【花畑】
○ 正覚院
○ 東善寺
○ 実性寺
○ 林松寺 ※別頁
○ 花畑浅間神社 ※別頁
○ 大鷲神社 ※別頁
大鷲神社と同様に、源義光関連のお寺です。
釈迦殿には佐竹氏家紋「扇に月丸」が描かれています。
東京都区内最古の庚申塔があります。
西國秩父番頭百番供養塔が2基あります。
「荒綾八十八ヶ所霊場」「新四国四箇領八十八ヵ所霊場」です。
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は、文化10(1813)年に鷲大明神に参詣しており、
「綾瀬・千住・花又村鷲明神詣の記」に地図が掲載されています。
「鷲大明神」と「別当 正覚寺」部分の抜粋です。
(あだち観光ネット説明)
「正覚院
真言宗豊山派の寺院で、鷲王山正覚院宝蔵寺と号します。開山は不詳ですが、源義光伝説との関連で平安時代半ばといわれています。本尊は不動明王です。墓所には元和8年(1622)の五輪塔(足立区登録有形文化財)や区内最古の元和9年(1623)の阿弥陀三尊来迎像庚申塔(足立区指定有形民俗文化財)などがあります。境内には、お乳の欲しい人が願うとお乳が出るようになるという「乳たれいちょう」があります。山号からうかがえるように江戸時代には大鷲神社の別当でした。大鷲神社の祭礼には当院の住職が駕籠に乗ってでかけたといいます。境内にある釈迦堂には明治時代まで大鷲神社の本地仏であった、鷲に乗った釈迦如来像が安置されています。この像は後三年の役(1083?87年)で活躍した新羅三郎と称される源義光の守り本尊と伝えられています。」
<鷲大明神 別当 正覚院>
鷲明神(現・大鷲神社)の別当寺であったことで知られています。
山門入ってすぐ右手に鷲大明神別当の標柱があります。
「鷲大明神 別当 正覚院」(文政3(1820)年銘)と刻まれています。
<庚申塔/五輪塔>
文化財の石碑が3基並んでいます。
中央の庚申塔(元和9(1623)年)は、東京都区内最古(足立区指定有形民俗文化財)です。
都区内の古い庚申塔はこちらの様式と同様です。
(右から順に)
・元禄10年銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)
・元和9年銘庚申塔(足立区指定有形民俗文化財)
・元和8年銘五輪塔(足立区登録有形文化財)
(説明板)
「正覚院は、真言宗豊山派で山号を鷲王山、寺号を宝蔵寺という。平安時代中頃の創建と伝えられ、江戸時代は大鷲神社の別当寺であった。
当寺には、区内では希少な江戸時代初期の石造物が三基、この場所に安置されている。中央の庚申塔(元和九年銘)は、一六二三年造立で、東京都区部最古のものである。石材を板碑型に加工し、阿弥陀三尊が極楽浄土から来迎するようすを図像で表現している。その下に「武? 花又村(現在の花畑周辺地域)」の造立者名を刻み込んでいる。江戸時代の初め、庚申信仰にともなう庚申塔造立の習俗が足立区周辺から始まったことを示す資料として大変重要である。
右の庚申塔(元禄十年銘)は、一六九七年に建てられたものである。舟型後背の石材に阿弥陀如来立像を主尊として彫刻し、「二世(現世と来世)安楽」を祈っている。
左の石塔は五輪塔で、最下部の地輪に「元和八年(一六二二)十月十二日」という紀年銘がある。「妙性禅尼」の追善のために造立したことが銘文に刻まれている。
各石造物はその貴重性から、庚申塔(元和九年銘)は足立区指定有形民俗文化財、五輪塔は区登録有形文化財(建造物)、庚申塔(元禄十年銘)は区登録有形民俗文化財に認定されている。
平成二十一年三月 足立区教育委員会」
<西國秩父番頭百番供養塔/普門品供養塔>
天保3(1832)年の百番巡礼供養塔です。
出羽三山も刻まれている例を多々見かけますが、こちらの供養塔はありません。
<釈迦殿(釈迦堂)>
源義光の持仏だったという鷲に乗った釈迦像を納めていますが、施錠されており拝めません。
扉に佐竹氏家紋「扇に月丸」が描かれています。
殿前に「釈迦殿」の漢文の由来碑があります。
新羅三郎源義光の字がくっきりと見えます。
<西國秩父番頭百番供養塔>
釈迦殿の前にも百番巡礼供養塔があります。
「天長地久〜 國土安寧 風雨〜
順時五穀成就郷中 安全萬民快楽」
