○ 三の輪橋
○ 日本堤橋
○ 地方橋
○ 地方新橋
○ 紙洗橋
○ 山谷堀橋
○ 正法寺橋
○ 吉野橋
○ 聖天橋
○ 今戸橋
○ 山谷堀広場
○ 山谷堀水門
8カ所の親柱が残っていて、うち3カ所の親柱には来歴がありました(過去形)。
山谷堀公園改造工事(第1〜2期)2018年3月竣工により、
地方橋から吉野橋まで、親柱がなくなって、新しい石におきかわっています。
山谷堀公園の説明板には「橋台のみが昔の面影を残している。」と説明しているのに、
昔の面影がなくなってしまいました。
新しい石に来歴がはめこまれているので、元々の親柱は廃棄されたかな。
足立区郷土博物館の千住新橋の親柱が移設されて保存されているように、移設されたとは思えない。
第3期の改造工事が、聖天橋から今戸橋まで、2019年度に始まりますが、ここもまた
親柱が廃棄されてしまうことと思います。
以下は、既に撤去された親柱の記録です。
音無川は、三ノ輪橋を経て、思川と山谷堀に分かれます(現在は暗渠)。
荒川区、台東区の両方にモニュメントがあります。
慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。
<三ノ輪橋(音無川)>あらかわの史跡・文化財 荒川区南千住2-1
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
三ノ輪橋(音無川)
三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交叉するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約十メートル)、幅三間(約六メートル)であったという。
音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡、そして現日光街道を横切り、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所名として残されている。
荒川区教育委員会 台東区教育委員会」
(標柱)
「三の輪橋(みのわばし)
かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となったため三の輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。
平成18年3月 台東区教育委員会」
<音無川と日本堤>(荒川区教育委員会) 浄閑寺前
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
音無川と日本堤
音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水として使われていた。
音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重
の『名所江戸百景 』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。
荒川区教育委員会」
「江戸切絵図」
江戸切絵図に描かれている音無川と浄閑寺です。
<かつての川筋>
公衆トイレの左の道が音無川跡、右の道が日本堤跡。
三ノ輪児童遊園に、三ノ輪町の由来案内があります。
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 三ノ輪町
三ノ輪という地名は古く、江戸時代以前からあった。この地は、奥東京湾に突き出た台地の先端部であることから水の鼻(みずのはな)といわれ、これがいつしか三ノ輪になったといわれる。
延享二年(一七四五)、隅田川の宿場として形成した三ノ輪村原宿が原宿町として独立した。そして明治三年に下谷原宿町となり、同二十四年、下谷原宿町と三ノ輪村が合併して、旧三ノ輪町が誕生した。
昭和初年まで、今は無い音無川にかかる三ノ輪橋があった。慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けた。今でも都電の停留所(荒川区)に、その名が残っている。」
2007(平成19)年に、レトロにリニューアルされています。
看板がレトロ。
2018(平成30)年10月、案内所「三ノ輪橋おもいで館」(東京都交通局)開設。
「墨東綺譚」(永井荷風)によれば、日本堤橋は、吉原大門前と記されています。
「墨東綺譚」(永井荷風)
「古本屋の店は、山谷堀の流が地下の暗渠に接続するあたりから、大門前日本堤橋のたもとへ出やうとする薄暗い裏通りにある。裏道は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、こなたは土管、地瓦、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示してゐるが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気な子家がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などといふ橋の灯がわづかに道を照らすばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯をつけてゐる家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらゐのものであらう。」
土手通りと花園通りのT字路のところに昔は道が突き抜けていて日本堤橋があったと想像しましたが、
永井荷風は吉原大門前と記述しており、ここは違うようです?橋の跡の痕跡がありますが?
