○ 樋口一葉生誕地 (千代田区)
○ 樋口一葉ゆかりの桜木の宿跡(文京区)
○ 樋口一葉菊坂旧居跡 (文京区)
○ 旧伊勢屋質店(菊坂跡見塾)(文京区)
○ 樋口一葉終焉の地 (文京区)
○ 樋口一葉の墓 (杉並区)
○ 樋口一葉文学碑/玉梓乃碑 (台東区)別頁
○ 樋口一葉像まとめ
竜泉と樋口一葉(別頁)
千代田区立内幸町ホールの入口脇の植え込みに「樋口一葉生誕地」の説明板があります。
説明板(平成17(2005)年3月設置)が、令和2(2020)年11月に修繕・再設置されています。
(説明板)
「明治の女流作家 樋口一葉 生誕地 (1872−1896)
樋口一葉、名は奈津。なつ、夏子とも自著した。明治五年三月二十五日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。十四歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。
士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂えた。
文学を志し、明治二十七年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の十四ヵ月と評される。
明治二十九年十一月二十三日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満二十四歳。
(森まゆみ「一葉の四季」より)
「生誕地は、東京府第二大区一小区内幸町一番屋敷(現千代田区内幸町一・五・二)にあった東京府庁の構内長屋とされており、その地域内の一部であるこの地へ平成十七年三月二十五日に建立した生誕記念碑を修繕し再度建立した。」
令和二年十一月
麹町出張所地区連合町会
地域コミュニテイ話性化事業実行委員会」
(参考)「麹町界隈わがまち人物館ウェブサイト」
(以前の説明板)
「明治の女流作家 樋口一葉 生誕地 (1872−1896)
樋口一葉、名は奈津。なつ、夏子とも自著した。明治五年三月二十五日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。十四歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。
士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂えた。
文学を志し、明治二十七年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の十四ヵ月と評される。
明治二十九年十一月二十三日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満二十四歳。
(森まゆみ「一葉の四季」より)
生誕地は、東京府第二大区一小区内幸町一番屋敷(現千代田区内幸町一・五・二)にあった東京府庁の構内長屋とされており、その地域内の一部であるこの地に生誕記念碑を建立した。
平成十七年三月二十五日 麹町出張所地区連合町会
これは麹町出張所地区・地域コミュニテイ話性化事業「祭 江戸サンさん千代田」の一環として建立したものです。」
<樋口一葉ゆかりの桜木の宿跡>
説明板が法真寺の寺号塔の後ろにあります。
「樋口一葉ゆかりの桜木の宿 文京区本郷5-27-11
樋口一葉(1872〜1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・・」
文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
樋口家は、明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳〜9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定していた時代であった。
一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現西方1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向って左手にあった。
文京区教育委員会 平成13年3月」
<樋口一葉 真筆『ゆく雲』草稿>
樋口一葉の真筆『ゆく雲』草稿が銅板に写して石標に掲げられています。
(銘板)
「樋口一葉 真筆
『ゆく雲』 草稿
上杉のとなりは何宗かのお寺様にて、寺内廣々といふほどならねど、桃櫻うゑわたしたれば今日此頃眞さかりの様を、こなたの二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰衣の観音様ぬれ佛にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散こぼれて、前々供へし樒の枝にたまれるもをかしく、下ゆく子守りが向ふはち巻のつむりの上に、しばし宿かせ春のゆくゑと舞くるもみゆ。
