「江戸名所図会 飯田町 中坂 九段坂」
左に「九段坂」、北に「中坂」、さらに北に「もちのき坂」(冬青木坂)が描かれています。
九段坂は、御用屋敷の長屋が九段に建っていました。
江戸名所図会の挿絵をみると、石階が九段に仕切られています。
大八車は石階のない中坂を通行しているのが見えます。
神田祭の山車も、石階のない中坂を通りました。
通行人の数も九段坂よりも中坂の方が多く描かれています。
中坂の中腹に「よつぎいなり」が見えます。
「江戸切絵図 飯田町 駿河台 小川町 絵図」
江戸切絵図からの抜粋です。
「九段坂」「田安イナリ」「飯田町中坂通」「モチノキ坂」の記載が見えます。
「九段坂」の坂下には「俎板橋」、「冬青木坂」の坂下には「コウロギバシ」が見えます。
三坂の坂下には「堀留」が見えます。
○中坂(飯田坂) 千代田区九段北一丁目
中坂の中腹に千代田区の真新しい標識が建っています。
(標柱)
「中坂
江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになりました。元禄十年(一六九七)の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれました。その後、南にある九段坂と北にある冬青坂(もちのきざか)の中間に位置することから中坂といわれるようになりました。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心ですが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていました。また、神田祭の山車などはみな中坂を通りました。 千代田区」
○九段坂 千代田区九段北一丁目・二丁目〜九段南一丁目・二丁目
こちらも真新しい説明板です。
(説明板)
「九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。
千代田区」
「東京三十六景 九段さか」(昇斎一景 都立図書館蔵)
説明板に掲載の、明治時代初期の九段坂を描いた錦絵です。
「東京名所三十六戯撰 九たん坂」(昇斎一景 都立図書館蔵)
昇斎一景の描いた明治時代初期のパロディです。
天秤棒で運んでいた籠のひもに、洋傘の持ち手がひっかかり、籠が天秤棒から落ちて西瓜がゴロゴロ転がっています。
子どもは両手を広げて落ちてくる西瓜を待ちかまえています。隣の男は西瓜をかっぱらって走り去ろうとしています。
「廣重東都坂盡 飯田町九段坂之図」(広重)
九段坂が描かれています。通行人は武士がほとんどです。
坂の性格をよく表しています。
坂の左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。
「江戸名所百人美女 いひ田まち」(豊国・国久)
こま絵には、九段坂、その左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。
通行人は武士が多く見えます。
元飯田町の土地柄から、高貴なお嬢さんがお点前の準備をしています。
「江戸名所四十八景 九段さか(廿六夜まち之図)」(二代広重 都立図書館蔵)
江戸時代、九段坂上は月見の行事「二十六夜待」の名所でした。
九段坂の上のから描かれています。「廿六夜まち之図」とあり、遠景には花火が打ち上がっています。
<九段坂の現在の地図>
○冬青木坂 千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目
「江戸名所図会」
三坂のうち、一番北の坂です。
<現在の冬青木坂>
現在も坂道の北側には武家屋敷の石垣が残っています(現:フィリピン大使館)。
(標柱)
「冬青木坂
元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側は元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。
千代田区」
「江戸切絵図」
舟が通行できたのは堀留までで、さらに先の上流は武家屋敷からの下水路が北へ続いています。
堀留の西岸には、俎河岸がありました。江戸切絵図は北を上に回転させています。
<「俎橋」「どんどん橋(こうろぎ橋)」>
・俎橋(まないた橋)
九段坂を下りてくると、俎河岸のある堀留に架かる「俎橋」が描かれています。
立派な橋で、往来も多いです。
日本橋川最上流の荷揚げ場である俎河岸があり、積荷を積んだ船も多く行きかっています。
九段坂下は一段と幅が広くなっており、荷物がまだ積まれていない大八車が多く描かれています。
千代田区観光協会によると
「俎橋の名の由来は、はっきりしませんが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが
関係するといわれています。」とのこと。
江戸時代は、俎橋から先へ直進する道路はありませんでした。
明治になって神保町へと続く道路が設けられました(現在の靖国通り)。
・どんどん橋(こうろぎ橋)
冬青木坂の坂下、堀留の北端にかかっていたのが「どんどん橋」です。
現在の南堀留橋と堀留橋め間に架かっていましたが、現在はありません。
江戸名所図会では「とんとんはし」とありますが、江戸切絵図では「コウロギバシ」とあります。
「きりぎりす橋」とも呼ばれていたようです。
踏むとどんどんと音のする木造のそり橋がどんどん橋ですが、江戸名所図会では石橋にも見えます。
