○ 松平定信の寛政の改革「七分積金」と養育院
○ 長谷部善七「浅草溜」と養育院
○ 大久保一翁と養育院
○ 護国院
○ 養育院義葬の冢 大雄寺
○ 東京等養育院慰霊碑 了ゴン寺
○ 東京都養育院合葬碑 塩原妙雲寺
○ 養育院合葬冢 多磨霊園
老中松平定信は、寛政の改革の中の1つに、町役人の仕事を簡素化し、削減した経費のうち、
一分は町内臨時費用に、二分は地主の増収に、そして七分を非常時の積立金とする「七分積金」
という積立金制度をつくりました。
七分積立金は、貧困対策や災害等の救済活動などに利用されました。
この七分積立金は東京府及び東京市に引き継がれ、都市整備の費用に充てられました。
渋沢栄一(七分積立金を管理する立場にありました)は、この積立金の一部から養育院を作りました。
霊厳寺に墓所があります。
<松平定信自画像>
東京都健康長寿医療センターの養育院・渋沢記念コーナーに展示されています。
<松平定信の心願書と渋沢栄一の讃>
東京都健康長寿医療センターの養育院・渋沢記念コーナーに展示されています。
養育院長室に長く飾られていました。
<雲厳寺墓所>
国指定史跡「松平定信墓」。松田定信夫人の立派な墓もあります。
こちらで記述済
【旧加賀藩上屋敷長屋】
明治5(1872)年10月、ロシア帝国アレクセイ大公の来日に際し、東京府庁は長谷部善七に窮民を駆集させ、
10月15日、旧加賀藩上屋敷の空長屋に仮収容し、取り扱いは長谷部善七にまかされ、
「営繕会議所付属養育院」と命名されました。
非人頭車善七は、解放令が発せられ「長谷部善七」と名乗っていました。
【浅草溜】
明治5(1872)年10月19日、仮収容されていた収容者は、浅草溜に移され長谷部善七に預けられました。
費用は営繕会議所より支出されました。
営繕会議所は東京会議所と改称しましたが、この収容所は引き続き所管することとなります。
旧加賀藩上屋敷の長屋は、東京会議所の事務所として使用されました。
【護国院】
営繕会議所(明治5年に東京会議所と改称)は、上野護国院のなかに建物附の土地を求め,
それを修繕しあるいは建増を行って、明治6(1873)年2月に養育院建物が完成します。
現在の東京芸術大学の場所に当ります。
明治6年2月4日に浅草溜より上野へ140人が移されました。重病のため移せなかった者は浅草溜に残りました。
【移転】
明治12(1879)年10月、元藤堂藩上屋敷(千代田区神田和泉町1番地)に移転します。
その後、本所長岡、大塚の移転を経て、大正12(1923)年に現在の板橋区栄町に移転しました。
(参考)
・旧加賀藩上屋敷長屋については、こちらで記載
・浅草溜については、こちらで記載
<大久保一翁(忠寛)>
【経歴】
1818〜1888年。安政元(1854)年、老中阿部正弘に登用され、目付兼海防掛となる。
以後、蕃書調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などをつとめる。
家斉、家慶、家定、家茂、慶喜、家達の6人の徳川家当主に仕えました。
安政の大獄で井伊直弼により罷免されますが、文久元(1861)年再び登用され、蕃書調所頭取、
外国奉行などを経て、明治元(1868)年会計総裁、若年寄となる。江戸城の無血開城実現に寄与。
のち静岡県知事、東京府知事、元老院議官等を歴任しました。
【七分積金と養育院創設】
東京府知事に任命された3年半の在職期間中に、幕府から引き継がれた町会所を営繕会議所に改組し、
松平定信以来の七分積金の用途を営繕会議所に諮問、都市基盤の整備、「救貧三策」などの答申を得ました。
救貧三策の一策として、養育院が創設されました。上野の護国院の開所時には一翁自身が訪れています。
直接西洋を訪問したわけではありませんが、蕃書(洋書)を見て養育院を構想したようです。
【養育院掟書初款】
明治6年、養育院を恒久施設として上野に開所した時、大久保一翁府知事が視察後に書き加えました。
「人の万物に勝れたるは 相親しみ相助くるの 心あるゆえなれば
常に我が身に費やす衣食住の 世の恵みにむくわんと心がけ
何業なりとも 世のためとなるべきこと 勤めて怠るまじき事」
東京都健康長寿医療センターの養育院・渋沢記念コーナーに展示されています。
【辞世】
「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の恥ずかしきかな」
【大久保一翁】
【近世名士写真頒布会 昭10 引用】
○大久保一翁墓 府中市多磨町4-628 多磨霊園11区1種2側3番
大久保一翁の墓は、都市計画により昭和12年年10月に青山墓地より改葬されています。
<石燈籠>
墓所入口に「故元老院議官従二位勲二等子爵一翁大久保翁零前石燈籠」
<一翁忠寛之墓>
墓所には墓が5基あり、大久保一翁の墓は正面中央です。
上部「大久保氏墓」
正面「一翁忠寛之墓」と刻まれ、「勝海舟の書」。
右に生没年月日が刻まれています。(二千五百四十八年と紀元での表記)
<4基の墓>
左側に左から「大久保谷子墓」「大久保業世廣墓」。
左手側に「大久保家之墓」。その左に墓誌。
右側に古い墓誌。
右手側に「大久保立 幾子 墓」。
護国院は、寛永寺の子院の中では最も古く、生順僧正により寛永寺釈迦堂の別当として開基されました。