一葉の小説『ゆく雲』の野沢青年が寄宿している上杉家の二階からの眺めである。この寺を法真寺と見たてて、一葉の記憶の中にあるわが家の二階からの法真寺の境内の、逝く春の風景と見れば、当時の樋口家のたたずまいも浮んでくる。樋口家には土蔵もついていた。
当時の法真寺は本郷通りに面して山門があり、今の路地がもっと広く参道になっていたのだろう。今でも境内には本堂の軒下に濡れ観音の像がある。黒い鋳物の仏像で、露座で水を掛けるようになっているので濡れ仏というらしい。境内には子安地蔵も立っていて、何代めかの桜も枝をひろげていた。
瀬戸内寂聴
(「炎凍るー樋口一葉の恋」より)」
<桜木の宿跡>
法真寺のHPに「境内地手前の駐車場になっている場所に「桜木の宿」はありました。」とあります。
文京区の説明板では「法真寺に向かって左手にあった」とあります。
駐車場(文京区本郷5-26-1)が桜木の宿跡のようです。
<法真寺会館/社務所>
参道右手に法真寺会館、左手に社務所。
<ハイカラさんの像(麻丘めぐみ像)>
この像、慈愛の泉の碑文にある「らむ」さんなのかなと思いましたが、
らむさんは戦後生まれの方でハイカラ時代は生きていません。
「じゅん散歩」2021年3月2日(火)放送によると、「ハイカラさん」の像とのことで、
旧制一高の人に見初められたい女性がウロウロしていた、麻丘めぐみがモデルになっている像とのこと。
大正時代に「姫カット」が流行ったかはわかりませんが、
彼女のトレードマークだった「姫カット」も忠実に再現されています。
「慈愛の泉
妻らむに捧ぐ
寄贈 米田健三
2016年9月吉日」
「米田らむ(1948.10.11?2014.10.8)
児童劇作家永井麟太郎の娘として東京に生まれる。
衆議院議員を務めた夫を献身的に支え、その魅力的な人柄で人々の敬愛を集めた。
当霊園に眠る。」
<庚申塔など>
慈愛の泉の奥に、庚申塔が2基あります。
<手押し井戸>
慈愛の泉のベンチ横に、手押し井戸。
<腰衣観世音菩薩坐像>
樋口一葉も見ていた像。「ゆく雲」の中で、「腰ごろもの観音さま
濡れ仏」が登場しています。
念仏講中奉納の碑は、明治10年の記銘です。
<一葉塚/樋口一葉幼少の像>
一葉塚に、「樋口一葉幼少の像」があります。
田畑功彫刻研究所の作品です。平成27(2015)年の制作です。
<本殿脇>
本堂脇に石碑が並び、さらに「法然上人像」があります。
一葉会館の前には「テラコッタ」。
<力石>
「四拾五貫目」と刻む力石が転がっています。
<本堂>
本堂の前に、狐像、金剛力士像。
本堂奥右手に、わずかしか見えませんが閻魔像と奪衣婆が祀られています。「江戸東京四十四閻魔」の第十番です。
<子安地蔵尊>
本堂脇に、子安地蔵尊の石碑と、子安地蔵尊が祀られています。
<山門>
本堂の横に山門があります。山号「和順山」の額が掲げられています。
昔は本郷通りに面して山門があり、参道の幅ももっと広かったようです。
本郷通りと春日通りが交わる「本郷三丁目」交差点から本郷通りを東大赤門の方へ70mほど進むと、
、坂道「菊坂」のある「菊坂通り」が北西へ延びています。
本郷四丁目と本郷五丁目の境を下り、言問通りとの交差点「菊坂下」へと至ります。
菊坂通りを本郷通り側から260メートルほど進むと、菊坂の南側に平行して狭い道路があります。
菊坂通りより低く「菊坂下道」と呼ばれます。
菊坂下道と菊坂通りとは、ところどころで階段で繋がれています。
菊坂下道の石畳のあるところから石畳の路地に入ると、樋口一葉が暮らした旧居跡です。
本郷通り側 菊坂下 菊坂下道 一葉旧居跡
「文の京 一葉文学のまち」 文京区本郷5-1
「菊坂通り」に「文京区観光協会 文京区 平成16年11月」設置の樋口一葉の紹介パネルがあります。
「当地ゆかりの文人達」 文京区本郷5丁目
菊坂通りの街灯には、「当地ゆかりの文人達」の紹介プレートが掲げられています。
樋口一葉のプレートです。
(プレート文)
「当地ゆかりの文人達 樋口一葉 明治五年〜明治二十九年
この坂を下って四百米ほど先の左側、石段を下った辺りに一葉が十八歳から二十一歳頃まで暮らした旧居跡があり、当時の井戸も現存している。東大赤門前に父が旗本屋敷を購入し、割と裕福であった生活も父の死後一転ここに引っ越し、他人の洗濯や針仕事で母や妹を養いつつ古典を勉強した。近くには彼女の通った伊勢屋質屋の建物がある。
主な作品は、うもれ木、大つごもり、たけくらべ、行く雲、にごりえ等。これらの作品は平安文学を思わせる優雅で流麗な擬古文体で、封建制度下の人々の悲劇を的確に描写しさりげなく描いている。小説家として一流の名声を得た作家で二十四歳の若さで没したのは外国にも稀であろう。生活の悲惨さが結核を悪化させたものであった。」
