九段下交差点の目白通りに、千代田区町名由来板「九段一丁目」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 九段南北一丁目町会
九段一丁目
この界隈が「九段」と呼ばれるようになったのは、幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷をつくったことからです。その石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれました。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて寂しい道で、とても勾配がきつい坂でした。
しかし、一本北側を走る中坂は、この界隈で唯一の町屋が並び、御用屋敷に日用品を供給するとても賑やかな通りだったようです。さらにこのあたりは、江戸初期のころより元飯田町の町名が付き、有名な戯作者の曲亭(滝沢)馬琴が使っていた井戸や幕府の蕃書調所などもありました。
その後、幾多の変遷を経たのち、関東大震災後の復興計画が行われ、昭和八年(一九三三)にこの町の区画整理が完成しました。町を東西に走る大正通り(現靖国通り)や南北に走る内堀通り、目白通りが拡幅整備され、都心部の重要な拠点となりました。さらに町名も、飯田町一、二丁目と同四丁目の一部を合併して九段一丁目となりました。
急だった九段坂は拡幅・掘削されて勾配がゆるやかになり、ここに市電が走るようになりました。このとき九段坂は神田・両国方面と新宿・渋谷方面を東西に結ぶ幹線道路となったのです。昭和四十年代中ごろまで、この坂を電車が上り下りする懐かしい光景を見ることができました。
こうして江戸時代より受け継がれてきた九段坂は、激動の二十世紀の時代の流れの一端を静かに見守ってきた歴史的な坂でもあります。」
「九段一丁目と曲亭馬琴
この「場所」にはかつて、人の歴史よりも長い悠久の時間があったはずである。その、堆積した時間の一番うえに、現在のこの「場所」はのっかっている。その、長い長い過去の中から、たった三十年ばかりを拾ってみる。
寛政五年(一七九三)。山東京伝に入門を願い、その後、蔦屋の手代となった下級武士の倅が、ここ元飯田町の下駄屋に婿入りした。その男は戯作者になるという夢が諦め切れず、家業のかたわらこの場所で小説を書き始める。曲亭馬琴の誕生である。文政七年(一八二四)まで、馬琴はこの地で戯作を紡いだ。馬琴が硯を洗ったという井戸も残っている。『南総里見八犬伝』も『椿説弓張月』もここで生まれた。
だからどうだ、と謂われてしまえばそれまでである。
現在のこの街のこの「場所」に、たぶんそんなことは関係のないことである。それでもそうした故事来歴は、平面の地図上に幾許かの高さや深さを与えてはくれる。「場所」は、必ずしも過去時間の呪縛だけで成り立っているものではないけれど、ここがそうした「場所」だったという記憶を記録に転じて示しておくことも、そんなに悪いことではないように思う。
作家 京極夏彦」
千代田区町名由来板の近くに、昭和57(1982)年に設置の標柱「元飯田町跡」があります。
(標柱)
「元飯田町跡
江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時十七軒程の部落でした。
江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。
ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。
昭和五十七年十二月 飯田橋通り商栄会 九段下さくら会」
「江戸名所図会 飯田町 中坂 九段坂」
左に「九段坂」、北に「中坂」、さらに北に「もちのき坂」(冬青木坂)が描かれています。
九段坂は、御用屋敷の長屋が九段に建っていました。
江戸名所図会の挿絵をみると、石階が九段に仕切られています。
大八車は石階のない中坂を通行しているのが見えます。
神田祭の山車も、石階のない中坂を通りました。
通行人の数も九段坂よりも中坂の方が多く描かれています。
中坂の中腹に「よつぎいなり」が見えます。
「江戸切絵図 飯田町 駿河台 小川町 絵図」
江戸切絵図からの抜粋です。
「九段坂」「田安イナリ」「飯田町中坂通」「モチノキ坂」の記載が見えます。
「九段坂」の坂下には「俎板橋」、「冬青木坂」の坂下には「コウロギバシ」が見えます。
三坂の坂下には「堀留」が見えます。
中坂の中腹に千代田区の真新しい標識が建っています。
(標柱)
「中坂
江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになりました。元禄十年(一六九七)の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれました。その後、南にある九段坂と北にある冬青坂(もちのきざか)の中間に位置することから中坂といわれるようになりました。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心ですが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていました。また、神田祭の山車などはみな中坂を通りました。 千代田区」
こちらも真新しい説明板です。
(説明板) 千代田区九段北1-13
「九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。 千代田区」
「東京三十六景 九段さか」(昇斎一景 都立図書館蔵)
説明板に掲載の、明治時代初期の九段坂を描いた錦絵です。
「江戸名所四十八景 九段さか(廿六夜まち之図)」(二代広重 都立図書館蔵)
江戸時代、九段坂上は月見の行事「二十六夜待」の名所でした。
「廿六夜まち之図」とあり、遠景には花火が打ち上がっています。