<現在の「俎橋」「南堀留橋」「堀留橋」>
・俎橋 千代田区九段北一丁目・九段南一丁目〜神田神保町三丁目
俎橋は現在も残っています。俎河岸の痕跡はありません。
2枚目は俎橋から北方向を見たところ、左手がかつての俎河岸。
3枚目は南堀留橋から南方向の俎橋を見たところ、右手がかつての俎河岸。
(参考)俎橋児童遊園 千代田区九段北1-1
俎橋の歴史と全く関係ありませんが、俎橋遊園にハレー彗星接近を記念した「寿人遊星」があります。
こちらで紹介済
・南堀留橋 千代田区九段北一丁目〜神田神保町三丁目・西神田三丁目
江戸時代の中坂下にはなかった「南堀留橋」です。
「昭和三年八月完成」とあります。
南堀留橋から、かつて堀留橋がかかっていた場所を見たところです。
・堀留橋 千代田区九段北一丁目・飯田橋二丁目〜西神田三丁目
江戸時代はこの地は陸地で、堀留橋は、もう少々南の、堀留端と下水路に架かっていました。
堀留橋袂に「傳蔵地蔵尊」が祀られています。
元の地蔵尊と新しく造れた地蔵尊の2体があります。
世継稲荷は、嘉吉元(1441)年、飯田町(現・九段坂〜中坂付近)に創建されました。
別名を田安稲荷(旧田安家敷地)と言います。
徳川秀忠が参詣した際、橙(ダイダイ)の木があるのを見て、「代々」と同音であることから
「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛しました。以来、世継稲荷と言われるようになったとのこと。
明和6(1769)年の2月7日の開帳には、笠森お仙が自分の人形を作って奉納するほど賑わっていたようです。
また、文久2(1862)年には、和宮様が御拝祈願あらせられたとのこと(以上、麹町区史より)。
<戦災焼失前の世継稲荷社殿>
「麹町区史(東京市麹町区 昭和10年)」(国会図書館蔵より)
<現在の世継稲荷社>
世継稲荷は戦災で焼失、同じく戦災で焼失した築土神社が昭和29(1954)年に、
世継稲荷神社の境内に遷座するに伴い、世継稲荷の社殿が再建されました。
<石祠>
社殿の右横に、狐像と石祠があります。
<山本社司之碑>
「昭和二十年三月十日 戦災に
御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
総理大臣 鳩山一郎書
中坂の下に滝沢馬琴宅跡があります。
説明板によると、「硯の井戸」は関東大震災で失われたとあります。
現在の井戸枠は昭和初期に復元されたもののようです(それとも震災で井戸枠だけ残った?)。
<都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸>
マンション入口に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑と、千代田区の説明板があります。
(説明板)
「滝沢馬琴の井戸跡
東京都指定旧蹟
1955年(昭和30年)3月28日指定
滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767-1848)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、「南総里見八犬伝」の作者としてよく知られています。
馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝のもとへ入門し、翌年大栄山人の名でデビュー作『尽用而二分狂言』を波票しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。
1824年(文政7年)に神田明神下同胞町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。 千代田区」
「瀧澤馬琴宅跡の井戸」(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 東京市公園課 大正11年)
関東大震災で失われた井戸の写真がありました。東京府の説明板が見えます。
東京市公園課の本文説明によると、子孫が住んでいるが度重なる火災で、井戸のみ残っているとのこと。
<硯の井戸枠>
マンションの庭に、硯の井戸枠があります。
<江戸名所図会と江戸切絵図>
滝沢馬琴が住んでいた中坂下の履物屋の場所を、江戸名所図会と江戸切絵図で確認すると以下の場所。
世継稲荷が近くにあり、滝沢馬琴は頻繁に参詣し、神社には馬琴ゆかりの品々がありましたが、
戦災ですべて焼失しています。
<現在の地図と滝沢馬琴硯の井戸跡>
靖国通り沿いの公園で、長さは約100mです。旧富士見町。
公園の施設には田安門側から常燈明台、品川弥二郎像、大山巌像と顕彰碑、トイレ等があります。
江戸時代、九段坂上は月見の名所(二十六夜待)でした。
<田安門> 千代田区北の丸公園
田安門脇から、九段坂公園が続きます。
田安門には几号水準点があります(こちらで記載済)。
(説明板)
「田安門
国指定重要文化財 1961年(昭和36年)6月7日指定
この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。
門は1620年(元和6年)に建築され、1636年(寛永13年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。