寛永2(1625)年に建立された寛永寺最初の子院です。
本堂は寛永寺の釈迦堂として建てられ、享保2年(1717年)に焼失、享保7年(1722)に再建されたものです。
何度か移転を繰り返しましたが、昭和2(1927)年の移転を機に釈迦堂を護国院の本堂としています。
昭和2(1927)年に、現在の都立上野高校の創立にあたって境内地の大半を売却しています。
上野公園界隈にしては珍しく、本堂は災害、戦火にも耐えて焼け残っています。
かつて存在した養育院の痕跡は全くありません。
渋沢栄一の先妻千代の葬儀は、護国院で執り行われています。
明治15(1882)年7月14日、コレラに罹患し病没。享年42。墓は谷中霊園の栄一墓の隣です。
(説明板)
「護国院
護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手裏に開創した。承応二年(一六五三)・延宝八年(一六八○)に寺地を西方へ移転し、さらに、宝永六年(一七○九)現在地に移った。延宝八年・宝永六年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和二年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。
現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保七年(一七二二)三月の再建。間口七間(十八・二メートル)、奥行五間(十三・六メートル)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。
庫裏の一階部分は、昭和二年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成十三年、国登録有形文化財に指定された。
岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山一郎邸(大正十三年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
平成十四年三月 台東区教育委員会」
「江戸名所図会 正月三日 大黒詣」
江戸名所図会に、正月の大黒詣が描かれています。
「毎歳正月三日は都下の諸人東叡山護国院の大黒天へもうづ。此御影は土佐の信実筆なり。世に霊験著し。
此日供物の鏡餅を湯にひたして参詣の輩にあたふ。俗是を呼んで御福の湯といふ」
<大黒天など>
手水舎の先に、大黒天が4面に彫られた石柱があります。
石燈籠の大きな台石が残ります。
<護国院庫裏> 国登録有形文化財
谷中の行列のできる喫茶店「カヤバ珈琲」のすぐ近くに大雄寺があります。
<旧町名由来案内 旧谷中町>
寺入口に「旧町名由来案内 旧谷中町」が設置されています。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 谷中町
元禄年間(一六八八〜一七○三)町屋の区域が武蔵國豊島郡谷中村より独立して、谷中町として起立した。
谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)と本郷台の谷間に位置していることにちなみ、下谷に対してつけられたといわれている。
本町の江戸時代の町屋は、言問通り面(八軒町)と天王寺へ行く通りの面(総持院門前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺(だいおうじ)をはじめとする寺地が合併されて町域が定まった。
大雄寺には、勝海舟、山岡鉄舟とともに「維新の三舟」といわれた高橋泥舟が「大くすの木」の下に眠っている。この大くすの木は、東京都の保存樹木に指定されている。 台東区」
「江戸切絵図」
江戸切絵図に記載されています。
境内には樹齢300年とも言われる大きな楠と、
その下には幕末の三舟の1人、槍の名手であった高橋泥舟の墓があります。
(幕末の三舟:勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)。
楠裏に「養育院義葬のモウ」が建っています。
大雄寺は養育院設立時、物故者のうち引き取り手のない遺骨の埋葬と回向を引き受けていました。
(説明板)
「養育院義葬の冢
養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治六年中の埋葬者は百名と伝えられ、寺内の一角に義葬之モウ」がある。この義葬之モウは養育院創立当時の唯一の遺構である。
なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了ゴン寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。 大雄寺
(冢は、くすのき手前左奥←突きあり右→にあります。)」
<養育院義葬の冢>
<保存樹 くすのき>
<高橋泥舟の墓>
(説明板)
「高橋泥舟墓
台東区谷中六丁目一番二十六号 大雄寺
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保六年(一八三五)二月十七日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、二十一歳で幕府講武所教授、二十五歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。
佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(一八六二)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌三年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱いとなったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年十二月師範役に復職し、慶應三年(一八六七)遊撃隊頭取となる。
翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治三十六年二月十三日没。
勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。
平成十六年三月 台東区教育委員会」
<燈台守 勝承夫>
勝承夫氏作詞の唱歌。作詞者の遺族が昭和57年に歌碑を建てられたようです。
<石碑>
了ゴン寺の墓地は、境内墓地と隣接する谷中墓地とに分散しています。
谷中墓地の一角、谷中霊園ぎんなん通り沿に了ゴン寺の墓地があり、「東京都養育院慰霊碑」があります。
<東京都養育院慰霊碑>
(説明板)
「東京都養育院慰霊碑
養育院は、明治五(一八七二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
ここ了ゴン寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。
ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
平成二十二年(二千十)四月
養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。 了ゴン寺」
<慰霊碑>
「慰霊碑
明治六年末から
大正二年十二月まで
三千七百六十二名
合葬
東京都養育院」
「昭和六十三年三月建立」(裏面)
<養育院義葬之墓>
「明治十二年三月建之」
<東京市養育院義葬>
明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5基並んでいます。
○正四位勲三等文學博士中村正直墓(都指定旧跡)
ぎんなん通り沿いの了ゴン寺墓地にひときわ大きな墓碑があります。
「正四位勲三等文學博士中村正直墓」で、訓盲院の開設に尽力しました。
(説明板)
「中村正直墓(都指定旧跡)
明治時代の教育者、啓蒙学者。天保三年(一八三二)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応二年(一八六六)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
明治五年(一八七二)、新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現、お茶ノ水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
明治二十四年六月七日、六十歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に務め、日本近代化に貢献した。
訳著書に『西国立志編』『自由之理』などがある。
平成七年三月 台東区教育委員会」
戦時中の疎開先が塩原でした。妙雲寺に「東京都養育院合葬碑」があります。
碑文には、
「昭和十九年七月太平洋戦争終局に近く疎開の為栃木分院開設同二十七年七月閉院迄の間
不幸二豎に侵され、此の地に永眠せる者五八一人 洵に哀悼の念に堪えず
今平和復するも逝く者復還らず、茲に碑を建て永く諸霊の冥福を祈る
昭和二十八年春 東京都養育院」
平成22年7月の新しい碑が建っています。後に1名を合葬し、582人が眠っています。
<塩原疎開>
5区の無縁墓地に「養育院合葬冢」があります。
(説明板)
「養育院合葬冢
養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)
である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了ゴン寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。
ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
東京都福祉保健局
ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。」
<歸入無為楽>
「東京市養育院合葬冢」
「歸入無為楽」
「昭和五年三月 成」
裏に五基の合葬冢があります。
「東京市養育院合葬墓」「東京市養育院収容者之碑」二基
左から明治42年2月と大正8年11月の建碑です。
「東京市養育院収容者之碑」三基
左から大正15年3月、昭和3年3月、大正12年10月の建碑です。