九段坂の上から描かれています。坂の右手に牛ヶ淵が描かれています。
「東京名所三十六戯撰 九たん坂」(昇斎一景 都立図書館蔵)
昇斎一景の描いた明治時代初期のパロディです。
天秤棒で運んでいた籠のひもに、洋傘の持ち手がひっかかり、籠が天秤棒から落ちて西瓜がゴロゴロ転がっています。
子どもは両手を広げて落ちてくる西瓜を待ちかまえています。隣の男は西瓜をかっぱらって走り去ろうとしています。
「廣重東都坂盡 飯田町九段坂之図」(広重)
九段坂が描かれています。通行人は武士がほとんどです。
坂の性格をよく表しています。
坂の左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。
絵の周りには、油絵の額縁のような縁を描いています。
「くだんうしがふち」(北斎 東京国立博物館蔵)
款記と画題が横倒しの平仮名で記され、英文の筆記体に似せています。
「ほくさゐゑがく くだんう志がふち」とあります。
左下に牛ヶ淵、左上に見えないはずの千鳥ヶ淵が描かれています。右に九段坂です。
九段坂上の田安門交差点、九段坂上KSビル(戦前は偕行社があった)前の植栽に、
東京九段ライオンズクラブによる「くだんざか・うしがふち 葛飾北斎」の碑が建っています。
植栽に建つ千代田区街灯と、街灯にとまっているテントウ虫です。
テントウ虫の背中の穴には光感知センサーが付いていて、暗くなると街灯が点灯します。
(説明板)
「くだんざか・うしがふち 葛飾北斎
北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては“九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新しい西洋風の写生的空間表現となっている。
東京九段ライオンズクラブ 2000年3月」
「江戸名所百人美女 いひ田まち」(豊国・国久)
こま絵には、九段坂、その左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。
通行人は武士が多く見えます。
元飯田町の土地柄から、高貴なお嬢さんがお点前の準備をしています。
「東京名所図会 九段坂牛がふち」(三代広重 明治3年 都立図書館蔵)
牛ヶ淵と田安門、九段坂が描かれています。
九段坂上には、明治2(1869)年に建てられた「招魂社」(明治12(1879)年に靖国神社と改称)も描かれています。
<千鳥ヶ淵から牛ヶ淵への落水>
千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は、江戸開府当時、飲料水を確保するためのダム(貯水地)として設けられました。
田安門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。
牛ヶ淵より千鳥ヶ淵のほうが水位が高く、牛ヶ淵へ水が落とされています。
夏の牛ケ淵は、蓮が水面を覆っています。
「北の丸公園周辺案内図」(環境省皇居外苑管理事務所)
九段坂に設置されている「北の丸公園周辺案内図」から、「牛ヶ淵」と「千鳥ヶ淵」部分の抜粋です。
<九段坂の現在の地図>
九段坂上にある濠北方面戦没者慰霊碑「塊」です。
オーストラリアの北方での戦没者を供養する慰霊碑です。
昭和39(1964)年11月3日、濠北方面戦没者慰霊会による建立です。
「豪州方面戦跡図」「明治天皇御製」
<尼港遭難記念碑>
以前は大正13(1924)年に建立された尼港遭難記念碑が建っていましたが、
昭和21年に政府の撤去指示通知が出されたため昭和22年に撤去され、残された台座が現在の慰霊碑に転用されています。
「九段坂上尼港遭難記念碑」(東京名所絵葉書 都立図書館蔵)
「江戸名所図会」
三坂のうち、一番北の坂です。
<現在の冬青木坂>
現在も坂道の北側には武家屋敷の石垣が残っています(現:フィリピン大使館)。
(標柱)
「冬青木坂
元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側は元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。
千代田区」
「江戸切絵図」
舟が通行できたのは堀留までで、さらに先の上流は武家屋敷からの下水路が北へ続いています。
堀留の西岸には、俎河岸がありました。江戸切絵図は北を上に回転させています。
<「俎橋」「どんどん橋(こうろぎ橋)」>
・俎橋(まないた橋)
九段坂を下りてくると、俎河岸のある堀留に架かる「俎橋」が描かれています。
立派な橋で、往来も多いです。
日本橋川最上流の荷揚げ場である俎河岸があり、積荷を積んだ船も多く行きかっています。
九段坂下は一段と幅が広くなっており、荷物がまだ積まれていない大八車が多く描かれています。
千代田区観光協会によると
「俎橋の名の由来は、はっきりしませんが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが
関係するといわれています。」とのこと。
江戸時代は、俎橋から先へ直進する道路はありませんでした。
明治になって神保町へと続く道路が設けられました(現在の靖国通り)。
・どんどん橋(こうろぎ橋)
冬青木坂の坂下、堀留の北端にかかっていたのが「どんどん橋」です。
現在の南堀留橋と堀留橋め間に架かっていましたが、現在はありません。
江戸名所図会では「とんとんはし」とありますが、江戸切絵図では「コウロギバシ」とあります。
「きりぎりす橋」とも呼ばれていたようです。
踏むとどんどんと音のする木造のそり橋がどんどん橋ですが、江戸名所図会では石橋にも見えます。
<現在の「俎橋」「南堀留橋」「堀留橋」>
・俎橋 千代田区九段北一丁目・九段南一丁目〜神田神保町三丁目
俎橋は現在も残っています。俎河岸の痕跡はありません。
2枚目は俎橋から北方向を見たところ、左手がかつての俎河岸。
