○ 浅草ひさご通り
○ 凌雲閣(浅草12階)
浅草千束通り
○ 浅草千束通り
○ 猿之助横町碑
○ 浅草非人頭車善七/半助地蔵
○ 浅草溜
「浅草ひさご通り」は、浅草六区から言問通りまで、180mのアーケード商店街です。
ひさご(瓢)とは、かつて浅草公園にあったひょうたん(瓢箪)池が名称の由来です。
(浅草ひさご通り商店街HP)
古くは浅草寺から吉原遊郭へ通ずる沿道として、
関東大震災前は凌雲閣(十二階)下の「米久通り」として繁栄しました。
浅草ひさご通り→千束通り→地方橋通り→今吉柳通り→東京都人権プラザ分館(2018/3/31閉館)と連なります。
ひさご通り 言問通り側 米久 花やしき
◇凌雲閣があった場所
以下の情報によれば、凌雲閣があった場所は、
浅草公園五区千束二丁目三十八番地(現在:台東区浅草2-13-10)
浅草ひさご通りの米久の脇を入ったところの最初の十字路。
凌雲閣記念碑のあるパチンコ店「サンシャイン浅草」の北西50mのところです。
<浅草公園町会建札>
「WINS浅草」(台東区浅草2-9-8)にある浅草公園町会建札の凌雲閣の説明です。
「凌雲閣、通称十二階の名で知られ、明治二十三年(一八九〇)に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲閣は、東京市民驚嘆の的であった。凌雲閣は今の浅草東映から西北約五十メートルの地点にあった。(浅草公園五区、千束二丁目三十八番地)設計者はイギリス人WK・バートン氏。高さ約六十メートル、一階から十階までが煉瓦積みで、十一階と十二階それに屋根は木造であった。八角形の塔状で八階まで日本最初の昇降装置があり、明治二十三年十一月十日に開業した。
浅草の文明開化の金字塔であった東京名物凌雲閣も、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災で八階から二つに折れ取りこわされてしまった。
昭和五十二年十月 浅草公園町会建札」
<旧町名解説>
台東区役所の旧町名解説によると、
「浅草千束二丁目には、明治・大正の東京人に親しまれた凌雲閣、通称十二階があった。
その位置は、現在の浅草二丁目十三番北隅にあたる。近くに凌雲閣の碑がある。」
<昔の位置図>(国立国会図書館資料より)
<凌雲閣記念碑>
パチンコ店「サンシャイン浅草店」(台東区浅草2-14-5)に
「凌雲閣記念碑」(凌雲閣史蹟保存の会)があります。
「11月27日に完成」とありますが、開業は予定日の11月10日がずれて11月11日。
「台東区浅草2丁目14番5号辺りに」とありますが、跡地は台東区浅草2-13-10です。
「辺り」と記載しているので、間違いではありません。
「その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します」とありますが
当時の地図を見ると、ここから北西の凌雲閣に向かう道が記されています。
運営会社の敷地だったとは思いますが、跡地ではありません。
「1890年(明治23年)11月27日。この地、台東区浅草二丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:十二階)が完成。設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトンが担当。当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒をつらねた。最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めたとされる。観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。
明治・大正の33年間、多くの人達にときめきと感動をあたえ、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。 凌雲閣史蹟保存の会」
<田山花袋>
「一日の行楽」(田山花袋)で、「浅草十二階の眺望」として記述しています。
眺望の良さとして「浅草十二階」「道灌山」「三越の屋上」を挙げています。
<十二階下>
浅草十二階下の一帯は銘酒屋街となっており、私娼窟と化していました。
文学者達も多く通いました。
芥川龍之介、石川啄木、江戸川乱歩、川端康成、北原白秋、高村光太郎、谷崎潤一郎、永井荷風、室生犀星等々。
石川啄木は「地上の仙境」と記しています。
