Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 徳川慶喜

  ○ 一橋徳川家屋敷跡
    ・七郎麻呂時代肖像
    ・一橋門跡
    ・一橋門石垣跡
  ○ 徳川慶喜公謹慎之間
  ○ 徳川慶喜巣鴨邸
  ○ 徳川慶喜終焉の地
  ○ 徳川慶喜墓
  ○ 日本橋徳川慶喜揮毫橋銘板


一橋徳川家屋敷跡  千代田区大手町1-4

 徳川15代将軍となる徳川七郎麻呂が養子に入った一橋徳川家の屋敷があった場所です。
 標柱「一橋徳川家屋敷跡」「千代田区観光協会 平成九年六月」

     

(説明板)
「一橋徳川家 屋敷跡
 一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子の宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
 一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
 当家は、二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。」

  

七郎麻呂時代肖像(七歳)>

 「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、七郎麻呂時代肖像です。
 4年後に一橋徳川家を相続します。

  


一ツ橋 千代田区一ツ橋二丁目・神田錦町三丁目〜一ツ橋一丁目・大手町一丁目

 一ツ橋は日本橋川に架かり、現在の橋は、大正14(1925)年11月5日の架橋です。

     

一橋門跡> 千代田区神田錦町3-19(説明板)

 一ツ橋の北東詰に、説明板「一橋門跡」があります。

(説明板)
「一橋門跡
 一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。なお清水家、田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋徳川家の屋敷は1740年(元文5年)から、門内にありました。
 この門の石垣は、1629年(寛永6年)に築造、1873年(明治6年)に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。現在の橋は、1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。」

    

一橋門石垣跡> 千代田区大手町1-4

 一橋門の石垣は明治6(1873)年に撤去され、川岸にわずかな高石垣だけが残っています。

   


○ 徳川慶喜公謹慎之間 台東区上野桜木1-14-11

 江戸幕府が慶応3(1867)年に大政奉還し、徳川慶喜は、翌慶応4(1868)年2月12日から4月11日までの2カ月間、
 水戸に出発するまで、東叡山寛永寺の子院の一つ「大慈院」の一室に蟄居しました。

 現在は、寛永寺書院「葵の間」と呼ばれ、寛永寺根本中堂の裏手の通路の先に葵の間があります。
 特別参拝(根本中堂、葵の間、徳川将軍御霊廟)は、コロナ対策で現在は自粛しているようです。

   

 水戸へ去る徳川慶喜は、三の輪橋のたもとで、山岡鉄舟らの見送りを受けました。


徳川慶喜巣鴨屋敷跡  豊島区巣鴨1-18

 白山通り沿いの歩道に、標柱「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」と、
 説明板「巣鴨に住んでいた徳川慶喜」が建てられています。

(説明板)
「巣鴨に住んでいた徳川慶喜
 徳川幕府十五代将軍徳川慶喜〔天保八年(一八三七)〜大正二年(一九一三)〕がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(一八九七)十一月、慶喜六十一歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年三月には皇居に参内、明治三十五年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、その後小日向大六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白〜田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
  平成十年五月  
    巣一商店街
    豊島区教育委員会」

     

     

<東京巣鴨邸座敷>

 「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、「東京巣鴨邸座敷」です。
 庭に鶴が降り立っているのどかな光景です。

  


徳川慶喜終焉の地  文京区春日2-8-9

 国際仏教学大学院大学と丸の内線の線路際に説明板「徳川慶喜終焉の地」が建っています。

(説明板)
「徳川慶喜終焉の地  文京区指定史跡 (平成26年3月1日指定) 文京区春日2-8-9
 徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
 翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡県静岡市)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
  文京区教育委員会  平成26年12月」

     

<徳川慶喜公屋敷跡> 文京区春日2-8-10

 国際仏教学大学院大学の正門脇に標柱「徳川慶喜公屋敷跡」が建っています。

     

   

<慶喜邸屋敷大銀杏>

 大学構内に、慶喜邸屋敷大銀杏があります。

    

<東京小日向邸玄関/同邸居間>

 「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の「東京小日向邸玄関」と「同邸居間」です。
 玄関にイチョウが見えます。

   

<旧第六天町>

(説明板)
「旧第六天町(昭和41年までの町名)
 もと、小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。
 明治2年、称名寺門前を併せ、同5年には旧大久保長門守下屋敷、寺地、先手組屋敷などを合併した。町名は、第六天前町の前の字を省いて、第六天町と町名を変更した。
 今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。そして、大正2年、ここで波乱の一生を終わった。 文京区」

     

(参考)
 第六天町は、松平容保終焉の地でもあります。
 こちらで記載→「松平容保終焉の地


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