3枚目は南堀留橋から南方向の俎橋を見たところ、右手がかつての俎河岸。
(参考)俎橋児童遊園 千代田区九段北1-1
俎橋の歴史と全く関係ありませんが、俎橋遊園にハレー彗星接近を記念した「寿人遊星」があります。
こちらで紹介済
・南堀留橋 千代田区九段北一丁目〜神田神保町三丁目・西神田三丁目
江戸時代の中坂下にはなかった「南堀留橋」です。
「昭和三年八月完成」とあります。
南堀留橋から、かつて堀留橋がかかっていた場所を見たところです。
・堀留橋 千代田区九段北一丁目・飯田橋二丁目〜西神田三丁目
江戸時代はこの地は陸地で、堀留橋は、もう少々南の、堀留端と下水路に架かっていました。
堀留橋袂に「傳蔵地蔵尊」が祀られています。
元の地蔵尊と新しく造れた地蔵尊の2体があります。
世継稲荷は、嘉吉元(1441)年、飯田町(現・九段坂〜中坂付近)に創建されました。
別名を田安稲荷(旧田安家敷地)と言います。
徳川秀忠が参詣した際、橙(ダイダイ)の木があるのを見て、「代々」と同音であることから
「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛しました。以来、世継稲荷と言われるようになったとのこと。
明和6(1769)年の2月7日の開帳には、笠森お仙が自分の人形を作って奉納するほど賑わっていたようです。
また、文久2(1862)年には、和宮様が御拝祈願あらせられたとのこと(以上、麹町区史より)。
<戦災焼失前の世継稲荷社殿>
「麹町区史(東京市麹町区 昭和10年)」(国会図書館蔵より)
<現在の世継稲荷社>
世継稲荷は戦災で焼失、同じく戦災で焼失した築土神社が昭和29(1954)年に、
世継稲荷神社の境内に遷座するに伴い、世継稲荷の社殿が再建されました。
<石祠>
社殿の右横に、狐像と石祠があります。
<山本社司之碑>
「昭和二十年三月十日 戦災に
御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
総理大臣 鳩山一郎書
中坂の下に滝沢馬琴宅跡があります。
説明板によると、「硯の井戸」は関東大震災で失われたとあります。
現在の井戸枠は昭和初期に復元されたもののようです(それとも震災で井戸枠だけ残った?)。
<都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸>
マンション入口に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑と、千代田区の説明板があります。
(説明板)
「滝沢馬琴の井戸跡
東京都指定旧蹟
1955年(昭和30年)3月28日指定
滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767-1848)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、「南総里見八犬伝」の作者としてよく知られています。
馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝のもとへ入門し、翌年大栄山人の名でデビュー作『尽用而二分狂言』を波票しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。
1824年(文政7年)に神田明神下同胞町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。 千代田区」
「瀧澤馬琴宅跡の井戸」(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 東京市公園課 大正11年)
関東大震災で失われた井戸の写真がありました。東京府の説明板が見えます。
東京市公園課の本文説明によると、子孫が住んでいるが度重なる火災で、井戸のみ残っているとのこと。
<硯の井戸枠>
マンションの庭に、硯の井戸枠があります。
「江戸名所図会と江戸切絵図」
滝沢馬琴が住んでいた中坂下の履物屋の場所を、江戸名所図会と江戸切絵図で確認すると以下の場所。
世継稲荷が近くにあり、滝沢馬琴は頻繁に参詣し、神社には馬琴ゆかりの品々がありましたが、
戦災ですべて焼失しています。
<現在の地図と滝沢馬琴硯の井戸跡>
九段坂上の靖国通り歩道に、千代田区町名由来板「九段二丁目」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 九段二丁目町会
九段二丁目
現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。
この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。
関東大震災以前はいまよりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。
また、坂上にある靖国神社は、新宿方面から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。
九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに、西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を拝み見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町と呼ばれていたのもそのためです。」
靖国通り沿いの公園で、長さは約100mです。旧富士見町。
公園の施設には田安門側から常燈明台、品川弥二郎像、大山巌像と顕彰碑、トイレ等があります。
江戸時代、九段坂上は月見の名所(二十六夜待)でした。
田安門脇から、九段坂公園が続きます。
田安門には几号水準点があります(こちらで記載済)。
(説明板)
「田安門