ひさご通りから言問通りを越え、吉原方面に向かい土手通りに至る約1200mに及ぶ商店街となっています。
(浅草千束通り商店街HP)
以前設置されていた台東区浅草3-39-10から、道路反対側(浅草3-16-1)に移設されています。
猿之助横町は台東区浅草3丁目16番と39番の間の西に進む路地です。
2代目市川猿之助の猿翁(明治21(1888)年5月10日〜昭和38(1963)年6月12日)は、
浅草で生まれ、浅草で育ちました。
この辺りは猿之助が住んでいたことから猿之助横町と呼ばれるようになりました。
昭和36(1961)年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて
「猿之助横丁碑」が浅草観光連盟の人々によって戦災で焼失したものが再建されたものです。
ここには説明板はありませんが、浅草神社の猿翁句碑に説明板があります。
【以前の設置場所】
【現在の設置場所】
<「猿之助支」電信柱>
猿之助の名称が電信柱に残っています。「猿之助支1」「猿之助支2」
浅草神社境内はいってすぐ左手に市川猿翁の句碑があります。
「翁の文字 まだ身にそはず 衣がへ 猿翁」
(説明板)
「初代 市川猿翁句碑
「翁の文字まだ身にそはず 衣がえ」 猿翁
建碑 昭和四十二年五月十七日
撰文 市川猿翁
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。昭和三十八年五月、歌舞伎座に於て襲名興行。(浅草寺の襲名お練りは四月十六日)『猿翁』(昭和三十九年六月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和三十七年五月猿翁襲名のとき」とある。
明治二十一年五月十日、浅草千束町二丁目に生れる。父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助ー段四郎)、母古登の長男。(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治四十三年十月(二十二才)で、二代目市川猿之助を襲名。昭和三十八年六月聖路加病院(心不全)にて死去。享年七十五才。
昭和三十六年三月二十八日浅草三丁目三十九番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。
浅草観光連盟」
<半助地蔵> 台東区浅草4-22-2
浅草留の唯一の痕跡かと思います。
「浅草4丁目22番2号浅草中町会会館の角にある。由来は、今を去ること、200余年前、享保〜宝暦の頃、江戸中期より末期にかけて、江戸傳馬町の牢に在った囚人の内、疾病に罹かった者を、時の奉行が、当時囚人溜として有名だった浅草溜(武蔵國豊島群千束郷にあり、即ちここの近傍)に護送した。古老が語り継いだところによると、傳馬町より疾囚人を畚(もっこ)に乗せ、浅草施無畏橋(ひさご通り)へ搬送した。そこから浅草溜に至る迄は、どんな病人であっても必ず歩かせた。
この近くに半助と称する名主がいた。資性は温情淳朴で、身を尽くしてこれら囚人を保護看病したため、多くの囚人は慈父のように慕い、恰も暗夜に光明を得たるが如く感泣した。後年、半助老人が死没するや、囚人たちの慟哭その極に達し、慈悲の深かったことに報いんと、心を合わせて一体の地蔵尊を彫み、これを祀って朝夕香煙を捧げ掌を合わせて敬慕したという。このように有様だったので以来、常に香華の絶えることはなかった。後世、これを半助地蔵尊と名付けて参詣者極めて多く、特に疫病除災に効顕新たかだと伝えられている。按ずるに今日の免囚保護事業の魁けともいうべく、また以てこの町の誇りとするところだ。(以下略)」
(「地名の由来東京23区辞典 台東区の地名の由来 半助地蔵」より引用)
「溜」は病囚と幼囚(15歳未満)の施設で、
「浅草溜」は千束小学校の北にあり、非人頭の車善七が管理していました。
現在の日本では、刑法に触れる行為は犯罪行為ですが、14歳未満は犯罪行為ではなく、
触法行為で、児童福祉の対象です。
江戸時代は15歳未満は、成人と別の対応、15歳になって島流しまでの間の預かりだったようです。
車善七役所と住居、手下の居宅は、新吉原のお歯黒どぶ沿いにあり、
預かり女囚の「女溜」は善七の囲内におかれていました。
江戸切絵図を見ると羅生門河岸寄りの吉原遊郭裏のおはぐろどぶの外に
車善七の居所と役所、手下の住居、預かり女囚人の溜が描かれています。
渋沢栄一が院長を務めた東京都養育院の歴史と密接にからみます。