○ 国史跡 江戸城外堀跡
溜池櫓台(虎の門三井ビル)
○ 文部科学省構内の石垣 (文部科学省)
○ 史跡 江戸城外堀跡
地下展示室(虎ノ門駅)
○ 旧国立教育会館の石垣 (霞ヶ関コモンゲート)
○ 工部大学校阯碑 (霞ヶ関コモンゲート)
○ 外務省の石垣 (外務省)
○ 江戸歴史散歩コーナー (メトロ市ヶ谷駅)
○ 日比谷セントラルビル緑地 (西新橋)
○ 数寄屋橋の碑 (銀座)
(説明板)
「この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。この地域の堀は明治時代に埋められましたが、これらの石垣によってかつての外堀をしのぶことができます。
江戸城外張りの隅櫓は、このほかに筋違橋門と浅草橋門だけにあり、唯一この石垣だけが現存しています。これらの櫓は、江戸の南北を貫通する主要道に面しており、特に2つの櫓を置くこの地域は、江戸初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にあたります。この石垣は、江戸城防備の要衝とともに、都市政策上も重要な地域であったことを示しています。
平成21年 文化庁 千代田区
江戸城外堀跡は、寛永13年(1636)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠のうち、史跡指定された約4kmの範囲です。この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。
千代田区・港区・新宿区では、史跡江戸城外堀跡の保存・整備活用を共同で推進しています。」
史跡
江戸城外堀跡石垣の保存・展示
(文部科学省 石垣の保存・展示のページの説明)
「文部科学省構内に残る石垣は、江戸城を取り巻く外堀の一部で、
寛永13年(1636)に江戸幕府が全国の大名を動員して築いたものです。
今回、中央合同庁舎7号館の建設にともなう発掘調査成果をもとに
石垣を保存し、文部科学省構内ラウンジ前と地下鉄銀座線虎ノ門駅の新庁舎連絡通路内に
発掘された石垣の全貌が見える展示コーナーを設けました。
多くの皆様にご覧いただければ幸いです。」
虎ノ門駅11番出口の地上へのエスカレーター手前です。
左側の壁に【史跡 江戸城外堀跡 地下展示室】があります。
<国立教育会館>
(説明プレート)
)「教育関係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためには、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和39年6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。
その後、行政改革により特殊法人国立教育会館は平成13年4月1日に解散となった。
この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。」
○工部大学校阯碑 千代田区霞が関3-2-1 霞ヶ関コモンゲート西館
コンドルは、工部大学校の建築学教授として来日しています。
辰野金吾は、明治17(1884)年、コンドルの退官後、工部大学校教授に就任しました。
(説明板)
「工部大学校阯碑
千代田区指定有形文化財
1993年(平成5年)4月1日指定
1873年(明治6年)、この地に工業分野における人材育成を目的とした工学校(工学寮内に設置)が開校します。1877年(明治10年)には、工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師に依って教授されました。
1866年に帝国大学と合併し、本郷(現在の文京区)に移転します。跡地は、帝室博物館などに使用されますが、1923年(大正12年)関東大震災で建物は倒壊してしまいました。
そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、1939年(昭和14年)に「工部大学校阯碑」を建設しました。この碑は、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所とともに、関東大震災による被災の歴史を伝えています。
千代田区」
「虎乃門夕景」(小林清親)
明治初期の虎の門の光景で、工部大学校が描かれています。石垣が見えます。
「虎ノ門工部大学校」(井上安治)
虎ノ門の光景として工部大学校が描かれています。石垣が見えます。
黒田家の上屋敷の長屋の石垣が、外務省に残っています。
2枚目は、「東京府史蹟」(東京府編 洪洋社 大正8)外務省の長屋より抜粋。
石垣だけきれいに残っています。
外務省の中には、陸奥宗光の像があります。
陸奥宗光の業績を讃え、各界の基金により1907(明治40)年、外務省内に銅像が建立されました。
しかし1943(昭和18)年、戦時金属回収により供出されました。
その後、同外相の没後70周年に当たる1966(昭和41)年に再建されています。
「外務省」(明治大正建築写真聚覧 建築学会編 昭和11年)
建築学会の写真に、旧陸奥宗光像が写っています。2枚目は拡大です。
「故伯爵陸奥宗光公銅像」(京浜所在銅像写真 人見幾三郎 諏訪堂 明治43年5月)
刻印、矢穴が盛りだくさんの石垣です。
雉子橋から出土した雉子橋門橋台石垣が再現されています。
(説明板)
「江戸城の石垣
雉子橋(千代田区九段西)から出土した石材を使って、江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法を再現したものである。
当時、石を割るには、割りやすいように石の目にそって石切ノミで「矢穴」を掘り、これに「矢」と呼ばれる楔とその両面に「せりがね」と呼ばれる薄い鉄板を差し込み、「玄翁」で矢を叩いて割った(右図)。石材には切り出し地、石積みを行った藩や石工等の刻印と共に石割の際の矢穴が残っている。」
石垣の一部と説明プレートがあります。
(プレート文)
「江戸時代のこの通りは、江戸城の外濠に面し、河岸通りと呼ばれ、当時赤坂・青山あたりから日本橋の魚河岸にかけて、往還の賑わいのあった所です。
こに積まれている石は、寛永十三年(1636年)三代将軍徳川家光が多くの大名の助役によって、江戸城外郭の南側(虎ノ門の東)を築造するとき使用したもので、物産ビル別館増築工事の際地下四メートル余のところから発掘されたものです。
この附近の石垣は
立花宗茂(柳川)
稲葉一通(臼杵)
有馬直純(久留米)
毛利高直(佐伯)等
九州各地の諸大名に割り当てられ、石材は真鶴や根府川あたりから切り出し、海路を運ばせたもので、石面の符号はその折石工が彫りつけたといわれております。
なお、世田谷の馬事公苑には、昭和三十九年のオリンピック(馬術競技)開催の記念碑として石垣の原型が残されております。
昭和五十八年六月吉日 港区西新橋一丁目第一町会」
碑文には「見附の城門枡形は維新の際に撤去され」とありますが、
数寄屋橋の枡形の石は、日比谷公園の桜門、霞門の柱に転用され残っています。
(碑文)
「寛永六年(西暦一六二九年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった 橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た 近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった
爾来三十年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し こヽは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした
一九五九年四月 数寄屋橋公園美化協力会」
夜は様々な色で光っています。
友好の木イニシアチブとは、1912年に日本から米国に桜の苗木3000本が寄贈されてから
100周年を記念し、米国から日本に3000本のハナミズキが贈られました。
2012年秋にまず東京で植樹した後、2015年にかけて日本各地で植樹されました。
「東京名所三十六戯撰 数寄屋河岸」(昇齋一景)
明治初期の数寄屋河岸の料理店の光景です。