○樋口一葉本郷菊坂旧居跡 文京区本郷4-32・31
樋口一葉菊坂旧居跡は次の2か所です(以前掲示されていた文京区教育委員会掲示より)。
・明治23(1890)年9月
本郷菊坂町70番地(現・本郷4-32)に、菊坂下道からの路地左側に移ってきました。
・明治25(1892)年5月
本郷菊坂町69番地(現・本郷4-31)に、菊坂下道からの路地右側の菊坂下道通り沿いに移ってきました。
<ICHIYO HOUSE(一要ハウス)> 文京区本郷4-32-1
最初の旧居跡に、大正時代に建てられた木造三階建アパートが建っています。
一葉一家が暮らした貸家は庭付一戸建てだったようなので、手前のお宅なども旧居宅跡でしょう。
<石畳路地と次の旧居跡> 文京区本郷4-31
次の居宅跡は住居表示の標識の場所のようです。
<文京区防災協定井戸>(樋口一葉ゆかりの井戸)
樋口一葉は、針仕事や洗張で生計を立て、ここにある掘抜井戸の水を汲んで使ったことと思います。
樋口一葉旧居跡のやや北方、菊坂通り沿いに樋口一葉が通ったという旧伊勢屋質店があります。
質店は明治40(1907)年に改築されていますが、土蔵は樋口一葉が通った当時のものが残されています。
現在は、文京区の助成を受け「跡見女子学園」が所有し、週末に公開されています。
入口に公開予定が貼ってあります。跡見女子学園のホームページにも公開予定の案内があります。
文京区指定有形文化財です。
(説明板)
「一葉ゆかりの伊勢屋質店 (本郷5-9-4)
万延元年(1860)、この地で創業し、昭和57年に廃業した。樋口一葉(1872-96))と大へん縁の深い質店であった。
一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年、下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西方1〜17〜8)にもどってからも、伊勢屋との縁は続いた。
一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉との繋がりの深さを物語る。店の部分は、明治40年に改築した。土蔵は、外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。
〜一葉の明治26年5月2日の日記から〜
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。
蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」
<火伏稲荷> 文京区本郷5-8-3
旧伊勢屋質店の近くの菊坂通り沿いにあります。
<文京区防災協定井戸>
旧伊勢屋質店の脇に、手押し井戸があります。
文京区指定史跡「樋口一葉終焉の地」です。
平塚らいてうの筆による記念碑が建っています。
なお、森田草平旧居跡でもあります。
(説明板上段)
「樋口一葉終焉の地 文京区西片一丁目17-8
一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府内幸町(現千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、24年の短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。
明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。一葉はこの家を懐かしみ“桜木の宿”と呼んだ。
父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現本郷四丁目31・32番)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。
終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27(1894)年5月のことである。守喜という鰻屋の離れで、家は六畳と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、“奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。
文京区教育委員会 平成14年9月」
(説明板下段)
「樋口一葉終焉の地 (文京区指定史跡 昭和四十九年十一月)
一葉樋口夏子の碑
花ははやく咲て散がたはやかりけり あやにくに雨風のみつゞきたるに かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参いよいよ転居の事定まる 家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり 守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて さのみふるくもあらず家賃は月三円也 たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ 右一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす
