉流ぬ水は翌のためか」
黄色い質素なライスカレー。