長命寺A
・奥之院参道
・御影堂(大師堂)
・観音堂
長命寺B
・石燈籠と十三仏
・閻魔十王と身代わり閻魔
・大猷院殿台霊供養塔
・台徳院殿尊前
長命寺は、慶長18(1613)年に後北条氏の一族である増島重明(出家して慶算阿闍梨)によって弘法大師像を祀る庵を作ったのが始まりといわれています。
重明の家督を継いだ増島重俊が、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造しました。
高野山奥の院を模して多くの石仏・石塔が作られており、「東高野山」とも称されます。江戸名所図会にも描かれています。
また、徳川家霊廟にあった石燈籠等が、確認できただけでも17基もありました。
2度行きましたが、石碑や燈籠の裏の記銘まで見ていくと蚊の絶好の攻撃対象となり、
長袖を着ましたが、顔面マスクの周りを蚊に何カ所も刺されました。
吊り下げ蚊取線香を買おうと思いました。
出羽三山供養塔は2基ありました。松尾芭蕉と水原秋櫻子の句碑がありました。他にも諸々多数。
<高野山>
高野山に昔行った時は、写真を撮っておらず、その時入手した写真集「霊場高野山」(高野町発行)の
「奥之院参道」と「御廟橋と奥之院」の写真の抜粋です。
本場は木々の太さが半端無かったです。
「江戸名所図会」
「練馬長命寺 新高野又ハ東高野山ともいへり」
スポットを江戸名所図会より抜粋・拡大
<本堂/東門> <奥之院参道> <御廟橋>
<大師堂/石佛> <観音堂>
<長命寺の石燈籠など>
長命寺には、石燈籠が、文昭院7基、有章院5基、台徳院2基、大猷院1基、桂昌院1基ありました。
さらに大猷院供養塔1基、「台徳院殿尊前」と刻まれた石塔1基、浄徳院(綱吉の長男徳松殿)の墓碑があり
16基+3基=19基(大猷院2基は谷和原村、17基が増上寺境内からの移設)もあり意外でした。
<石燈籠の経緯>
明治となり、徳川氏の所領は明治政府の収めるところとなりましたが、
明治2年、徳川氏の祖先の廟墓の地は、徳川宗家に返還されました。
戦後、徳川家は芝の霊廟を西武に売却、霊廟内の遺体は、1カ所にまとめて増上寺に改葬されました。
多かった時期は1000基あった燈籠は西武球場建設予定地に集められ、
西武第二球場建設に伴い、各地の寺院などへ譲渡されました。
<南大門>
正面に広目天と増長天、後面に持国天と多聞天。
南大門から正面の本堂まで、広くて長い参道が続きます。
<仁王門>
仁王門は寛文年間築で、練馬区指定有形文化財。多くのワラジが奉納されています。
<奉献石燈籠(桂昌院殿)一基>
仁王門の近くに石燈籠があります。
「桂昌院殿 尊前」
宝永2(1705)年6月22日の造立で、「増上寺」に「大和守吉田城主久世重之」が奉献。
燃え跡がありません。葵の紋に朱色が残っています。
<弘法大師供養塔>
正面「弘法大師」左側面は道標になっています。
「左 しゃくじい 三宝寺」
<井戸/力石>
井戸と力石があります。
<奉献石燈籠(文昭院殿)>
東参道の終端に一対の大きな石灯籠があります。
両基とも「文昭院殿尊前」(徳川6代将軍家宣)石燈籠。
正徳2(1712)年10月14日の造立です。
左側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下源姓井上氏〜(筑後守政蔽と思います)」
右側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下久留嶋伊豫守越智通政」
<奉拜進石燈籠(台徳院殿)>
東参道裏手、本坊に台徳院殿の石燈籠が2基あります。
「奉拜進」
「台徳院殿 尊前」(徳川2代将軍秀忠)
寛永9年7月24日の造立です。
両基とも、火袋が継ぎ足されている形跡があります。
<板碑>
板碑がズラリと並んでいます。
一基ずつ確認は全くしていませんが、文化財級かも?
<浅草 光明講 紀念>
燈籠を越えると、
「浅草 光明講紀念 大正拾年九月建之」の大きな碑。
光明講の碑は、埼玉でもよく見かけます。
<三界萬霊>
燈籠を越え、参道終わった左手に、大きな三界萬霊の塔があります。
仁王門から入ると参道上にあります。
<永楽講>
仁王門をくぐると右手に永楽講の巨碑があります。
鐘楼の奉納石板にも永楽講が刻まれています。
<梵鐘>
参道右手に鐘楼があり、周りに「十三佛の功徳」。
梵鐘は慶安3(1650)年の作です。
<台石>
台石がこの他にも多く転がっています。
<弘法大師御遠忌供養塔/大師像>
参道左手に弘法大師千百五十年御遠忌供養塔と大師像。
<子育て地蔵>
参道左手というか車道沿いに子育て地蔵。
裏手の窪みに祠があります。
<木遣塚>
参道左手に「木遣塚」と、その先奥之院入口横に「木遣地藏堂」があります。
<阿弥陀如来立像>
本堂正面に阿弥陀如来立像。台石に三界萬霊と刻まれています。
<狛犬>
香炉の上に狛犬がいます。
<奉納三波石 増島保平>
三波石が石碑としてあちこちで用いられています。
ひときわ大きな三波石が奉納されています。
本堂の右手に水原秋桜子の歌碑があります。
「木々ぬらし石うかちつひに春の海 秋桜子」
本堂の左手に芭蕉句碑があります。
「芭蕉 父母のしきりにこひし雉子の聲」
安政6(1859)年3月の建立です。
<弘法大師供養塔>
奥之院入口の脇にお大きな弘法大師供養塔。
「弘法大師」「成田山「新栄講」と刻まれています。
<木遣地藏堂(六角堂)>
江戸消防記念会の第一区が建立、修復。
修復工事の説明板が、昭和46年、平成30年とあります。
新しい趣意書が掲げられています。
「木遣地藏堂修復工事趣意書 江戸消防記念会 第一區 平成三十年十月吉日」
大きな手水石と寺紋の手水石、雨水桶は東京都浅草大日堂講納です。
(説明板)
「長命寺
東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。
慶長十八年(一六一三)後北条氏の一族である増島重明(慶算)が一院を開き、その志を継いで、弟の子、重俊が諸堂を建立、寛永十七年(一六四○)に大和(奈良県)長谷寺の秀算により「長命密寺」と号しました。
寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八か所十七番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました。
●東京都指定文化財・練馬区登録文化財
「東高野山奥之院」境内西北部の霊場域
「板絵着色役者絵(双蝶々曲輪日記絵馬・鳥居清長画)」江戸時代(文化十一年/一八一四頃)
●練馬区指定文化財
「長命寺仁王門」江戸時代(十七世紀後半)
「長命寺の梵鐘」江戸時代(慶安三年/一六五○銘)
●練馬区登録文化財
「牛若丸・弁慶絵図」江戸時代
平成十二年十二月 練馬区教育委員会」