この供養塔は刻まれている文字が多く、自分たちだけではなく万人のことを願っているのに感動。
こちらも出羽三山は刻まれていません。
<乳垂銀杏>
気根のある珍しいイチョウです。
<墓地>
古い墓が多いです。
江戸時代後期には新六阿弥陀二番札所として信仰を集めたといいます。
荒綾八十八ヶ所霊場掛番札所です。
足立区教育委員会のサイトをみると登録文化財の多い寺で、以下の他にもあります。
(説明板)
「東善寺
当寺は時宗を宗旨とし、花亦山西光院東善寺と号す。南北朝時代の十四世紀中頃に、伊興の應現寺三世住職三阿弥陀仏上人が開山した。
三阿弥陀仏上人は当寺を念仏道場として衆生強化に生涯を捧げたと伝えられている。その後、兵火・天災に遭い堂宇伽藍・記録類のほとんどを焼失した。
元禄年間(一六八八〜一七○三)に長傅和尚が中興し、活発に強化活動を展開した。江戸時代後期からは、寺子屋を開設し、村の子女の教育に当たった。本堂には阿弥陀如来像が安置され、新六阿弥陀二番札所として信仰を集めたという。
本堂前の六字名号板碑は康安元年(一三六一)の造立であり、完全な形で残された本区最大の板碑であり、足立区有形文化財に登録されている。これには、「花亦山西光院東善寺開山 三阿弥陀仏」の銘があり、寺や地域の歴史を知る貴重な資料である。
平成九年三月 足立区教育委員会]
<六字名号板碑>(登録有形文化財)
「南無阿弥陀仏」の六字の陰刻が、明瞭です。
<庚申塔2基>(登録有形民俗文化財)
庚申塔2基とも足立区登録有形民俗文化財です。
平成17年に登録された文化財のため、平成9年の足立区教育委員会の説明板に記載はありません。
左:参詣記念巡拝塔(天明三(1783)年銘)
銘文は「奉納西國秩父坂東念願成就 天明三癸卯年二月吉日」とあり
参詣巡りの成就を記念しています。
2鶏3猿が刻まれ庚申塔になっており、足立区教育委員会は庚申塔として登録しています。
右:庚申塔(承応三(1654)年銘)
「奉待庚申供養成就所」と刻まれた庚申塔です。
<葵の紋>
<ペット霊園>
境内入ってすぐ右手にペット霊園。
<馬頭観音>
中央の馬頭観音は天保8(1837)年銘です。
<牧野先生碑>
儒学者牧野隆幸の大きな漢文の事跡碑です。
(説明板)
「牧野先生碑
幕末から明治の初年にかけて、花畑村に私塾を開いた牧野隆幸(一八二六〜一八八五)の追悼の石碑である。門人が撰文し、建立したもので、俗にいう筆子塚である。
隆幸は、嘉永元年(一八四八)、信濃から江戸に出て苦学し、この花畑の地で私塾を開いたが、貧しかったため、花畑の戸長役場の書記も兼ねた。
助手を務めた長女久真が、病気で倒れ、その看護をするうちに、本人もまた病み、六十歳で没した。
江戸に出て、苦学して学問を身につけたが、その晩年の生活は、平安ではなかった。
万延元年(一八六〇)から、明治十七年(一八八四)までの二十五年間に、教えを受けた子弟は五百余人という。不遇で報われなかった恩師のため、門人達は碑を建て、師の鎮魂を祈った。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」
<六地蔵>
中央は、承応2(1653)年銘の庚申地蔵のようです。
<当村小林亀太郎碑>
西南戦争で戦死したラッパ手小林亀太郎の墓碑です。
立派な碑です。
<實性寺の開基>
「實性寺の開基、斉田左衛門慰頼庸公の墓。法号は、實性院殿霊山暁空大居士。」(寺HP)
<故 遠山由蔵墓>
西洋洗濯(クリーニング)業祖の遠山由蔵のお墓です。墓石の裏に大正6年4月21日と記銘。
「明治元年に渡米、クリーニング業を修得し帰国、横浜に西洋洗濯第一号店を開いた。」(寺HP)
<寄進者の碑>
寄進者の立派な碑が林立しています。
<鴨下金三の墓>
チューリップの開発・栽培者、鴨下金三氏の墓があります。
チューリップは足立区の花でもあります。
足立区立郷土博物館に「チューリップフレーム」の模型が展示されています。
大正期に最新式のガラス温室「チューリップフレーム」を利用した栽培が試みられ、
また、大正5年に足立区島根の鴨下金三氏によって完成された冷蔵によるチューリップの促成栽培は、
「足立のチューリップ」として全国にその名をとどろかせました。
<油問屋 滝沢冨右衛門の墓>
広大な墓地の中で、ひときわ高くそびえているお墓です。
数人で墓を担いでいます。