小平市下水道課の下水道文化にまつわる講話「江戸の下水道」(公開終了)から抜粋します。
「 江戸の町は、現在の東京からは想像もできないほどのたくさんの堀や川が流れ、
これらが下水道幹線の役割を果たしていました。
現在の下水道との関連をみると、たとえば、王子(現・北区)付近で石神井川から分岐し、
中里(現・北区)・尾久・日暮里(現・荒川区)・根岸(現・台東区)を経て、三の輪(現・台東区)で
山谷堀と思川とに分かれていた「音無川」の跡は、日暮里付近から三の輪付近までが
「音無川幹線」になっています。
三の輪付近で「分水堰」を超えた下水は、「山谷堀上流」跡につくられた「雨水渠」を通じて、
日本堤ポンプ所へ入ります。日本堤ポンプ所には、「浅草新堀川」跡につくられた
「元浅草幹線(雨水渠)」からの下水も入ってきます。
日本堤ポンプ所から排水された下水は、「山谷堀下流」の跡につくられた「雨水渠」を通って
隅田川に流し出されます。
「分水堰」を超えない下水は、南千住(荒川区)付近から三河島処理場に繋がる幹線に合流して、
三河島処理場で処理された後、隅田川に放流されます。」
地方橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
一 起工 昭和四年四月
一 竣工 昭和四年八月
一 工費 弐萬四百圓
東京市
地面から突き出たコンクリートのマンホールが間隔を置いて続いています。
<弐の湯> 台東区浅草5-72-2
銭湯です。2018年12月31日閉店。銭湯がどんどん閉店していく。
紙洗橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
一 起工 昭和四年七月
一 竣功 昭和四年九月
一 工費 壱萬弐千圓
東京市
<ひやかし>
山谷堀周辺では浅草紙が生産されており、鼻紙や落とし紙として使用されました。
山谷堀は「ひやかし」(紙漉きの工程)に使われました。
「嬉遊笑覧」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)によれば(第9巻に記載)、
「山谷にはすきかえしの紙を製する者多くそれが方言に紙のたねを水に漬けおきそのひやくる迄に
廓中のにぎはひを見物して帰るより出たる詞といへりいかがあらん」と記されています。
「ひやかし」の間、待ち時間に職人が近くの吉原を見物しに行き、
登楼することはなく、「ひやかし」の言葉が生まれました。
山谷堀公園右岸に地蔵が祀られています。
紙洗橋交差点のすぐそば。ビルとビルの間の狭い隙間です。
小西半右衛門が夢のお告げによりこの稲荷を祀ったとのこと。
1853年の地図『今戸箕輪浅草繪圖』中、
浅草田町一丁目と二町目の境に「袖スリイナリ」と記されています。
正岡子規「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」の碑が
紙洗橋と山谷堀橋との間の山谷堀橋近くにあります。
【背面】
平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟
一茎会 こずゑ会 友の会 建立
正岡子規の句に「豁然と牡丹伐りたる遊女かな」があり、両句からして、吉原の帰りですね。
山谷堀橋来歴
本橋ハ帝都復興事業トシテ新設シタルモノナリ
一 起工 昭和四年五月
一 竣功 昭和四年九月
一 工費 壱萬九千四百圓
東京市
<亀屋銘木店> 台東区浅草6-46-4
山谷堀橋右岸の亀屋銘木店です。古い建物です。
正法寺橋を東に歩くと正法寺があります。
正法寺は、地上9階建てのビルで、境内のない屋内霊園の寺院です。
受付はホテルのフロントの雰囲気です。
正法寺橋傍にあります。
三ノ宮卯之助の「足持石」と彫られた力石があります。
四代将軍徳川家綱の愛馬「荒波」を荒波馬頭として合祀しています。
(平成30年5月設置の説明板に記載)
※三ノ宮卯之助「足持石」の力石について、新たに説明板が2つ設置されました。
「台東区教育委員会」(2019年2月設置)「越谷市郷土研究会」(2020年2月設置)
別ページにて記載しました。
<三村商店> 台東区浅草6-45-9
正法寺橋右岸の三村商店です。古い建物です。
<浅草山川町>
俗に山谷堀・砂利場ともいい、砂利場がありました。
万治3年江戸城普請の際、この地で工事用の砂利を採取したので、こう呼ばれました。
砂利場は山谷堀沿の山川町と田町1丁目にありました。
