○ 鬼子母神大門ケヤキ並木
○ 雑司が谷案内処
○ みみずく公園
○ 鬼子母神堂
・上川口屋
・おせんだんご
○ 江戸名所図会/江戸高名会亭尽/絵本江戸土産
○ 威光山法明寺の題目塔
○ 大鳥神社
○ 弦巻通り商友会
○ 赤丸ベーカリー
○ 菊池寛 旧宅跡
○ 雑司ヶ谷霊園(南池袋) 別頁
清土鬼子母神(目白台) 別頁
都電荒川線の鬼子母神前駅から鬼子母神堂に続く参道には、約100メートルのケヤキ並木が続いています。
(説明板)
「東京都指定天然記念物
鬼子母神大門ケヤキ並木
所在地 東京都豊島区雑司が谷三の一六・一九
指 定 昭和一五年二月
鬼子母神堂は、江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ、多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には、将軍の御成もあったほど大いに繁盛しました。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶店、料亭などが並び、参詣土産には、現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていました。かつては大径のケヤキが多く、荘厳な風景をかもし出していましたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は四本のみです。毎年一〇月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
ケヤキ並木にある「雑司が谷案内処」。
「並木ハウスアネックス」という建物にあり、手塚治虫がトキワ荘から移り住んだ「並木ハウス」の別館です。
入口には「麦藁細工の角兵衛獅子」が出迎えています。
左が角兵衛獅子の「角ちゃん」、右が雑司が谷の「司ちゃん」です。
案内処では、すすきみみずくなど売っています。
参道を進むと境内の手前左手に「みみずく公園」があります。
入谷の鬼子母神とともに多くの参詣客を集めていたのが雑司ヶ谷の鬼子母神堂です。
永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、
東陽坊(のち法名寺に合併)に祀ったのがはじまりとされています。
法明寺の飛地境内に建っています。
鬼子母神堂の「鬼」の漢字にはツノ(「ノ」のこと)が付いていない文字となっています。
<国指定重要文化財>
国指定重要文化財の説明板があります。
また、重要文化財指定書が石碑となって建てられています。
東京都の「都重宝 法明寺鬼子母神堂」と刻まれた石碑があります。
(説明板)
「国指定重要文化財 雑司ケ谷鬼子母神堂
雑司が谷の鬼子母神は、永禄4年(1561)に清土(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。
現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿」・「相の間」・「本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)に建てられた。広島藩2代目藩主浅野光晟の正室満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻を飾る梁や組物の彫刻には広島地方の寺社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。
これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。
平成28年 豊島区教育委員会」
<境内/石の仁王像>
門柱には「ざくろ」。
境内入って左右に仁王の石像。
「石像二王尊 和田戸山盛南山と云寺より自証院殿ここにうつされしとなり」と、
江戸名所図会に記載されています。
挿絵の石二王部分を拡大。拡大して気付いたのですが、大名駕籠を武士2名が警護しています。
「絵本江戸桜 雑司谷法明寺」(北尾政美画 1830(享和3)年)
鬼子母神堂が描かれている中で、仁王像が見えます。
<百度石>
「百度石」裏面に和歌一首。
「ただたのめちかひに立つる百度石 世にもうごかぬ志るしとぞなれ」
江戸名所図会の本文に百度参りのルーツは鬼子母神との解説があります。
(百度参)
「寄願あるものその社前を往返して百度参拝す 是を俗に百度詣りと号す 或人云く此ことは当社鬼子母神をもつて権輿とす そのゆゑは十羅刹女を始めし千人の御子にねぎたてまつる慮にして十と千との間を取り百度詣りするといへり 千団子千疋猿のたぐひ、みな此のゆゑなりとぞ」
<大公孫樹>
推定樹齢約700年の大イチョウです。