現存する石垣は戦災により崩れ、1965年(昭和40年)の北の丸整備に合わせて修復されたものですが、地上から2?3段分は江戸時代の原型を保っています。
千代田区」
<高燈籠(常燈明台)>
高燈籠(常燈明台)は、明治4(1871)年に靖国神社の燈籠として設置されました。
九段坂の上からは、品川沖を出入りする船の目印として灯台の役目も果たしました。
靖国通りの反対側に建てられていましたが、九段坂の改修に伴い昭和14(1925)年に現在地に移転しました。
(説明板)
「高燈籠(常燈明台)
高燈籠(常燈明台)は明治4年(1871年)靖國神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。
方位盤や風見が付けられ、いわゆる擬洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している。(右絵)
九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも臨むことができ、灯台の役目も果たした。
かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、この改修工事に伴い、大正14年(1925年)に現在地に移転した。 千代田区」
「最新東京名所写真帖 九段坂上の眺望」(小島又市 明治42(1909)年)
高燈籠(常燈明台)が以前の場所に見えます。
「九段坂五月夜」(小林清親 明治13年)
小林清親が九段坂を描いています。高燈籠(常燈明台)は、以前の場所に描かれています。
「九段坂」(井上安治)
井上安治も同じ場面を描いています。
<品川弥二郎像>
銅像の製作は本山白雲で、高村光雲が監督にあたっています(台石の裏面に記載)。
(説明板)
「品川弥二郎(1843-1900)
品川弥二郎は天保14年(1843年)、長州藩に生まれた。
15歳の時、吉田松陰の松下村塾に入門。練兵館で剣術を学んだ後、長州藩士として、高杉晋作らと尊皇捜夷運動、戊辰戦争で活躍した。
明治政府設立後、明治3年(1870)、ロンドン、ドイツ等の欧州に留まり、次第に政治や経済に注目するようになった。
帰国後、内務省、農商務省、宮内省に勤め、明治24年(1891)に内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任した。また、学校や信用組合や産業組合などの成立に関わった。」
「品川弥二郎像
品川弥二郎像は、明治40(1907年)に設置された。品川弥次郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでおり、練兵館に近い九段坂公園に像が設置された。監督は高村光雲※、原型作者は本山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。
※高村光雲:彫刻家。文久3年(1863年)仏師である高村東雲のもとで木彫を学んだ。木彫に写実主義を取り入れ、山崎朝雲、平櫛田中など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠木正成像」「西郷隆盛像」など。 千代田区」
「品川弥二郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保14年閏9月29日〜明治33年2月26日(1843年11月20日〜1900年2月26日)
(参考)
品川弥二郎が明治18 (1885)年に塩原温泉塩釜に建てた別荘が、
塩原妙雲寺に移築され保存されています(那須塩原市文化財)。こちらで記載済。
<大山巌像>
説明板によると、国会前庭(現:尾崎記念公園)にありましたが、
昭和23(1948)年GHQにより撤去、昭和44(1969)年に現在地に設置。
(説明板)
「大山巌(1842-1916)
大山巖は天保13年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。従兄弟である西郷従道(西郷隆盛の弟)は、盟友関係にあった。
薩英戦争での近代的な軍備に影響され、江川太郎左衛門のもとで砲術を習得した。
日清戦争では第2軍司令官、 日露戦争では満州軍総司令官を務めた。東郷平八郎と対を成して「陸の大山、海の東郷」と称された。
その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。」
「大山巌像
大山巌像は、大正8年(1919年)に現在の国会前庭に設置された。銅像は軍服を着た騎乗姿で、原型作者は新海竹太郎。近代の軍人像の中では、数少ない乗馬像の一つ。
昭和23年(1948年)、GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和44年(1969年)に現在地に移転した。」
「大山巌顕彰碑 (解釈文)
元帥陸軍大将、従一位大勲位功一級公爵の大山厳は、天保13年(1842年)10月10日に鹿児島県において生まれる。日清・日露の両大戦後に従い大正5年(1916年)12月10日、東京において薨かる。 千代田区」
「大山巌肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保13年10月10日〜大正5年12月10日(1842年11月12日〜1916年12月10日)
西郷隆盛の従弟であり、西郷隆盛に微妙に似ています。