○ 御竹蔵と御蔵橋
○ 本所御蔵跡
○ 小林清親旧居地(別頁)
○ 旧安田庭園
・松尾芭蕉句碑
・駒止石
○ 徳川家康像
・山下恒雄氏の他の作品
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板@
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板A
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板B
○ 葛飾北斎ゆかりの案内板C
幕府の材木蔵(後に米蔵)だった「御竹蔵」がかつて本所にありました。
隅田川からの御竹蔵への入堀に架かっていたのが「御蔵橋」です。
「江戸切絵図」
「御蔵橋」「御竹蔵」が見えます。御竹蔵は広大な敷地です。
堀に囲まれ、北の入堀には「石原橋」が架かっています。
隅田川の向岸には鳥越川が描かれ、北側に「浅草御米蔵」の記載が見えます。
<御蔵橋跡> 墨田区横網1-2-13
水上バス乗り場入口脇、子育て広場の端に説明板「御蔵橋跡」があります。
(説明板)
「江戸の町
御蔵橋跡 4
御蔵橋は、隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架かった橋で、この辺りにありました。
堀の突き当りは、御竹蔵(または御蔵地)という幕府の材木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れて、御蔵地へと収納するようにできていたのです。後に米蔵として使用され、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています。
御蔵橋は、池波正太郎の「鬼平犯科帳特別長編雲竜剣流れ星」にも登場していて「左側は、まんまんたる水をたたえた大川が黒く横たわり、ここへ来るとまったく人影もなかった・・・幅一間半、長さ五間の橋である。」と書かれています。
(御蔵橋 小林清親作)
墨田区」
<御竹蔵方面>
説明板の反対側の御竹蔵方面には、国技館(横網1-3-2)があります。
墨田区内循環バス「すみだ百景すみまるくん」が停留所に停車していました。
<両国ポンプ所水門> 墨田区横網1-2
隅田川テラスに降りると、両国ポンプ所の防潮のための水門があります。
水門は御竹蔵をイメージしているかと思います。
<浮世絵に見る「御蔵橋」>
国立国会図書館所蔵分のみからの抜粋です。まだまだあるかとは思います。
「名所江戸百景 両国橋大川ばた」(広重)
御蔵橋が描かれています。
「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」(広重)
御蔵橋が描かれています。
「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
御蔵橋部分の抜粋です。「御竹蔵入口水門」の記載が見えます。
両国橋の北袂から百本杭が見えます。
「絵本江戸土産 首尾の松大川端椎の木屋敷」(広重)
向岸に御蔵橋が見えます。
「絵本隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の二時」(北斎)
手前に柳橋、向岸に御蔵橋が描かれています。
「東都名所 両国橋夕涼全図」(広重)
向岸の左手に御蔵橋が見えます。
「江戸両国すずみの図」(豊国)
向岸の左手に「御蔵橋」が見えます。
「本所御蔵橋」(小林清親)
案内板にも掲載されている絵です。
「本所御蔵橋」(井上安治)
<石原橋>
御蔵橋の北の入堀(御竹蔵を堀が囲っていました)に架かっていたのが石原橋です。
現在の墨田区横網2丁目12番地に当たります。
「東都隅田川両岸一覧東」(鶴岡蘆水)
石原橋部分の抜粋です。入堀は「本所梅堀」との記載が見えます。
隅田川上流に「御馬屋河岸渡シ舟」とあります。
「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(葛飾北斎)
向岸の左手に石原橋が描かれています。
「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に「石原橋」が見えます。石原橋部分の拡大です。
「新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図」(北斎)
北斎が春朗時代に描いた浮絵です。手前に両国広小路、中央に両国橋、
その向こうに花火、向岸に御蔵橋と石原橋が見えます。御蔵橋と石原橋部分の拡大です。
「大川端石原橋」(小林清親)
小林清親が生まれた御蔵屋敷は、石原橋の南にあったようです。
明治13年の作品なので、向岸に見える煙突は、
明治28年に送電開始した蔵前の浅草火力発電所の煙突ではいようです。
「大川端石原橋」(井上探景(井上安治))
浅草御蔵は広大な敷地でしたが、本所の御蔵も広大な敷地です。
江戸東京博物館脇の歩道に、「本所御蔵跡」の令和3年の真新しい説明板があります。
(説明板)
「本所御蔵跡
墨田区横網一丁目4番・6番・8番・9番・10番、横網二丁目3番
本所御蔵は、米価の高騰が原因で発生した江戸初の打ち毀し(享保の打ち毀し)の直後に建設された江戸幕府の米蔵です。享保19年(1734)竣工の12棟棟88戸前の倉庫群から規模を拡大し、安政5年(1858)までに37棟246戸前を数えたとされています。敷地面積は4万4千坪(約14万5千u)で、その範囲は現在のJR両国駅から都立横網町公園にかかる一帯に及びます。
本所御蔵跡については、平成1年(2001)に部分的な発掘調査が実施され、掘割や護岸の跡、徳川家の三葉葵紋をあしらった瓦などが出土しました。また、御蔵が廃止された明治5年(1872)以降に設置された陸軍被服廠に関する遺物(木製の荷札など)も見つかりました。
こうしたことから、本所御蔵跡の大部分は、周知の埋蔵文化財包蔵地に指定されています。
令和3年3月 墨田区教育委員会」
東京都から移管され、墨田区立の庭園。入園料無料。
入り口は東門と西門、2か所あります。
(説明板)
「旧安田庭園の沿革
元禄年間(1688?1703)に、徳川5代将軍綱吉 の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷
として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である。
明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は、東京市
に寄付された。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園