東京都指定天然記念物に指定されています。
「天然紀念物 鬼子母神ノ公孫樹」石碑は、昭和5(1930)年に、法明寺住職が建立。
平成29(2018)年3月に、豊島区景観重要樹木の第1号にも指定されています。
枝の一部から乳柱が垂下しており、このイチョウに抱き着くと子宝に恵まれると信仰を集めたことから、
「子授けイチョウ」と呼ばれています。
同じような銀杏に、正覚院(足立区花畑)に無数の気根が垂れ下がる乳垂銀杏があります。
<武芳稲荷堂>
武芳稲荷大明神は、鬼子母神堂が建つ前からこの地に鎮座した社です。
古来この地は「稲荷の森」と称されていました。
<戦捷紀念碑>
日露戦争の碑です。「明治三十九年五月建設」
揮毫は「従三位子爵岡部長職」とあります。岡部長職は旧岸和田藩主。珍しい。
乃木希典など軍人の揮毫がほとんどで、文人は渋沢栄一を見たぐらいです。
<手水舎>
手水鉢には、ざくろが刻まれています。
<法不動堂>
法不動(のりふどう)堂には、金剛不動尊が祀られています。
<一字一石妙経塔>
寛政3(1791)年に、茶・俳諧をよくした川上不白自筆の六万九千三百八十四の一字一石の法華経を納めた
一字一石妙経塔です。
手前に説明碑があり、裏面に由縁が刻まれています。
<白炎社建立の碑>
白炎社有志一同が昭和37年2月21日に建てた碑。顕彰碑?のようです。
<力石>
銘のある力石が7個と、銘のない石があります。
<ぶんぶく茶釜>
<童心碑>
日本童話協会が、蘆谷重常13回忌を記念して、1958(昭和33年)10月15日に童心碑を建立。
<御神木柘榴碑>
「御神木柘榴」と刻まれた碑。寛永五年の奉納。
石塔の傍らにあるのが、神木のザクロの木です。
<縁起>
「御神木柘榴」の後方に「縁起」の石板碑。
<牛山句碑>
「面倒になればおつるか蝸牛 牛山」
牛山は、京都賀茂神社の神官。
鬼子母神堂正面左手に建っています。
<鬼子母神像>
鬼子母神像の裏には、鬼子母神像の奉納者の由縁が記されています。
「衆生心水浄菩薩影現中」
「正四位山岡鐵太郎書」
山岡鉄舟の筆です。
達筆で読めない裏面に彰義隊の顕彰が刻まれているのかも?
左側面に記載の建立者の新倉長十郎は、芝区二葉町の楽器商です。
碑面
側面と裏面
<みみずくのベンチと三羽の梟像>
「鬼子母神のみみずく
鬼子母神鐘が鳴ったらみみずくがみんなの家庭に幸せ運ぶ」
<妙見堂>
西参道から入ると、鬼子母神堂と背中合わせに、妙見堂があります。
<豊竹肥前掾の墓>
浄瑠璃の竹本肥前掾・竹本文字太夫の墓が妙見堂の右手にあります。
「俗名豊竹肥前掾
春慶院九蛙井居士
俗名豊竹越前掾
一青院真覺龍信日重居士」
創業1781年、江戸時代から続いていた「飴屋」で、現在は駄菓子屋です。
鶴に丸の商号は、弦巻川の「つる」から採ったもの。川口屋の屋号も弦巻川にあやかってのもの。
川口屋の屋号でしたが、同じ名前の川口屋の飴屋や団子屋が増えて、区別のため上川口屋となったようです。
江戸名所図会に「あめや」と記されています。
・江戸名所図会挿絵の説明
「門前両側に酒肉店多し 飴をもて此地の産とし川口屋と称するものを本元とし
その屋号を称ふるもの今多し。」
羽二重団子がだんご屋を運営しています。根岸と同じ団子が提供されています。
羽二重団子は四つ刺しのだんごで、おせんだんごは五つ刺しのだんごです。
土日祝縁日に営業しています。2本で648円です。
鬼子母神詣での江戸時代の名物を、羽二重団子本舗が復活させたものです。
大黒堂の中には大黒天が祀られています。
「おせんだんごのしおり
嘗て江戸期より雑司が谷鬼子母神境内には、多数の茶屋、料理屋が立ち並んでおりました。時の流れと共にいつしかそれらが姿を消し、一軒の茶屋で売られていた「おせんだんご」の復活を望む声が多々聞こえる様になりました。
鬼子母神には千人の子があったと言われており、「おせん」の名もそれに由来しております。小粒の五つ刺しのおだんごは、安産子育てと子孫繁栄を祈願する意味をこめております。
ご縁があって、「おせんだんご」を製造できますことを、喜びとしております。
おせんだんご 謹製 根岸・芋坂 羽二重団子」
(参考)羽二重団子本店についてはこちらで記載
江戸名所図会に、法明寺と鬼子母神堂が描かれています。
挿絵右下には「五元集 雑司ヶ谷にて 山里は 人をあられの 花見うる 其角」とあります。
「江戸名所図会 雑司谷の会式」
日蓮上人の忌日の法会の、とても賑わっている様子が描かれています。
「江戸名所図会 麦藁細工の角兵衛獅子」
拡大すると「麦藁細工の角兵衛獅子」「風車」「すすきみみずく」が藁俵に刺され売られています。
挿絵奥の店では、ご婦人が風車を作り、横のカゴには「すすきみみずく」が入っています。
子連れのご婦人が豆腐を持って歩いていて生活感も出ています。