国指定重要文化財 1961年(昭和36年)6月7日指定
この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。
門は1620年(元和6年)に建築され、1636年(寛永13年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。
現存する石垣は戦災により崩れ、1965年(昭和40年)の北の丸整備に合わせて修復されたものですが、地上から2〜3段分は江戸時代の原型を保っています。 千代田区」
「田安見附」(江戸見附写真帖 国立国会図書館蔵)
九段坂公園から千鳥ヶ淵
<高燈籠(常燈明台)>
高燈籠(常燈明台)は、明治4(1871)年に靖国神社の燈籠として設置されました。
九段坂の上からは、品川沖を出入りする船の目印として灯台の役目も果たしました。
靖国通りの反対側に建てられていましたが、九段坂の改修に伴い昭和14(1925)年に現在地に移転しました。
(説明板)
「高燈籠(常燈明台)
高燈籠(常燈明台)は明治4年(1871年)靖國神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。
方位盤や風見が付けられ、いわゆる擬洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している。(右絵)
九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも臨むことができ、灯台の役目も果たした。
かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、この改修工事に伴い、大正14年(1925年)に現在地に移転した。 千代田区」
「最新東京名所写真帖 九段坂上の眺望」(小島又市 明治42(1909)年)
高燈籠(常燈明台)が以前の場所に見えます。
「九段坂五月夜」(小林清親 明治13年)
小林清親が九段坂を描いています。高燈籠(常燈明台)は、以前の場所に描かれています。
「九段坂」(井上安治)
井上安治も同じ場面を描いています。
<品川弥二郎像>
銅像の製作は本山白雲で、高村光雲が監督にあたっています(台石の裏面に記載)。
(説明板)
「品川弥二郎(1843-1900)
品川弥二郎は天保14年(1843年)、長州藩に生まれた。
15歳の時、吉田松陰の松下村塾に入門。練兵館で剣術を学んだ後、長州藩士として、高杉晋作らと尊皇捜夷運動、戊辰戦争で活躍した。
明治政府設立後、明治3年(1870)、ロンドン、ドイツ等の欧州に留まり、次第に政治や経済に注目するようになった。
帰国後、内務省、農商務省、宮内省に勤め、明治24年(1891)に内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任した。また、学校や信用組合や産業組合などの成立に関わった。」
「品川弥二郎像
品川弥二郎像は、明治40(1907年)に設置された。品川弥次郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでおり、練兵館に近い九段坂公園に像が設置された。監督は高村光雲※、原型作者は本山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。
※高村光雲:彫刻家。文久3年(1863年)仏師である高村東雲のもとで木彫を学んだ。木彫に写実主義を取り入れ、山崎朝雲、平櫛田中など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠木正成像」「西郷隆盛像」など。 千代田区」
「品川弥二郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保14年閏9月29日〜明治33年2月26日(1843年11月20日〜1900年2月26日)
(参考)
品川弥二郎が明治18 (1885)年に塩原温泉塩釜に建てた別荘が、
塩原妙雲寺に移築され保存されています(那須塩原市文化財)。こちらで記載済。
<大山巌像>
説明板によると、国会前庭(現:尾崎記念公園)にありましたが、
昭和23(1948)年GHQにより撤去、昭和44(1969)年に現在地に設置。
(説明板)
「大山巌(1842-1916)
大山巖は天保13年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。従兄弟である西郷従道(西郷隆盛の弟)は、盟友関係にあった。
薩英戦争での近代的な軍備に影響され、江川太郎左衛門のもとで砲術を習得した。
日清戦争では第2軍司令官、 日露戦争では満州軍総司令官を務めた。東郷平八郎と対を成して「陸の大山、海の東郷」と称された。
その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。」
「大山巌像
大山巌像は、大正8年(1919年)に現在の国会前庭に設置された。銅像は軍服を着た騎乗姿で、原型作者は新海竹太郎。近代の軍人像の中では、数少ない乗馬像の一つ。
昭和23年(1948年)、GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和44年(1969年)に現在地に移転した。」
「大山巌顕彰碑 (解釈文)
元帥陸軍大将、従一位大勲位功一級公爵の大山厳は、天保13年(1842年)10月10日に鹿児島県において生まれる。日清・日露の両大戦後に従い大正5年(1916年)12月10日、東京において薨かる。 千代田区」
「大山巌肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保13年10月10日〜大正5年12月10日(1842年11月12日〜1916年12月10日)
西郷隆盛の従弟であり、西郷隆盛に微妙に似ています。