」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。
昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に新装開園し、現在に至っている。
明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園
に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年(1996)、東京都の「名勝
」に指定された。」
案内板に記載なく、説明板もありません。案内図に場所を記載。
「ミの虫の音をきゝにこよ草の庵 はせを」
享和3(1803年)建立。
<三猿の水盤>
芭蕉句碑の隣に水盤があり、3猿が刻まれています。
<観音石龕>
くり抜いた石祠の中に、如意輪観音が安置されています。
(説明板)
「駒止石 5
三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。
本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせようとしました。
しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休息したところが駒止石です。
当時、この辺りに住んでいた人々が、忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。」
<水門跡>
潮入の池復活のための説明を読むと、庭園復活への墨田区の取り組みがわかります。
(説明板)
「水門跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。
この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ導水溝も埋められてしまいました。
潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。
墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干潟を表現する潮入を再現しました。
本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。 墨田区」
徳川家康像は、(一社)江戸消防記念会が、江戸東京博物館に平成6(1994)年4月25日に寄贈したものです。
都内の家康像はここだけのようです。
台石は、江戸消防記念会のHPを見ると、「亀」ではなく「贔屓」と記載しています。
耳も牙もなく、おっとりした表情で「亀」に見えます。
作者「山下恒雄」の作品は、2者の合体が多いので、「贔屓」と「亀」の合体かもしれません。
○寿人遊星 千代田区九段北1-1(爼橋児童遊園)
爼橋児童遊園に鎮座するハレー彗星接近を記念した「寿人遊星」(作:山下恒雄)。
寿老人とハレー彗星の合体です。
(説明プレート)
「寿人遊星
この彫刻は、一九八六年ハレー彗星の地球接近を記念し、人々の清福を望み,星と縁(ゆかり)の深い“寿老人”を模して製作されたものであり、「彫刻のあるまち・千代田」として、潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した絵本「かんだ彷徨」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
昭和六十一年七月 千代田区
”開・銘板 二〇六一年 ハレー彗星接近の年”」
○金鋼鎚起 豊展観守像 千代田区神田錦町1-29-10(神田橋公園)
神田橋公園に鎮座する「金鋼鎚起 豊展観守像」(作:山下恒雄)です。
こがね虫と人間の合体です。
(プレート説明)
「金鋼鎚起 豊展観守像
山下恒雄作」
「金鋼鎚起 豊展観守像
この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
平成三年九月 千代田区」
○布袋像「慧」 千代田区神田駿河台3-9 三井海上本社ビル
蔵前橋から上流の隅田川緑道公園にあります。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
@ 御厩川岸より両国橋夕陽見 - 冨嶽三十六景
-
富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。夕陽に浮かぶ富士山を中心に、船の往来でにぎわう両国橋や、様々な客でひしめきあう御厩川岸の渡し船の様子が描かれています。構図上の特徴は、船頭の頭を中心点として、橋の曲線と船の弧が点対称になっている点です。また、活き活きとした波の描写には、北斎らしさが表れていると言えるでしょう。御厩川岸(おんまやかし)の名は、江戸時代、西岸の浅草に幕府の馬小屋である御厩があったことに由来します。現在の墨田区本所1丁目あたりから台東区蔵前2丁目あたりを結んでいた渡し場がありました。」
隅田川下流に蔵前橋、上流に厩橋
刀剣博物館対面の隅田川緑道公園にあります。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
A 首尾松の鉤船 椎木の夕蝉 - 絵本隅田川両岸一覧
-
隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているのが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。
釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。」
旧安田庭園西門に面した国技館通りの歩道にあります。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
B 駒止石 -馬尽-
文政時代(1818-1830)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永8(1631)年の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。」
両国国技館前の国技館通りの歩道にあります。
他に北斎の絵が3枚掲示されています。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
C 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 -絵本隅田川両岸一覧-
狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。」