江戸切絵図では三谷橋と記され、上流の右岸に砂利場があり、その奥に西方寺が見えます。
新鳥越橋とも呼ばれました。
明治2(1869)年に浅草新鳥越町が浅草吉野町と改称したのに合わせ山谷橋から吉野橋となりました。
<吉野町一・二・三丁目> 台東区の旧町名
「この地は、正保二年(一六四五)、矢の倉建設のために収公された元鳥越町が、この地に移り、新鳥越町と称していた。
その後、明治二年(一八六九)元鳥越町とまぎらわしい町名だったことから浅草吉野町と改称した。
※町名の由来は、この地が昔、浅茅が原と呼ばれる野原であったことから、「野」の字をとり、それに祝字の「吉」を冠して、吉野町と名付けたといわれる。
本町の起立とともに、山谷堀に架かっていた山谷橋も吉野橋と改名された。
明治五年(一八七二)、浅草吉野町は周辺の十六か寺と熱田神社を合併し町域を広げた。
そして、昭和七年(一九三二)に、本町の北側を三分して浅草山谷一丁目、同清川一丁目、同石浜一丁目に割譲し、南側を新しく浅草吉野町一・二・三丁目として、ここに発足した。
昭和四十一年(一九六六)、住居表示制度の実施で、吉野町の名はなくなったが、現在は町域に吉野橋や吉野公園があり、その名を伝えている。」
待乳山聖天が近くです。
聖天町の西方寺の向、日本堤上り口の新鳥越町1丁目に浅草鳥越刑場がありました。
刑場は鳥越から新鳥越に移ってきました。その後、小塚原に移転します。
<待乳山聖天> 台東区浅草7-4-1 03-3874-2030 ホームページ
境内のあちこちに大根と巾着があります。待乳山聖天の詳細は別途記載。
上流側は山谷堀公園、下流側は山谷堀広場に親柱が残ります。
今戸橋から隅田川までは墨田公園の山谷堀広場となっています。
今戸橋から地方橋までは山谷堀公園です。
三囲神社西鳥居下と待乳山聖天社を結ぶ「竹屋の渡し」は、もともとは待乳ノ渡しと呼ばれていました。
墨堤の茶屋「都鳥」の女将が、対岸の今戸橋河口の船宿「「竹屋」に向かい、
「竹やー」と舟を出してもらう呼びかけの美声が参詣客の評判となり「竹屋の渡し」が通り名となりました。
竹屋は、西方寺に寄進しています。
「台東区の史跡・名所案内 竹屋の渡」(サイト改編により消失)より
「隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷掘から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりとを結んでいた。
明治四〇年刊『東京案内』には「竹屋の渡し」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では、山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家の渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」ともいわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることと由来する。「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八〜一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
江戸時代、隅田川にのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、様々な文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
昭和三年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。」
山谷堀の隅田川への水門。山谷堀は暗渠となり、雨水渠となっています。
夜景がキレイです。
日中です。
山谷堀は日本堤が築かれる前から存在しており、いつ頃掘られたのかはわかりません。
山谷堀は、音無川を人工的に真っ直ぐにしているので大規模な工事だったはずです。
はっきりしないというのはミステリーです。
(参考) 山谷堀(築年不明) 日本堤(1620年) 新吉原(1657年)
<洗たくや身体を洗うことはやめて下さい>(改修により撤去されました)
公園の流れを路上生活者が洗濯場や浴場として利用したため、流水は中止となっています。
「この公園の流れやせせらぎ内で洗たくや身体を洗うことはやめて下さい 公園課」
掲示板です。