(挿絵説明)
「この地にて製するところの麦藁細工の角兵衛獅子は昔高田四ツ家町に任せし久米女といへる者壱人の母に孝あり 家元より貧しく孝養心のままならぬをなげきつねに当所の鬼子母神へ詣し深くこのことを祈りしに寛延二年の夏ふと思いつきて麦藁をもて手遊びの角兵衛獅子の形を造り是を当所にて商ひしにその頃はことに参詣多かりしかば求むる人夥しくつひにこの獅子のためにその身栄え心やすく母を養ひたりしとぞ 至孝の徳尊神の冥慮にかなひしものなるペし」
「江戸高名会亭尽 雑司ケ谷之図」(広重)
大門脇にあった料亭「茗荷屋」が描かれています。
「御料理みょうがや」の看板がかかっています。
境内で売られていた玩具のすすきみみずくを持っています。
「絵本江戸土産 雑司ヶ谷 鬼子母神 法明寺」
挿絵奥に鬼子母神堂、右手前に法明寺仁王門が描かれています。
鬼子母神西参道から、鬼子母神堂に沿って左に進むと、三叉路に「南無妙法蓮華経」の題目塔があります。
明治通りに面して、参道があります。
「江戸名所図会」
江戸名所図会の鬼子母神の境内に、「鷺明神社」が描かれています。
現在の大黒堂の場所です。
<沿革>
(説明板 一部抜粋)
「大鳥神社御由緒
一 沿革
正徳年間鬼子母神境内に鷺明神として創祀せらる。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称仮遷座す。此れを憂い旧幕臣矢嶋昌郁氏自己の宅地を社地として奉献永久鎮座の地漸く定まる。その後境内地を漸次拡張し現状となる。
一、境内社
昭和のなかば首都高速道路五号線開通に伴い元日の出町より移り本社と相並び奉祀す。三杉稲荷神社と称す。」
<拝殿>
賽銭箱が巾着です。
<西宮神社/恵比寿神>
<三杉稲荷神社>
<雑司ヶ谷ナス>
(説明板)
「江戸・東京の農業 雑司ヶ谷ナス
江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産していました。
とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。
ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。
ナスはその用途が広いため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開発されたことから、昭和の初めにはタネまきの最盛期は、2月15日前後となりました。
文献によると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)におけるナスの作付け面積は、約200ヘクタールと記されています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
東京あおば農業協同組合」
<高田町下水道築造記念碑>
昭和7(1932)年9月の造立。
都電荒川線「雑司が谷」停留場と「鬼子母神前」停留場の間にある「雑司が谷弦巻通り商友会」は、弦巻川の暗渠の上に造られました。
雑司が谷弦巻通り商友会にあるパン屋です。
<ぶどう食パン>
ぶどう食パン半斤(210円→230円)を購入。ふんわかで美味しい。
<アカマルプリン>
茨城県の「奥久慈卵」に、牛乳と砂糖、それに自家製バニラ香料を加えて、パン窯で蒸し焼きにしたプリンだそうです。
固めで卵の味をしっかりと味わえる美味しいプリンです。
<パンフレット>
弦巻通り沿いのマンションに「菊池寛 旧宅跡」の説明板があります。
(説明板)
「菊池寛は、明治二一年(一八八八)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
寛は大正一二年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和二三年三月六日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。
平成十一年十一月 東京都豊島区教育委員会」
(参考)菊池寛生家の跡 香川県高松市天神前4-33
香川県庁前から瓦町駅までの間は菊池寛通りとなっており、
菊池寛生家の跡があります。
生家跡には石碑がありましたが、2015年に地権者がビルを取り壊した後に近くに移されました。
2017年8月28日に菊池寛の生家後をす彫刻が設置されています。
(以下の画像はビルが取り壊される前のものです。)
「菊池寛肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治21(1888)年12月26日〜昭和23(1948)年3月6日
菊池寛の一高時代の同級生だった「石原登」が、文学者ではありませんが菊池寛賞を受賞しています。