Discover 江戸旧蹟を歩く

 多摩霊園

  ○ 与謝野寛・晶子墓  11区1種10側14番
  ○ 田山花袋之墓    12区2種31側24番
  ○ 北原白秋墓     10区1種2側6番
  ○ 岡本太郎墓     16区1種17側3番

  ○ 萬霊供養大石燈籠
  ○ 根津嘉一郎二代目墓 15区1種2側10番
  ○ 根津嘉一郎墓    15区1種2側10番

 【別頁】
  ○ 大久保一翁墓    11区1種2側3番
  ○ 石井亮一・筆子の墓  8区2種13側1番
  ○ 養育院合葬冢     5区


○多磨霊園 府中市多磨町4-628

 「著名人」の墓は多いのですが、自分は知らない「著名人」も多いのです。
 自分のホームページで言及した著名人のみの記録です。

  


与謝野寛・晶子墓 11区1種10側14番

 与謝野晶子の短歌は、その土地の温泉文化遺産を踏まえた短歌で教えられること多々でした。
 ヘビースモーカーぶりもうかがえました。
 寛の短歌は晶子ほどには温泉を楽しんでなく晶子を心配する歌が印象に残ります。

 左側が寛(鉄幹)の墓。右側が晶子の墓です。
 与謝野寛の告別式では、北原白秋が弔辞を読んでいます。
 北原白秋の墓も近くにあります。

   

    
 

<歌碑2基>

 墓所入口の左右に歌碑があります。
 「知りがたき こともおほかた知りつくし 今なにを見る 大空を見る 寛」
 「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く 晶子」

   
 

<台座歌>

 大理石の台座の上に晶子の筆でお互いの歌が刻まれ献じられています。
 ・寛の墓前に晶子の歌
  「なには津に 咲く木の花の 道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」
 ・晶子の墓前に寛の歌
  「今日もまた すぎし昔と なりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」

     


田山花袋之墓 12区2種31側24番

 田山花袋の温泉本にはお世話になりました。
 栃木県邑楽郡館林町(群馬県館林市)出身。栃木出身なのか群馬出身なのか微妙と感じます。

 薄ピンクの墓石に、島崎藤村筆「田山花袋墓」と刻まれています。

 裏面は田山花袋の戒名が刻まれているようですが読みとれません。
 墓所左側に「田山家之墓」が建っています。

    

    

    


北原白秋墓 10区1種2側6番

 北原白秋のかんぴょうの歌が衝撃的でした。
 「北原白秋墓」と左隣りに「北原家墓」が並んで建っています。

   

    


岡本太郎墓 16区1種17側3番

 岡本太郎はパートナーであった岡本敏子と一緒、父一平、母かの子と同じ墓地に眠っています。
 川端康成による追悼碑が建っています。

   
 

<岡本家の墓と川端康成>

(碑文)
「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私になつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりひとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。
 一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、天婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。
 この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互を高く生かし合いながら、お互が高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。
 古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。
  川端康成  「母の手紙」序より」
 
   
 

「岡本一平」「岡本かの子」の墓

    
 

 「岡本かの子肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
   明治22(1889)年3月1日〜昭和14(1939)年2月18日

     
 

「岡本太郎 敏子」の墓

 岡本太郎 明治44(1911)年2月26日〜平成8(1996)年1月7日)
 岡本敏子 大正15(1926)年1月1日〜平成17(2005)年4月20日)

     
 

(参考)
 ・岡本太郎は草津温泉の湯畑をデザインしています(こちらで記載)。
 ・岡本太郎作品「若い時計台」が銀座数寄屋橋公園にあります(こちらで記載)。


萬霊供養大石燈籠(根津嘉一郎)

 根津嘉一郎氏(1860-1940)の寄進による高さ12メートル程の大きな石燈籠です。
 燈籠のすぐ近くに、根津嘉一郎氏と根津嘉一郎氏(2代目)の墓所があります。

 「萬霊供養 増上寺徹水拝書」
 「寄進人 故 根津嘉一郎
  相続人 根津藤太郎」
 「昭和十五年六月建之」
 「根津家工事監督 松崎金太郎」

、「増上寺徹水」は増上寺81代法主の大島徹水氏です。
 「根津藤太郎」は二代目根津嘉一郎氏の幼名です。
 「松崎金太郎」は嘉一郎氏(初代)の庭園を手掛けた造園家です。

    

     


根津嘉一郎二代目墓所 15区1種2側10番

 根津嘉一郎の長男である2代目根津嘉一郎(幼名は藤太郎)は、東武鉄道の社長を53年間務めました。
 墓所は大きな敷地ですが、隣地の先代の墓石に比べ小さめの墓石です。

    


根津嘉一郎墓所 15区1種2側10番

 大きな五輪塔の墓石です。
 五輪塔の「地輪」の横に、
 「根津嘉一郎
  昭和十五年一月四日寂」と刻まれています。

   

    
 

【略歴】
 根津嘉一郎(ねづかいちろう 1860-1940)
 株式投資で財をなし、東京馬車鉄道、東京電灯、東京瓦斯などの大株主として経営に参画。
 明治37(1904)年、衆議院議員(当選4回)。
 明治38年業績不振だった東武鉄道の社長に就任、経営を好転させ大企業に発展させたほか、
 沿線の日清製粉、上毛モスリンなどの経営にも関与しました。
 大正10(1921)年根津育英会を創設し、同会の寄付で武蔵高等学校を設立。
 (渋沢栄一団長の渡米実業団に選ばれ、ロックフェラーの社会貢献の姿勢に大いに啓発されたようです。)
 美術品収集家としても著名で、没後に根津美術館が設立されました。
 

<銅像>

 栃木の鬼怒川温泉神社に銅像があります。

  
 

<根津嘉一郎 衆議院便覧より>

  
 

【渋沢栄一団長 渡米実業団】

 明治42(1909)年、渋沢栄一が渡米実業団団長となり、民間人56名に通訳・婦人等を加えた一行を率いて、
 3ヶ間にわたり、米国各地で政治・経済・社会福祉・教育など多方面の施設を見学しました。
 大統領ウィリアム・タフト、トーマス・エジソン、ジェームズ・ヒル、ロックフェラーなど
 各界実力者とも面談・対面しました。
 根津嘉一郎は団員に選ばれ渋沢栄一団長と訪米しています。


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