この文学碑は、昭和二十七年九月七日に建てられた。日記以外の表面の文字と裏面の文字は。平塚らいてうの書。裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と興陽社社長笹田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられことが記されている。昭和二十七年八月上旬、世話人岡田八千代、平塚らいてう、幸田文、野田宇太郎 (日記文選定) 、井形卓三 (文京区長) とある。」
「一葉 樋口夏子碑」
日記の一節が樋口一葉の筆跡を写して、2段に刻まれています。
樋口一葉の筆跡が達筆で読めませんが説明板に記載されています。
昭和27(1952)年9月の建碑(碑陰は8月上旬と刻む)です。
<森田草平旧居跡>
森田蔵平(明治14(1881)年3月19日〜昭和24(1949)年12月14日)
森田草平は明治36(1903)年9月に東京帝国大学に入学、暮に転居した先がたまたまですが樋口一葉終焉の家でした。
明治39(1906)年7月、東京帝国大学を卒業し、郷里に戻りますがすぐ上京して元いた樋口一葉終焉の家に入ります。
明治40(1907)に生まれた長女は、樋口一葉の本名にあやかって夏子と名付けられました。
樋口一葉の墓がある「築地本願寺和田堀廟所」(HP:http://www.wadabori.jp/)へ。
(説明板)
「築地本願寺 和田堀廟所
当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立像が本尊として安置されています。
大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災によって、築地本願寺は、地中五十七の子院と共に、焼失しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和十年(一九三五)インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和四年(一九二九)出願が許可され翌五年当地を所有し、地名にちなんで和田堀廟所と名付けました。
一二、○○○坪(三九、六○○平方メートル)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園式墓地として注目されました。
ところが昭和二十年(一九四五)五月二十五日、空襲により建物はことごとく焼失しました。しかし幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。ようやくにして同二十八年、本堂が再建され、更に門信徒会館等が建てられ今日に至っています。
墓地には樋口一葉・九条武子・海音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓があります。また、明暦の大火(一六五七)で焼失した築地本願寺(当時は浜町御坊)の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先三十三名の由来が書かれた石碑も建てられています。
平成二十二年三月 杉並区教育委員会」
<樋口一葉の墓> 杉並区指定史跡(昭和61年3月登録)
現地の墓地案内図には墓の所在地は記されていませんが、
ホームページに「和田堀廟所にご縁の著名人墓地MAP」が掲載されています。
アバウトな地図ですが、参考になりました。
<指標「樋口一葉女史墓所」>
寺務所を通り抜け本堂の横を通過し、桜並木の道へ左に進むと左手に指標があります。
指標「樋口一葉女史墓所 樋口一葉女史墓所入口
最初の通りを右に折れて右側六番目」
指標を左に入りすぐ右に折れて6番目に樋口氏の墓があります。
<樋口一葉の墓>
家紋(横木瓜)の下に「先祖代々之墓」、台石に「樋口氏」と刻まれています。
右側面、裏面、左側面に、樋口一葉と父母兄弟や妹邦子の子女の法名と死去の日付が刻まれています。
一葉の法名は、右側面に「智相院釋妙葉信女 明治二十九年十一月廿三日」と刻まれています。
明治5年3月25日〜明治29年11月23日(1872年5月2日〜1896年11月23日)
・「口絵樋口一葉」(文芸倶楽部第1巻第12編臨時増刊)
・「樋口一葉照影」(現代日本文学全集 第9篇 改造社
昭和6年)
・「仕入れ姿の一葉」(一葉記念館)
・「一葉女史胸像」(山名常人作)
・「樋口一葉胸像」(千束神社)
・「樋口一葉幼少の像」(法真寺)